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高村光太郎・智恵子 年譜

山口泰弘・編

【凡例】

  • 年齢は数え年で示した。
  • 「光太郎作品」の項は、造型作品に限定して掲載した。智恵子の作品については、「智恵子事項」を参照。また、光太郎の美術評論については、別項、「文献抄録」を参照。
  • 作品名に賦したアスタリスク(*)は、本展出品作品であることを示す。
  • 本年譜は、北川太一氏制作の年譜に依拠し、それを勘案した。

西暦
(和暦)
光太郎年齢・事項 光太郎作品 智恵子年齢・事項
1883
(明治16)
1 3月13日誕生。父木彫家高村光雲(32歳、本名光歳、通称孝吉)、母わか(27歳、通称とよ)の長男として、東京市下谷区西町三番地に生まれる。本名光太郎(みつたろう)、のち光太郎(こうたろう)と称す。      
1886
(明治19)
4     1 5月20日、酒造業長沼今朝吉、センの長女として福島県安達郡油井村字漆原24番地に生まれる。チヱと名付けられた。
1887
(明治20)
5 この年はじめ、下谷区仲御徒町1丁目61番地に転居。   2  
1888
(明治21)
6 4月、練塀小学校に入学。このころ、父から小刀などを与えられ、木彫の修練をはじめる。   3  
1890
(明治23)
8 4月、下谷区谷中町37番地に転居。日暮里小学校に転校。   5  
1892
(明治25)
10 4月、下谷小学校で高等小学校の課程に入る。11月、本郷駒込千駄木林町155番地に転居。   7  
1893
(明治26)
11     8 4月、油井小学校に入学。
1894
(明治27)
12   手板肉合「紅葉と宝珠」* 9  
1895
(明治28)
13   手板肉合「猪の首」* 10  
1896
(明治29)
14 3月、高等小学校を卒業。4月、共立美術学館(本郷区森川町1番地241号)予備科に学期の途中から入学、中学の課程を学ぶ。 手板浮彫「兎」*、手板浮彫「鼠」*、手板肉合「青い葡萄」 11  
1897
(明治30)
15 8月、共立美術学館予備科卒業。9月、東京美術学校予科入校。このころから読書、英語、ヴァイオリン、歌舞伎、清元、寄席等々に没入する。   12 4月、補修科に編入。5月から高等科制度となる。
1898
(明治31)
16 3月、美術学校事件が起こり、校長岡倉天心ら美術学校を辞職。父とともに一時学校を退いたがまもなく復学。9月、本科一年彫刻科に進学する。森鴎外が美学、黒川真頼が日本史を講義。別個に漢籍を耽読する。 手板浮彫「羅漢」(1)*(2)* 13  
1899
(明治32)
17 同級生と回覧雑誌をつくり、紀行文等を書く。 木彫「兎」 14  
1900
(明治33)
18 『ホトトギス』等に投稿。のち、与謝野鉄幹に惹かれ、新詩社に入る。5月10日から30日まで、上野公園第5号館で開かれた彫塑会第一回展覧会に塑造「観月」を出品する。10月、篁(たかむら)砕雨の名で『明星』にはじめて短歌が載る。以後、廃刊にいたるまで、短歌、詩、戯曲、翻訳などの重要な発表の揚となる。 浮彫「中島兼吉像」*、塑造「観月」 15  
1901
(明治34)
19 5月中旬から6月1日まで、東京美術学校内校友会倶楽部において開かれた彫塑会第二回展覧会に、石膏浮彫「仙」「まぽろし」を出品。9月、修学旅行で奈良に行き、仏教彫刻に触れる機会を得る。 浮彫「仙」、浮彫「まぼろし」 16 4月、町立福島高等女学校3年に編入。福島に下宿。
1902
(明治35)
