このページではjavascriptを使用しています。JavaScriptが無効なため一部の機能が動作しません。
動作させるためにはJavaScriptを有効にしてください。またはブラウザの機能をご利用ください。

宇田荻邨の絵画の世界

陰里鉄郎

 宇田荻邨が83歳6ケ月の長寿ともいっていい享年をもって逝去したのは,1980年(昭和55)1月末のことであった。それからはや3年が経過している。この没後3年を記念し,荻邨の郷里である三重県の美術館においてその主要な遺作を網羅した「宇田荻邨展」が開催されることになった。この展覧会は,荻邨没後のほとんど最初の遺作展であることにあわせて,昨年(1982)秋に開館したばかりの三重県立美術館にとっては,日本の画家の個人展,また三重県という郷土と深い関係をもった画家の個人展として,開館後はじめての記念的な展覧会でもある。


 宇田荻邨は,晩年,しばしば「京洛の画家」とよばれた。周知のように荻邨は,伊勢松阪の出身であるが,大正初期に絵画勉学のために上洛して以来,終始,京都にあって活動し,その地に没した。その前半期にあたる大正から昭和前半期,敗戦までの戦前のながい画業修練の時期には,いくつか傑出した秀作を生みだしながらも,様式的には振幅の大きい遍歴を重ねており,ようやく戦後になって独自の“荻邨の絵画世界”といえる境域を形成しているようにうかがえる。「京洛の画家」の呼称は,その境域での仕事のはとんど多くが,古都京都の現在の風物や洛外の四季の風景といった題材に限られていることによっている。しかも,その絵画世界は,繊細な筆致によって描出された典雅清麗な詩情をたたえていて,いかにも「京洛の画家」とよぶにふさわしい。『祇園の雨』(1953)から『清水寺』(1957)『桂離宮笑意軒』(1964)といった作品をへて最晩年の『嵐山』にいたる作品を通観すれば,それらは,伝統の地に培われた京都の日本画,京都以外のどこにも見出すことのできない日本画であることも,たしかなことに思える。そして京都の風物や洛外の風景が,とりたて珍奇でも奇勝でもない,ごく平凡なものであるにもかかわらずいまなお多くの人びとを魅了してやまないように,荻邨の戦後の作品は造型の堅固さや様式美の華やかさ,思考の新しさや面白さといったものとは無縁のところで坦々とただ自然と自己との交感をこまやかに描きだした清爽な魅力をもつ画面となっている。

 明治期から,いやそれ以前の江戸期から,江戸派,京派,また東京派,京都派,東京画壇,京都画壇といった大雑把な区分がよく使われてきているが,文化を生みだす風土と歴史の相違は明らかに存在したし,その意味では,荻邨は,徹頭徹尾,京都派・京都画壇の画家であったというしかない。しかし,京都派の,京洛の画家とよばれるようになったその内実はどうであったのか,その荻邨の芸術はいかように形成されていったのか,今回の展観では,荻邨の作品をとおして,京都の詩的情趣を享受したり,京都の伝統画派の洗練された美しさを見ることができると同時に,これらのことなどをわれわれに多く語ってくれるに違いない。荻邨に関する詳細な評伝は他にゆずるとして,ここでは,荻邨芸術の形成の概略を記しておきたい。


