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神(真)は細部に宿り給う−高橋由一の人と芸術

酒井哲朗

1.

 高橋由一は、日本の近代絵画の先駆者として注目されてきた画家であるが、近年由一及びその周辺の研究が随分進んだ。近代の終焉がいわれ、近代絵画の意味が改めて問われるとき、その起源となる由一は、興味深いテーマであったといえるだろう。しかし、由一に関してさまざまな見解が提出されたが、まだ解明されていない点も多い。本展開催にあたり、先学の論者を参照しつつ、高橋由一の人と芸術について素描を試みたい。

 高橋由一の事歴は、由一64才で病臥のとき、子息源吉が請うてその生涯を筆記し、小部数印刷して配布した『高橋由一履歴』(以下『履歴』という)によって知られる。由一は文政11年(1828)2月5日下野国佐野藩士高橋源十郎の嫡子として、江戸藩郎で生まれた。

 幼名を猪之助、後にい之介、維新後に由一と称した。由一2才の時、養子であった父源十郎と離別し、母タミと祖父源五郎のもとで育てられることになった。源五郎は剣術と弓術に秀で、高橋家は武芸をもって仕える家柄であった。9才の時、藩主堀田正衡の近習となったが、この藩主正衡は水野忠邦のもとで若年寄を務めた開明的な人物で、蘭学や洋画に関心をもち、由一に多大の影響を与えた人物であった。

 祖父の源五郎は、物心つく頃から画技にすぐれていた由一を、12、3才の頃堀田家に出入りの狩野洞庭、ついで狩野探玉斎に入門させたが、由一は「繁務」のため独学を余儀なくされたという。源五郎は由一が武と画の二道に熟達し、彼の後継者となることを望んだが、由一が生来身体が弱かったために、画の道に進むことを許した。その後由一は、田安家の絵師吉沢雪菴について北派の画を学ぶが、依然として「繁務」のため思うにまかせなかった。そして、「嘉永年間、或ル友人ヨリ洋製石版画ヲ借観セシニ、悉皆真二逼リタルガ上二一ノ趣味アルコトヲ発見シ、忽チ習学ノ念ヲ起コシタレドモ…」という、西洋画との運命的な出合いを経験するのである。この後由一は、洋画を学ぶための方途を求め、「日夜苦心焦慮」したが、ようやく伝手を得て、文久2年9月洋書調節に入り、画学局に出仕して、川上冬崖の指導を受けることになった。

 『履歴』にいう由一の「嘉永年間」の石版面体験(20才代前半)について、高階秀爾氏は、嘉永年間としたのは後年の記憶違いであり、文久年間(34−35才)とすべきであるという見解を提出している(『近代日本美術史論』)。『履歴』は石版画体験以前の習学について多くを語らないが、河野元昭氏は、由一の感性や技術は本格的な洋画習学以前にある程度完成していたことを指摘している(『幕末・明治の画家たち』)。歌田眞介氏が由一はワーグマンやフォンタネージに学んだのちにも、五姓田義松をはじめとする他の画家たちのようにその影響が決定的なものでなく、その作風が独自であったことを技法、材料の面から証言していることも、これに関連しよう(『高橋由一油画の研究』)。

 由一が入所した洋書調所は、文化8年(1811)幕府天文方内に置かれた蕃書和解御用掛が始まりで、安政2年に洋学所、同3年に蕃書調所となり、翌年絵図調方が置かれ、同5年から幕臣以外の諸藩の子弟にも入学が許された。文久2年5月に蕃書調所は洋書調所と改められ、絵図調方が画学局と改称、川上冬崖が画学出役となり、幕府の洋学研究教育機関として整備されていった。文久2年9月5日、由一は「天ニモ昇ル心地シテ」画学局の一員となり、主君堀田正衡の理解によって「俗務」を免除され、画道に専念することになった。