20 7月、東京美術学校彫刻科(木彫)を卒業。卒業制作塑造「獅子吼」。研究科に残り、渡辺長男らの彫刻科同窓生のグループ彫塑会に属する。臨済禅に惹かれる。 塑造「獅子吼」*、手板浮彫「羅漢」 17  
1903
(明治36)
21 前年末かこの年はじめにロダンの彫刻「詩」の写実をみ、3月21日の日記に「今に至りて忘るる能はず。巨匠なるかな」と記す。東京彫工会の委員に・щ唐ウれる。三木竹二らの彫塑同好会にも所属する。 塑造「五代目菊五郎像」(亡失)、塑造「解剖台上の紅葉山人」* 18 3月、高等女学校を卒業。4月、東京小石川の日本女子大学校普通予科に入学。翌年、家政学部に進む。
1904
(明治37)
22 雑誌『ステュディオ』2月号でロダンの彫刻写真「考える人」を見て衝撃を受ける。夏、赤城山に約一カ月滞在する。8月には与謝野鉄幹、石井柏亭ら新詩社の同人が訪れる。 浮彫「伊井蓉峰條」、浮彫「九代目団十郎像」、塑像「秋意」(廃棄) 19  
1905
(明治38)
23 4月、新詩社演劇会で戯曲「青年画家」等上演。光太郎も「放心家」に出演する。5月1日から28日まで、上野公園第5号館で開かれた第一回彫塑同窓会展覧会に塑像「薄命児」を出品。このころ、丸善でモオクレエル『オオギュスト ロダン』の英訳本を手にいれ、耽読する。9月、彫刻研究科から西洋画科に転ずる。 塑造「泣いている少女」(亡失)、塑造「薄命児」(今展には現存する男子頭部のみ出品)、ほかに研究科時代の「猪」「虎の首」*「鶏の首」*などの石膏習作がある。 20  
1906
(明治39)
24 2月3日朝、横浜を出港、アメリカに渡る。自費留学。同月27日ニューヨークに着く。5番街の素人下宿に落ち着き、はじめナショナル・アカデミー・オブ・デザインの夜学に通う。5月から8月まで彫刻家ボーグラムの通勤助手をつとめる。週給6ドル。西65丁目の屋根裏部屋に移って自炊をはじめる。メトロポリタン美術館ではじめてロダンの実物「ヨハネの首」のブロンズを見る。ニューヨークでは白滝幾之助の世話になり、柳敬助・荻原守衛らを知るようになる。10月から翌年5月まで、アート・ステューデンツ・オブ・ニューヨークの夜学に通い、木炭画や彫塑を学ぶ。 塑造「岡野昇像」(焼失)、塑造「ラスキン胸像(ボーグラム模刻)」* 21 10月、秋季文芸会で舞台の背景画を描く。
1907
(明治40)
25 学校で翌年度の特待生に選ばれる。6月19日、ニューヨークを発ち、イギリスに渡る。サザンプトン到着後ただちにロンドンに向かう。父の配慮によって、7月12日付で農商務省の海外実業練習生となり月額60円の給付を受けるようになる。ロンドンではブラングインの画学校に通ったりする。バーナード・リーチと知り合う。8月、パリからきた荻原守衛と会う。11月初旬、1週間ほどパリヘ行き、ロダンの留守のアトリエを訪れる。また、荻原と会う。   22 大学校を卒業。両親の反対を押切って東京に残り、太平洋画会研究所に通う。
1908
(明治41)
26 6月10日、ロンドンをたち、パリに移る。リュ・ド・テアトルの畑正吉の下宿に入る。後、モンパルナスのカンパーニュ・プルミエール街のアトリエ地階の一室を借りて落ち着く。昼はアトリエで胸像をつくり、夜はグラン・ショミエの研究室でクロッキーを学ぶ。   23  
1909
(明治42)