 宇田荻邨(本名,善次郎)は,1896年(明治29),松阪市魚町に生まれている。松阪といえば,江戸期以来,紀州徳川藩領で松阪木綿の産地,伊勢商人の本拠地として知られ,また参宮街道に位置し,さらには和歌山,熊野の各街道の要地でもあり宿場としても繁栄した土地であった。坂内川,金剛川に挾まれた平地で,荻邨が生まれ育った魚町は,坂内川の南,松阪城の東に位しており,著名な本居宣長の鈴屋ももとこの地にあり,荻邨は幼時からそれに親しんでいたという。鈴屋を遊び場ともした荻邨にとって本居宣長は,心情的にはきわめて親しい存在であったろうことは想像に難くない。後年,荻邨は客間に宣長の書幅を懸けていたことを自らも語っているが,思想的な感化とよべるはどのものではないにしても,その親和の感情は相当に深く,つよくあったと推察される。とりわけ晩年の荻邨の作品にみられる美意識には,倫理観と一体となった自然観照の態度が感じられる。例えば,最近の荻邨論のなかでしばしば引用される荻邨の談話に, 「何故,今の日本画家は,京都を,もっとかかんのやろ。不思議でんなあ。変ったといっても,まだまだ,ええ所があります。みんな,アルプスの岩山とか,荒々しい海岸とかかきよる。それはそれ自体,迫力ありますね,力強さを出しやすいんとちがうやろか。それにくらべたら,京都のまるみをもったやわらかい自然の姿は,なんかこうたよりのうて,画にするのにむずかしい。だけど,昔からやまと絵が,かいてきた風景が,京都には生きてますよ。これこそ,まことの日本画の世界ではないやろか。」(小林徹「萌春」253,昭和51年4月)とある。これは,すでに京洛を描きつづけてきた,80歳に達した荻邨の言葉であるが,極度に抵抗感を抑制した自己表現の画面を描いてきた荻邨の美意識と生き方といったものを聞きとることもできる。そしてその背後に宣長への親和感を感じさせるのである。ともあれ,稿者は本居宣長について述べるはどに充分な用意はないが,荻邨の出自と作品とを想起すれば,そう思われてくるのである。

 荻邨が,本格的に絵画勉強のために上洛したのは,1913年(大正2)のことであり,菊池芳文(1862−1918)の門に入っている。ここで近代の京都画派について触れておかねばならないであろう。皇城の地京都は,幕府が江戸に存在したとはいえ,狩野派,土佐派といった近世初頭以来の流派の命脈は生きていたが,江戸後半から末期にかけて勃興してきたのが南画派,写生派であった。大雅,蕪村にはじまる南画派,応挙にはじまる円山派,四条派の系譜は,とくに後者は京都において圧倒的な勢力をしめていた。荻邨が師事した芳文は,四条派の流れを正統にくむ幸野楳嶺(1844−95)の門下で,その四天王のひとりといわれている。芳文の死後(1918年,大正7),荻邨は芳文の養嗣子菊池契月(1879−1955)に師事している。幕末から明治初期にかけて,前記の南画派,円山・四条派のほか,望月派,岸派,森派,鈴木派等々と諸流派があげられるが,狩野・土佐両派を基盤とし,新たに写生的要素を重視した円山・四条派の出現から,それらをそれぞれが適当にくみこんだ恰好でこれらの諸派は派生している。このようにみれば,荻邨は,近世末以降の京都画派のなかで主派をなした円山・四条派の正系に属したと考えてよいであろう。もちろん,各派の画家は,新しい時代を迎えてそれぞれに近代化の苦闘を試みており,芳文と同門の竹内栖鳳(1864−1942)は洋風表現をとりいれて京都派の近代化の先頭に立っていたのであったが,荻邨の二番日の師契月も,大正後期の渡欧体験から栖鳳とは異った近代化を試みている。こうしたなかにあって荻邨は,従来の四条派が転回をとげつつあった1910年代に京都画派のなかにとびこんでいるのである。

 上洛以前の荻邨は,二見町の画家中村左洲(1873−1953)について絵画の初歩を学んだという。左洲の師,磯部百鱗(1838−1906)もかつて京に学んでおり,そのはかの画家たちのことを考えても伊勢の絵画は,伝統的に京派の系列につながっており,荻邨の上洛もその意味ではごく自然のことであったのであろう(上京組も例外には存在する)。

 荻邨は,菊池門下生となると同時にかたわら京都市立絵画専門学校別科に入学している。その在学期間は1914年(大正3)から17年(大正6)春までである。同期生に本科では榊原始更(1895−1969),別科では徳岡神泉(1896−1972)がおり,二級上に甲斐荘楠音(1894− ),玉村方久斗(1893−1951),一級下に岡本神草(1894−1933),二級下に中村大三郎(1898−1947)らがいた。在学中から甲斐荘楠音,榊原始更,岡本神草らと研究グループ密栗会をつくっていた。荻邨の画壇へのデビューは1919年(大正8)の第1回帝展における『夜の一力』においてであった。以後,荻郁の作品発表は,いわゆる官展を中心として行なわれることになる。しかし,荻邨に限らず,官か在野かといったことはさほど問題ではない。大正期の荻邨の,『夜の一力』から『巨椋の池』(1924)をへて『淀の水車』(1926)まで,この時期の作品は興味ぶかい展開をみせている。それは,京都派のタテの系譜とは別の,ヨコの関係,時代の動向とふかくかかわるものであった。