 画学局時代の由一について、『履歴』に彼が局の壁に掲出したという「左ノ一章」、東京芸術大学が所蔵する『高橋由一油画史料』に「洋画局的言」として収録されている檄文が知られている。「泰西諸州ノ画法ハ元来写真ヲ貴ベリ」に始まり、「洋外各国政府画学館ヲ設クルハ、実ニ治術ノ一助トスルノミ。豊翫弄ノ小技ナラン哉」とのべ、「固ヨり画ト字、国用ヲ為シ須臾モ離ルベカラザル最大ノ技芸ナリ。官開成所中ニ設ケタルハ其意ニシテ、画学局ハ功要急務ノ関係スル所、各官勉励セズンバアルベカラズト云爾」と結ぶ。

 「洋画局的言」に主張されている絵画理論は、これまでいわれているように基本的に司馬江漢の『西洋画談』を出るものではない。だが、「治術ノ一助」としての洋画が、「功要急務の関係スル所」という切迫感や危機意識の点で、江漢と由一は決定的に違っている。『履歴』は、由一が画学局で「憎まれ者」「大邪魔者」といわれた直情径行の正義派ぶりを紹介し、また、ある時上官が由一に理屈を云っている暇に写法の研究でもしたらどうかといったのに対し、「絵画ハ精神ノ為ス業ナリ、理屈ヲ以テ精神ノ汚濁ヲ除却シ始メテ真正ノ画学ヲ勉ムベシ」と由一が反論した、とその面目を伝えている。

 由一が画学局に入った頃の洋画の伝習は、冬崖が蘭書を通じて得た知識によって研究、指導するという状態であった。本物の油絵など見たこともなく、先輩の画学局員曲淵敬太郎が「美人ノ襟ニ玉飾リヲ掛ケタル西洋石版画」を模写して油絵に描き直したものに感心してその製法を教わった、と『履歴』はその喜びを伝えている。油絵具は在来の顔料を日に晒した荏ノ油と銀密陀を混ぜて作り、パレットは刺身皿や銅製行灯皿、パレットナイフは竹、鯨のヒレ、漆箆の削ったものや古い舶来包丁を研いで薄くしたものを代用し、カンバスの代わりにドウサを引いた美濃紙に下描きし、強い膠を引いた上に油を塗ってから油絵具で仕上げるという具合だった。

 画学局の「教授法ノ不完全ナルヲ遺憾ニ思ヒ、何卒横浜ノ居留地ニ至り、海外人の画家ノ伝習ヲ受ケンモノト希望」した由一は、慶応2年の夏、横浜にチャールズ・ワーグマンを訪ねた。「四壁ノ掲画ノ非凡ナル手際ニ肝ヲ消シ、帰ル道モ忘ル計リ感伏」した由一は、ワーグマンに入門を懇願して認められる。また、翌年に開成所教官内田正雄がヨーロッパから持ち帰った油絵、水彩画、素描に接し、内田から画の話を聞く。幕府が崩壊し、明治と改まった同2年、由一は「未熟ユエ日々教導」を受けたいとして、ワーグマンを横浜から自宅に迎えようとして、東京府に同居願いを出したが果たせなかった。この時由一はすでに42才。不惑をこえてなお、油画追求と啓蒙の情熱は熾烈であった。明治初年、由一は民部省や大学南校(開成所の後身)に勤めたが長続きせず、明治6年に日本橋浜町に画学場天絵楼を創設した。

 由一の画学局時代の作品として、《丁髷姿の自画像》が伝世する。頬骨の張った鋭い目つきの狷介なその風貌は、『履歴』にいう画学局時代のエピソードを彷彿させる。画面裏に「これは高橋由一の四十歳ころの肖像なり 源吉妻高橋タカ 七十歳」という記入がある。これまで慶応3年頃の由一自筆とされてきたが、近年歌田眞介氏より、「由一のどの人物画とも技法上の共通性が感じられない」として、他の画家の手になるものではないかという疑義が提出された(『高橋由一油画の研究』)。


2.