27 3月帰団を決意し、与謝野鉄幹の紹介状をもってきた梅原良三郎(龍三郎)にアトリエを引き渡すことを約す。3月21日夜、パリを発ち、アルプスを越えてルツェルン、パドヴァ、ヴェネツィア、フィレンツェ、ローマとイタリアを旅行し、4月パリに戻る。5月、いったんロンドンに渡り、15日テームズ河口から河波丸に乗って帰国の途に着く。6月30日、神戸入港。父に迎えられる。7月、荻原守衛を角筈のアトリエに訪ねる。雑誌『スバル』9月号に「アンリ マチスの画論」を訳載。駒込林町の父の邸内の祖父の隠居所をアトリエに改造して制作。一方、北原白秋、木下杢太郎らの「パンの会」に接近。   24 4月、桜楓会が雑誌『家庭』を創刊。橋本(のち柳)八重の依頼で挿絵を描く。
1910
(明治43)
28 4月、『早稲田文学』にゴーギャンを紹介し、『スバル』に評論「緑色の太陽」を発表する。4月15日、神田淡路町に画廊「琅■(かん)洞」を開き、弟道利に経営させる。ここに自分の作品や斎藤与里・荻原守衛・柳敬助・津田清楓・山脇信徳・石井柏亭らの絵や彫刻や版画、文学者の短冊などを展示する。営業的には失敗。同月16日、奈良に遊ぶ。旅行中、荻原守衛の訃報を聞き、25日帰京。その後、柳敬助と戸隠に遊ぶ。秋ごろから浜町河岸に下宿。11月、三州屋パンの大会。 油彩「風景(庭)」* 25  
1911
(明治44)
29 1月、『スバル』に「失はれたるモナ・リザ」「根付の国」を含む「第二敗闕録」五篇を発表する。下宿を引き払い実家に戻る。2月12日、よか楼パンの大会。5月、北海道移住を志し、4日東京を発って月寒の農商務省研究所にゆくが、月末には失望して帰る。北海道行に伴い、4月15日琅■(かん)洞を閉鎖。後、大槻弐雄に譲る。家督一切を弟豊周にゆずることを父に申し出る。6月、「光雲還暦記念胸像」を完成する。12月、柳八重(柳敬助夫人)の紹介で『青踏』の表紙絵などを描いていた八重の女子大学校時代の後輩長沼智恵子がアトリエを訪れ、知り合う。 塑造「光雲還暦記念胸像」(焼失)、塑造「光雲の首」* 26 9月、平塚らいてうら、女性雑誌『青踏』を創刊。表紙に絵を描く。青踏杜には一定の距離をおき、社員として積極的に参加していない。ゴーギャンやセザンヌに傾倒。12月、柳八重の紹介で駒込林町155番地の光雲邸内にあった光太郎のアトリエを訪ねる。
1912
(明治45)
30 父の肖像彫刻の原型造りや翻訳の稿料で糊口をしのぐ生活が続く。2月、三州屋パンの大会。4月1日から7日まで早稲田大学高等予科教室において開催された早稲田文学社主催装飾美術展に塑造「紫朝の首」を出品する。同月4目、上野新坂下伊香保において、光雲門下一同による還暦祝の寿像(光太郎作)贈呈式が行われる。6月、駒込林町25番地にアトリエ完成。8月、岸田劉生・木村荘八・萬鉄五郎らのフュウザン会(はじめヒュウザン会)を結成。10月15日から11月3日まで、ヒュウザン会第一回展覧会が読売新聞社三階で開かれ、油絵「食卓の一部」「つつじ」「自画像」「少女」を出品する。 塑造「紫朝の首」 27 4月、早稲田文学社主催の装飾美術展覧会に作品を発表。同展には光太郎も出品。太平洋画会第十回展覧会に油絵「雪の日」「紙ひなと絵団扇」を出品。6月、『青踏』に「マグダについて」を発表。光太郎の経営する琅■(かん)洞で智恵子の「うちわ絵」と田村とし子の「あねさま」陳列会が開かれる。8月と11月、雑誌『劇と詩』の扉絵を描く。
1913
(大正2)
31 3月11日から31日までフュウザン会第二回展覧会が開かれ、塑造「男の首」を出品する。5月、フュウザン会分裂。岸田劉生・木村荘八・岡本帰一と生活社を起こす8月初旬より信州に滞在し、9月には長沼智恵子も来る。その後、婚約。10月16日から22日まで、神田仲猿楽町のヴィナス倶楽部で生活社主催油絵展覧会が開催され、彫刻1点のほか、信州で描いた油絵等21点、ペン画3点を出品する。 塑造「松方正義の首」*「男の首(真田久吉像)」、塑造「トルソ」、油彩「松岡玉治邸像」*、油彩「静物(洋酒瓶)」*、油彩「自画像」4点(1点現存)*、油彩「樹木の群」、油彩「木立と山」、油彩「六百嶽」、油彩「小川と楊」、油彩「池」、油彩「青い山」など 28 9月、光太郎のいる上高地に赴く。10月、帰京。のち婚約。油彩「樟樹」*