 明治末期,1910年(明治43)前後は,日本の文芸界にとっては大きな転回期であった。東京における雑誌『白樺』創刊はそれを代表するが,美術界においては明治絵画の集大成の形をとった文展(文部省美術展)も4回目を迎え,新旧両派の勢力争いなどとは次元を異にした本質的な部分での絵画の変革のきざしが現われはじめていたのである。海外の新しい文芸思潮は,日露戦後の渡欧者たちの帰国によってつぎつぎと紹介され,文展を中心とする絵画の微温的な表現をあき足りなく感じていた青年美術家たちをつよく刺激した。こうした渦のなかから生れたのが,洋画界においては高村光太郎,斎藤與里を中核とし,若き岸田劉生,萬鉄五郎らによるフュウザン会の出現であった。1912年(大正元)のことである。それは総体的にいえば,ゴッホ,ゴーギャン,セザンヌなどの後期印象派の影響や反映をもった革新集団であった。短期間で消滅したが,フュウザン会の質的な部分は,1914年(大正3)の最初の在野集団二科会に継承されていくことになった。1914年はまた日本美術院再興の年でもあった。横山大観を中心に今村紫紅,安田靫彦,小林古径といった青年画家たちがこれに参加している。フュウザン会のまえに,若き文学者たちと美術家たちとが隅田川をセーヌ川に見たてて交遊した世紀末的な耽美主義的文芸運動「パンの会」(1908−12年継続)があったことも忘れてはならない。

 こうした東京の動きに対して,京都においても同様に小集団ではあったが,伝統的な四条派の支配する秩序を揺がす芽が現われてきている。「シャ・ノアール」(黒猫会)から「ル・マスク」(仮面会)の出現がそれである。1908−09年(明治41−42),滞欧して美術を学んだ田中喜作〈1885−1945)を中心にしてはじめられた研究集団「シャ・ノアール」は,パリのモンマルトルにあった同名の小キャバレー,文学カフェの名からとっている。パリの「シャ・ノアール」は印象派の画家たちの行きつけの店であり,ロートレックはそこの常連であったという。

 黒猫会に参加したのは田中のはか,土田麦僊(1887−1936),小野竹喬(1889−1976),秦輝男(1887叫1945),黒田重太郎(1887−1970),新井謹也(1884−1966),田中善之助(1886−1946)などであったが,1910年(明治43)12月にはじまり,わずか5ケ月でおわり,仮面会にひきつがれる。仮面会は,画家5名によって発足,展覧会活動を開始,1912年第2回展を開いて終っている。いずれも短命であったが,これは1918年(大正7年)の国画創作協会(国展)結成へとつながっていくことになる。黒猫,仮面の両会は,ヨーロッパの世紀末芸術,後期印象派の反映をもつものであった。仮面会から国展発足までの間,麦僊一派は知恩院山内にたむろし,東山連中,知恩院派と呼ばれたという。同期の一時期,荻邨も知恩院山内に住んでおり,また「密粟会」を通しても・部L会以後の若い画家たちの動向になじんでいたに相違ない。この知恩院派は,東京における目黒派=赤曜会を連想させる。目黒派は今村紫紅を中心とした院展の若い画家たちで,紫紅は「おれが打ち壊す,君たちは建設しろ」と若い画家たちに云っていたというが,紫紅の強烈な後期印象派的作品から再興院展の革新的な動きは推進されていったのであった。