 明治初年、物産会や博覧会が盛んに開かれるようになって、由一の活躍の場ができた。記録によれば、明治4年の大学南校物産会に出品した《ナイアガラ瀑布》《ヒマラヤ山》など、翌5年の湯島聖堂におけるわが国初の博覧会に《ヒマラヤの図》《世界第二の大瀑布》《牧牛図》、明治6年のウィーン万国博覧会に《富嶽図》を出品している。《ナイアガラ瀑布》について、木下直之氏が蜷川式胤旧蔵の写真と同じ図柄のナイアガラの景観が由一の《写生帖》〈東京芸術大学蔵)に描かれていることを指摘している(『美術という見世物』)。『履歴』によれば、《富嶽図》は博覧会事務局の命により、「実況真写ノ為メ東海道出張」して描いたものである。《牧牛図》は、由一がもといた民部省の牧牛馬御用掛けを務めた由良守応の依頼であることも『履歴』に記載されている。この大作が、湯島聖堂の杏壇門に絵馬のように掲示されている写真が存在する。これら博覧会における由一の作品は、海外では日本の、国内では外国という風に世界の名だたる景観を油絵の現実再現的な図示機能を発揮した大作であった。

 明治5年に由一の代表作とされる《花魁》が制作された。この《花魁》の制作年について、明治5年、同8〜9年、同10〜11年の3説がある。明治5年説は、同年4月28日付『東京日々新聞』に、兵庫下げ髪の髪型を画に描いて遺すため、由一に依頼していた稲本楼の小稲の肖像画ができあがったという記事とこの作品が同一であるとする立場。明治8〜9年説は記事とこの作品が同一であるとしても、技術的に5年では早すぎると考え、しかしフォンタネージ来日以前とする。明治10〜11年説は、この作品にフォンタネージの影響を認め、11年の天絵社月例展に《美人図》として出品されているものがこれに当ると推測する。

 《花魁》の主たるモチーフは、人物よりもその重たげな櫛、笄で飾られた髪型と派手な厚ぼったい衣装である。だが、人物の顔や首も濃い化粧で厚く塗られて髪型や衣装と調和している。髄甲や珊瑚の質感表現に注意が払われているが、衣装の毛皮や紋様、褶曲の表現は、衣装自体の物質感の追求の結果、濃彩の絵具そのものの物質性が顕わとなり、一種異様な迫力をもった強い存在感を生み出している。《花魁》は、西洋のリアリズムとは異質な、江戸期以来の洋風画の到達した究極の写実表現というべきものであろう。この作品について、歌田氏も技術的側面から明治5年説を支持しており(『高橋由一油画の研究』)、『東京日々新聞』のいう《花魁》という説に従いたい。

 また、歌田氏は従来横山松三郎作とされてきた《旧江戸城之図》(東京国立博物館蔵)を、由一の明治5年の作品として比定している(『高椅由一油画の研究』)。かつて萬木康博氏がその可能性を示唆したが(『Museum』349)、同作品の修復を機会にその技法、材料を分析した結果、由一説を提唱したものである。そのプリミティヴだが繊細な作詞、遠景の樹木や空の表現、画面左下の挿話的な点景人物など、明治5年の由一の作品という説は説得力がある。

 明治6年6月、由一は画塾天絵楼を創設した。画学校の設置は由一年釆の宿願であったが、自らの手で私塾を経営し、後進の指導にあたることになったのである。天絵楼は順調に発展し、明治8年に天絵社と改め、同9年10月から毎月第1日曜日に教員、塾生による展覧会を開いて一般公開した。この月例展は明治14年2月まで続くが、由一の主要作品の多くは、現在金刀比羅宮に所蔵されている作品も含めて、この展覧会に出品されたものである。