1914
(大正3)
32 10月、最初の詩集『道程』を抒情詩社から自費出版する。12月22日、長沼智恵子と結婚し、駒込林町二十五番地のアトリエで生活をはじめる。「荻原守衛の首」を手掛ける(未完)。 油彩「佐藤春夫像」*、油彩「裸婦像」、油彩「静物」* 29 9月、桜楓会の『家庭週報』に詩「無題録」三篇を発表。12月、アトリエでの光太郎との生活が始まる。
1915
(大正4)
33 このころより彫刻の制作に専念する。『ロダンの言葉』を訳しはじめる。7月、『印象主義の思想と芸術」(近代思想叢書第五巻)を天弦堂書店より上梓。この年十五銀行委嘱による「園田孝吉胸像」が完成する。これは依願による最初の肖像彫刻。 塑造「園田孝吉胸像」*、浮彫「園田孝吉像メダル」*、油彩「静物」 30  
1916
(大正5)
34 11月、訳編『ロダンの言葉』を阿蘭陀書房より出版する。塑像「智恵子の首」制作。 塑造「今井邦子像」(亡失)、「智恵子の首」(亡失) 31 2月、『美術週報』に「女性作家の美術観」を発表。
1917
(大正6)
35 3月、石彫のための大理石を探す目的で、磐城湯本方面を旅行。秋、アメリカで彫刻の個展を開くことを計画し、資金獲得のため彫刻頒布会を企画する。入会者が少なく、失敗。塑像「手」「裸婦」など初期の代表作は頒布会のために制作。 石彫「婦人像」(大理石・亡失)、塑造「裸婦坐像」* 32  
1918
(大正7)
36 1月、『白樺』ロダン追悼号付録に「ロダンの言葉」を訳載する。以後数年にわたって「ロダンの言葉」を継続的に訳し、後単行本『ロダンの言葉』としてまとめる。 塑造「手」*、塑造「腕」*、塑造「ピアノを弾く手」*、塑造「ヒポクラテス胸像」*、塑造「浅見与一右衛門像」(戦時供出)、油彩「渡辺湖畔の娘道子像」* 33 5月、父今朝吉没(56歳)。粘土で彫塑を試みる。
1919
(大正8)
37     34 春、体調を崩し、順天堂病院に入院。
1920
(大正9)
38 5月、訳編『続ロダンの言葉』を叢文閣より出版する。帰郷中の智恵子を実家に訪ね、ともに二本松、穴原温泉に遊ぶ。   35 帰郷中を訪れた光太郎とともに二本松、穴原温泉に遊ぶ。
1921
(大正10)
39 4月、エリザベート・ゴッホ『回想のゴッホ』の訳書を叢文閣より出版する。   36  
1923
(大正12)
41 1月、インフルエンザをわずらい、吐血。9月1日、関東大震災。アトリエを下町からの避難者に開放し、数カ月を四畳半の小部屋で過ごす。   38 このころから機織りを始める。
1924
(大正13)
42 9月、木彫小品を頒つ会をはじめる。木彫は光太郎の貴重な生計の足しになった。 木彫「魴■(ふつ)」、木彫「蝉」(3)*、木彫「柘榴」* 39  
1925
(大正14)
43 このころ、尾崎喜八、片山敏彦らとロマン・ロランの友の会をつくる。 木彫「鯰」(l)*、木彫「うそ鳥」*、塑造「老人の首」* 40  
1926
(大正15)
44 5月1日から6月10日まで、東京府美術館に聖徳太子奉賛美術展覧会が催され、塑造「老人の首」、木彫「鯰」を出品する。 塑造「中野秀人の首」(亡失)、塑造「黄瀛の首」(亡失)、型造「大倉喜八郎の首」*、木彫「鯰」(2)* 41  