 荻邨の初期の作品で,今回はじめて公開されるいくつかは,この大正前半期の京都の若い画家たちの模索の姿をよく示している。『波切風景』,『湖水風景』,『黄昏の祇園』など制作の年記は正確には判らないがこの時期のものであろう。こうしたあとは,荻邨は『夜の一力』をもって自己の出発を飾っているのである。『夜の一力』から『太夫』『港』『南座』『木陰』が一つの作品群をつくっていることは明らかであろう。1919年から22年(大正8−11)のものである。暗い色調,怪奇性など,それらは膨らみをもった調子と曲線でも共通している。そこに,世紀末芸術の特色をみることは容易だし,そしてそれは麦僊をはじめ,神草,あるいは村上華岳(1888−1939)など,国展のメンバーの同時期の作品とも共有する性質のものである。1922年(大正11)ごろ,荻邨は洛西の北野白梅町に転居し,終生そこに住むことになったが白梅町では住居とアトリエを,麦僊から譲りうけたという。荻邨は,麦僊とは一世代はどの年令差があるが,相当に観衆していた気配が感じられる。

 荻邨が世間的評価を確立したのは,1926年(大正15)の『淀の水車』においてであった。今回の展覧会には出品できなかったが,青と緑と金茶,それに胡粉の白によって構成された画面は,さきの暗調の画面からは一転した明るく,装飾性のたかい画面になっている。その系列は,『(えり)』(1931),『梁』(1933)につづいている。『淀の水車』は,荻邨自身「写生から実感に桃山調子やら扇面古写経の感じなどを取り入れてみた」と述べているものであるが,端麗優美な色調と線条はたしかに気品の高い装飾感を生みだしている。しかし,ここで『南座』『木陰』から『淀の水車』『(えり)』『梁』への展開の中途に,『巨椋の池』(1924),『渓間』(1927),『高雄の女』(1928)といった作品が介在していることが注目される。古画の『蓮池水禽図』の宋代院体画風や狩野派の漠画風の表現,さらには一転して麦僊をとおしての後期印象派的表現といったようなものがこれらの画面の随所に見られることである。荻邨は,『淀の水車』において,一つの頂点をつくりながらも揺れ動いていた様子がよくうかがえよう。こうした表現や様式における荻邨の振幅は,戦中,戦後の最初期までつづいていたように思われる。

 昭和前半期(1926−45)の荻邨の心情をよく語りつたえているのが,本誌に再録した「思ふこと二三」(雑誌『塔影』15−5,昭和14年9月号)であろう。ファシズムによる文化破壊の重苦しい時代であったが,荻邨は「画道の堕落は誰もが知っている。誰が堕落させたのか」と彼自身の言葉でいえば不平をつぶやいているが,愉快に,思うままに描けない不自由を自己の環境のなかで述べている。そこには,時代の状況と,京都という環境に対する反撥が記されている。

 「京都はどうやら貴公子の街であり,土地であるらしい。自然でもさうである。山も川も目鼻立ち正しく整ってゐる。一寸した郊外風景も優雅であり,可憐である」と記しながら,木曽の天竜下りの経験を語り「男性的な豪快な景観」に触れる必要を語っている。また,「京都に住んで随分久しくなるが,景色はいいと思うても,それでも何やら変に土地になじまぬ心地がする」ともいい,仲間と洒を飲んでもまた独りで飲みなおさねば解放感がえられない旨を記している。京都の人と土地に対する異和感はけっして小さくはなかったのであり,のちの「京洛の画家」の言葉とは考えられないかもしれないはどの異和感を抱いていたように思われるのである。このことは,前記の荻邨の作品にみられる揺れ動く様子,その遍歴とも無関係ではなかったであろう。


 戦後の荻邨の画面についてはさきに触れたが,敗戦後の平和な時期を迎え,年令的にも,今ふうに云えば熟年に達して荻邨は,これまでの動揺や遍歴を克服して,“荻邨の絵画世界”の境域をつくりあげたのであろう。出発点からたどってみてくると,それは過去の様式変遷をほとんど切り棄てたところに形成されたようにみえる。そしてあの異和感をも超克して京都という歴史と伝統の環境のなかに静かに自己を置きなおしたようにみえる。その新たな出発が『祇園の雨』(1953)であったのではなかろうか。以後,振幅は感じられないのである。

  

(三重県立美術館長)

ページのトップへ戻る