 明治9年に工部美術学校が開設されることになり、アントニオ・フォンタネージが来日する。わが国ではじめて本格的な洋画教育が行われることになったのであるが、由一は早速旧知のイタリア公使アレッサンドロ・フェ伯爵の紹介でフォンタネージを訪ね、教えを受けている。翌10年にフェ公使の助力で、嗣子源吉を工部美術学校に入学させている。近年、森田恒之、歌田氏ら修復家の由一作品の技法に関する科学的研究の結果、由一の代表作として知られる東京芸大の《鮭》やその他の作品にフォンタネージの影響が明らかに認められることがわかった(『高橋由一油画の研究』)。このため、由一の作品編年は写生帖や月例会の記録を参照しつつ、フォンタネージの影響の有無をめぐって明治9年がひとつの分岐点とされる。

 明治9年以前の作品は、《真崎の渡》《真崎稲荷社ノ景》(明6〜7)、《墨水桜花輝燿の景》(明7)、《相州江之島図》(明6〜8)、《読本と草紙》(明7〜8)、《左官》《巻布》(明8〜9)などとされる。真崎の風景や《墨水桜花輝燿の景》は、前景に樹木をクローズアップして遠景と対照させる司馬江漢や秋田蘭画の構図法が踏襲されているが、細部に由一特有の質感表現がみられる。《読本と草紙》《巻布》は、質感表現は克明だが平板な印象を受ける。歌田氏によれば、明治9年以前の作品では、由一は絵具を不透明に用いているという。また、風景の空や静物の背景が、はじめは水平の筆触で描かれて塗り絵のようであったが、明治7年頃を境に大部分右下の斜めの筆触を用いるようになったと指摘している(『高橋由一油画の研究』)。《左官》は由一に珍しい主題で、ワーグマンを連想するが、土蔵の落書きの表現などはいかにも由一である。


3.

 明治10年は、《鱈梅花》《百万塔と鐙袖図》《豆腐》《なまり》《鮭》など、代表的な静物画が次々と描かれた、由一の充実期であった。「遍真の写実」といわれる、対象の細部に執着し、その質感を執拗に表現した作品群である。《豆腐》は俎の上の豆腐、焼豆腐、油揚げを、それぞれの質感の違いを描き分け、豆腐の破片や俎の包丁傷や水に濡れた部分となど細部をリアルに表している。《なまり》の鰹の皮と身、竹の皮の内と外のコントラスト、《鮭》の頭部、荒縄、皮、切身など各部の質感表現など、由一の絵画の特質として繰り返し指摘されるところである。

 《鱈梅花》《百万塔と鎧袖図》、あるいは《鯛(海魚図)》は素材の取り合わせに由一の演出がみられる。たとえば、《鱈梅花》は、すり鉢、鱈、荒縄、梅、蕗などどそれぞれ異なった材質感の表現が意図されているのは勿論だが、素材の選択や配置に由一の美意識が働いている。由一の静物画は、一般にその強烈な物質的存在感のゆえに即物的にみえる。だが、《鱈梅花》のすり鉢、《鯛(海魚図)》の大根などに象徴的にみられるように、由一の静物画の主題は生活実感を土台にしている。百万塔や鎧袖にしても、明治初年の士族の実生活に十分身近であったし、それが置かれている机は生活のリアリティの表象であろう。その即物性は、何かを写しているというよりも現前させているという方がふさわしい。しかしそこには季節感や生活感が反映している。文明の基本ともなるべき国家有用の技術である絵画は、人間生活のディテールを表現できなけれぼならないのである。