1927
(昭和2)
45 4月、評伝『ロダン』(アルス美術叢書24)を刊行。11月15日から24日まで、武者小路実篤らの第一回大調和美術展覧会が上野の日本美術協会で開かれ、塑造「中野秀人の首」「智恵子の首」「東北の人」、木彫「魴■(ふつ)」「桃」「うそ鳥」などを出品する。 塑造「智恵子の首」(亡失)、塑造「東北の人」、木彫「桃」* 42  
1928
(昭和3)
46 7月、図画創作協会が分裂、第二部洋画が図画会になるにあたって彫刻も加わり、その会員になる。10月17日から30日まで、朝日新聞社で開かれた第二回大調和美術展覧会に塑造「住友君の首」、木彫「柘榴」を出品する。北海道移住の意志が再燃。 塑造「住友君の首」(焼失) 43  
1929
(昭和4)
47     44 父の死後、家庭問題や経営不振から傾きかかっていた長沼家が破産、一家は離散。智恵子の健康も再び悪化。
1931
(昭和6)
49 8月9日、時事新報社の依頼に従って車京を発ち、9月初めまで三陸地方の海岸を歩き、紀行を書く。この1カ月近くの留守のころから、智恵子に精神分裂の兆候が現れる。 木彫「白文鳥」*、木彫「蓮根」* 46 光太郎の東北旅行の留守中、精神分裂の兆候が現れる。
1932
(昭和7)
50   塑造「黒田清輝胸像」* 47 7月15日、アトリエ二階の画室でアダリン自殺をはかり未遂に終わる。一時九段坂病院に入院。8月、退院。
1933
(昭和8)
51 4月、「成瀬仁蔵記念像」が完成し、序幕。5月、智恵子の静養のため草津に遊ぶ。8月、墓参を兼ね智恵子の郷里を訪ねる。東北の温泉めぐり。 塑造「成瀬仁蔵胸像」*、浮彫「種まく人」* 48 5月、草津へ静養に出る。8月、入籍。光太郎とともに郷里に墓参、東北の温泉めぐり。かえって病状が悪化する。11月、ほとんど痴呆状態が続く。
1934
(昭和9)
52   浮彫「嘉納治五郎像」* 49 3月、いくぶん快復し機織りなどを始めるが、5月再び悪化。同月7日、母親が同居していた妹節子の婚家千葉県九十九里浜真亀納屋斎藤家に転地する。12月、病状さらに悪化し、アトリエに戻る。
1935
(昭和10)
53 3月31日から4月21日まで、東京府美術館で催された開館10周年記念現代綜合美術展に「老人の首」を出品。11月10日、父の門下生および美術界有志の委嘱によって制作した「光雲一周忌記念胸像」が、東京美術学校校庭で序幕。 塑造「光雲一周忌記念胸像」*、塑造「赤星朝暉胸像」(戦時供出) 50 2月末、自宅療養が危ぶまれるようになり、南品川のゼームス坂病院に入院。
1936
(昭和11)
54 12月、李王家の日本美術展観に木彫「柘榴」を出品。突然、大量の吐血。1カ月ほど養病。   51 結核が進行する。このころから紙絵を作り始める。
1937
(昭和12)
55   浮彫「日本水先人協会記念牌」* 52 初夏から更にかけて狂躁状態が続くが、小康時には紙絵をつくる。
1938
(昭和13)
56 1月、「河口慧海裸体坐禅像」の制作に着手。「九代目団十郎像」ひび割れて未完。 塑造「河口慧海裸体坐禅像」(焼失) 53 夏ごろから38度台の熱が続くが、小康時は紙絵を制作。10月5日夜、ゼームス坂病院で没す。死因は粟粒性結核。駒込染井の高村家墓地に埋葬される。入院中制作した紙絵は一千数百点にのぽる。
1939
(昭和14)
57   浮彫「フロイド賞牌」*    
1940
(昭和15)
58 李王家の日本美術展観に木彫「桃」を出品。11月、詩集『道程』改訂版を山雅房から出版。 塑造「木暮理太郎像」(未完)    
1941
(昭和16)