 ここで由一の画面形式について、言及しておきたい。由一には、《鮭》〈東京芸術大学蔵)のような、特異な画面形式がある。佐々木静一氏がラグーザ・お玉の回想として紹介しているように(早稲田大学美術史学会『美術史研究』第3号)、もとは柱にかけたものと考えるのが自然である。もうひとりの鮭の画家といわれる池田亀太郎の鮭の板絵の上部に掲示用の釘穴があるとのは示唆的である。しかし起源はどうあれ、鮭は由一によって絵画の主題となった。明治11年の《貝図》は、金刀比羅宮の袋戸棚のために描かれたものである。明治11年にパリ万博に出品された《東京十二景》は屏風仕立て、明治18年の《鑿道八景》は画帖形式であった。今日我々は額装形式の比較的小品に接することが多いが、由一の場合、有用の技術としての絵画は、需要の必然によって決まるものだったといってよいだろう。
 由一の風景画も独自の特色をもっている。彼の風景画は、明治14年以降の東北風景のあるものを除いて、ほとんど水平線で区画された遠近法に基づいて描かれている。歌田氏がいうように、《田子富士》《墨田堤の雪》《墨堤桜花》《浅草遠望》《琴平山遠望》など、地平線を低く空を大きくとり、前景に樹木、草、岩などを描いて空間や遠近感を表現する。遠景をかなり細かく描くが中景は省略し、前景と遠景に重点を置いている。これは洋風画や浮世絵風景版画など、江戸時代の美意識の伝統に由来するものであろう(『高橋由一油画の研究』)。

 《相州江之島図》と《江の島図》の5、6年の時間の経過のなかに、遠景の樹木や空、近景の人物の表現に明らかな進展がみられるように、独自の成熟をみせている。《江之島図》もそうだが、たとえば《浅草遠望》の前景の草花や遠景の人家にみられるように、細部へのこだわりは、風景画においても由一固有である。執拗な細部の質感表現が、概念的な遠近法の枠組を克服している。《洲崎》のはるか沖合に煙を吐いて進む船と近景の小さな船と漁の仕掛けでもするらしい人物、これらの細部の表現は、概念的な遠近法や名所絵的視覚を凌駕している。由一の風景画の魅力は点景人物にあるというのが、やはり歌田氏の指摘であるが、これもまた静物画においてのべたように、由一の人間生活のディテールに対する関心に基づくものであろう。由一は、単に対象化された風景を描いているのではなく、そこに人間が生活している世界の実相の一端を表現しているのである。静物は物に直面して描けるが、風景は写生帖のスケッチをもとにしている。由一の写生帖は、世界の断片の具体物を収録した、まさに画嚢であったといえるだろう。


4.

 由一は、明治14年に山形県令三島通庸の委嘱を受けて東北地方に赴き、《大久保甲東像》《上杉鷹山像》とともに、《栗子山隧道図(西洞門・大)》など県下新道の油彩画数点を描き、宮城県令松平正直の依頼で、《宮城県庁門前図》《松島図》《松島五大堂図》などを描く。《酢川にかかる常磐橋》《最上川風景》《山形市街図》《栗子山隧道図》などの一連の後期風景画といわれる作品群が出現する。由一は、市街や道路、橋、トンネルなどをモチーフにした、風景画の新しい分野を開いたのである。これらは一種の記録画というべきものであるが、絵画を「治術の一助」と考える由一にとって格好の分野であり、これらの後期風景画は、名所絵的風景画とは次元を異にした作品の完成度をもっている。

 自由民権運動を強権的に弾圧したことによって知られる三島通庸は、通路の整備が国土の近代化と国家発展の基礎となることにいち早く着目し、それを強引に推めたことによって知られる。由一は三島の土木事業に共鳴し、三島に書簡を送り、「就中大土木ノ成功二至リ候テハ一目シテ驚愕セサルナク、一ノ新世界ニ在ルカト疑ハシムルニ至ル」と書き、『山形新開図誌』として印行してはどうかと提案している。この由一の発案は、明治17年に実現することになり、この間三島が栃木県令を兼務することになったので、その範囲は山形、福島、栃木の3県にまたがり、由一は200図に及ぶ風景を描くことになった。

 由一にとって絵画は実用である。油絵の写実は、史上の偉人や英雄の像を実物さながらに表現できるため民衆教化に役立つのであり、また、由一は油絵による国宝の模写を提言している。したがって、大久保や鷹山の肖像の制作を喜んで引き受けたであろうが、これらの肖像画が凡庸であるのにくらべ、同時に描かれた風景画は独自である。当時の土木技術では困難をきわめたであろう道路の敷設、架橋、隠道掘削などの現場に立ち会った由一は、まったく新しい体験をすることになった。そこはまさに「治術」の最先端であり、「精神ノ為ス業」たる絵画は、「汚濁ヲ除却シ」、すなわち慣習的なものの見方を棄てて立ち向かわなければならなかった。由一がなさねばならなかったのは、未知の無名の風景を形象化することだった。

 これら一連の東北新道を描いた後期風景画のなかの代表的なものとして、《酢川にかかる常磐橋》や《山形市街図》があるが、これらの作品が三島通庸の愛用した山形の写真家菊地新学の写真に基づくと伝えられる。「風雨に破敗セズ蠧虫二段傷セラレズ」(『螺旋展画閣創築主意』)という油絵は、写真よりも保存に適するのであり、由一は《山形市街図》では、人物を描き入れて独創を加えた。ここでは由一の視覚は、写真の光学的遠近法に同化している。「画ハ物形ヲ写スノミナラズ併セテ物意ヲ写得スルガ故ニ、人ヲシテ感動セシメルニ足ル」(『高橋由一油画史料』)という、「物意ノ写得」が質感表現による風景の生動であり、点景人物の表現なのであろうか。《宮城県庁門前図》や《山形市街図》のような一種の建築画は、明らかに治者の視点で描かれている。由一には、浮世絵の画家たちが描いた開化風俗図のようなものはない。それらは由一にとって、「翫弄ノ小技」にすぎなかったもののようである。

 明治14年、由一は『螺旋展画閣創築主意』を各方面に配布し、美術館建設運動をはじめる。翌15年、美術省・美術会社・意匠学校・画学大学校の設立、展画閣の造築、九州地方巡幸に際しての名所旧跡の真写上納、大阪博覧会出陳の南朝遺物の真写上納、東京の私塾を一つの義塾にまとめて教程を整備することの5項目について、三島通庸に斡旋を依頼する。油絵の版図拡張、制度整備に関して、それまで由一は再三要路に提言してきたが、三島という有力な知己を得て、由一はその集大成を図ったわけであるが、そのいずれも実現することはなかった。その後も由一はその努力を止めなかったが、逆に、明治17年に天絵学舎を閉鎖することになる。

 この螺旋展画閣に、北澤憲昭氏は、さざえ堂や城閣建築の残影を曳きつつ、近代に向かって上昇する由一の制度志向の表象をみた(『眼の神殿』)。展画閣は一種の美術館であるが、そこに飾られるのは、「其画ク所ノ名物、古器、肖像、風景等」であった。由一の展画閣は、創草期の博覧会時代のイメージの表象であったが、夢想に終わった。木下直之氏の『美術という見世物』に描かれた博覧会時代は終わり、絵画共進会の時代に入った。フェノロサや岡倉天心らが推進した伝統回帰とナショナリズムの時代が到来したのである。

 北澤氏は『眼の神殿』のなかで、天絵社の「天」は「洋画局的言」にいう「造化主」の意味であり、由一の絵は「天の絵画」であるという。だが、この「天」は、西洋の絶対的な神とは少し違っている。由一のいう「造化主」は、東洋的な造化からきており造物主ではないように思われるのである。「去れば方今我一歩彼が百歩に及ばずと雖、地球元来同一気、何ぞ録々向来彼が下に立たんや」(『高橋由一油画史料』)というように、由一は西洋画の信奉者であるが、一種のナショナリストである。由一の作品がワーグマンやフォンタネージの影響を他の日本の画家のように受けずに独自であったことがいわれ、その理由が西洋画を知る以前の絵画体験に帰せられることも想起したい。写実とは、事物を客体化してとらえる視覚のシステムであり、それは由一が「写真」として追求したものであるが、その主体の立場として「天」がある。由一の絵画が、全体の構成よりも質感の表現を強く意識し、静物画や風景画において執拗に細部にこだわるのは、細部にこそ神(天)が宿り給う、と由一が信じていたからではないだろうか。


(三重県立美術館長)

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