59 8月、随筆集『美について』を道統社から刊行。詩集『智恵子抄』を竜星聞から刊行。      
1942
(昭和17)
60 1月、評論集『造型美論』を筑摩書房より刊行。4月13日、詩集『道程』により第一回芸術院賞を受賞。詩集『大いなる日に』(道統社)を上梓。      
1943
(昭和18)
61 4月、随筆集『某月某日』(竜星閣)を上梓。      
1944
(昭和19)
62 3月、詩集『記録』を竜星閣から刊行。 塑造「河口慧海の首」(焼失)    
1945
(昭和20)
63 1月、『道程』再訂版を青磁社から刊行。4月13日夜、空襲により林町のアトリエ焼失。多くの作品を失う。わずかに父譲りの木彫用小刀と砥石を持ち出す。一時近くの妹よしの婚家に仮寓。5月15日夜、上野を発って岩手県花巻町宮沢清六万に疎開。肺炎を起こして病臥。8月、宮沢家が戦災に遭い、佐藤昌方に移る。9月、佐藤隆房方に寄寓。10月17日、岩手県稗貫郡太田村字山口に鉱山小屋を移築して移る。農耕自炊の生活にはいる。      
1946
(昭和21)
64   書跡「不生不滅」*    
1947
(昭和22)
65 4月、『道程』復元版を札幌青磁社から出版。『展望』7月号に詩二十縮からなる『暗愚小伝』を発表する。10月、帝国芸術院会員に推薦されたが辞退する。      
1948
(昭和23)
66   書跡「雑草社」*、書跡「詩とは不可避なり」*    
1949
(昭和24)
67 8月、筑摩選書の一冊として『印象主義の思想と芸術』が再刊される。      
1950
(昭和25)
68 10月、詩集『典型』を中央公論社から刊行。11月、詩文集『智恵子抄その後』を竜星開から刊行。      
1951
(昭和26)
69 年はじめから肋間神経痛に悩む。5月、詩集『典型』により第二回読売文学賞を受賞。 書跡「正直親切」*    
1952
(昭和27)
70 6月15日、小屋を発ち、佐藤春夫、草野心平、菊池一雄、谷口吉郎らと同道して十和田湖畔に行き、青森県より委嘱された十和田国立公園功労者顕彰記念碑のための彫像制作を決める。10月12日、十和田の裸婦像制作のため帰京。13日、中野区桃園町48番地の故中西利雄のアトリエにはいる。11月17日から27日まで、中央公論社画廊で高村光太郎小品展覧会が開催される。作品「手」「老人の首」「裸婦坐像」「鯰」「白文鳥」「蝉」「蓮根」など出品。 塑造「裸婦像」(十和田記念像小型)*、塑造「手」(十和田記念像のための)*、書跡「美しきものみつ」    
1953
(昭和28)
71 6月、裸婦像原型完成。10月21日、十和田国立公周功労者顕彰記念碑、湖畔休屋御前ケ浜で除幕される。その式典に参列する。「倉田雲平像」(未完)の制作に着手。12月、日本芸術院第二部会員に選ばれたが辞退する。 塑造「裸婦像」(十和田記念像中型)*、浮彫「大町桂月像」*、書跡「吾山に」*    
1954
(昭和29)
72 「倉田雲平胸像」の制作を続けるが、5月ころから病臥。病因は肺結核。7月、ブリヂストン美術館製作映画「高村光太郎」が完成公開される。 塑造「倉田雲平胸像」(未完)*、書跡「いろはにほへと」*    
1955
(昭和30)
73 4月、療養のため、赤坂見附山王病院に入院。7月、退院、病状は一進一退。      
1956
(昭和31)
74 3月19日から大量吐血。4月2日、午前3時45分、中野区桃園町48番地故中西利雄アトリエにて没。      
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