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水彩素描のすべて パンフレット

三宅克己 箱根双子岳
三宅克己
箱根双子岳
1933(昭和8)年
水彩・紙

作家作品解説

日本近代の水彩・素描

明治から大正まで

 水彩画が油絵とは異なる独自の表現媒体として完成したのは、18世紀末から19世紀のはじめにかけてのイギリスであったといわれます。もちろん、水彩画の歴史はもっと古く、古代エジプトのパピルス画巻にまで辿ることが可能で、ヨーロッパでは、中世の装飾写本や、ルネサンス期にはデューラー(1471-1528)が秀作を残しています。今日の水彩絵具は、18世紀末に保湿剤としてのグリセリンが発見され、絵具に添加されてから、簡便な描画材料として流行することになりました。

 日本では、幕末(1861・文久1年)に新聞記者兼報道画家として来日したチャールズ・ワーグマンがイギリス流の水彩画を初めて紹介、高橋由−や五姓田義松らが彼から学びました。その後、明治9(1876)年には官設の美術学校が開校し、イタリア人フォンタネージが油絵とともに水彩画を、浅井忠や小山正太郎に教授しました。明治20年代になると、イギリスからアルフレッド・イースト、ジョン・ヴァーレー、アルフレッド・パーソンズらの水彩画家たちが来日し、彼らの繊細で詩情豊かな水彩画が日本人を魅了。彼らの影響により、水彩画は油絵を描く前段階の習作的なものから、油絵と同等な価値をもつ芸術作品へと人々の認識が変化します。生涯水彩画に身を投じることになる当時17歳の三宅克己は、ヴァーレーの展覧会を見て「これを見た私は、忽然(こつぜん)自分の進む可(ベ)き世界の入口が目前に開かれたように思った」といい、パーソンズの作品で「私の水彩画熱は一層その度を高め」たと回想しています。

 三宅克己は、明治26(1893)年アメリカから帰国し明治美術会展に水彩画を発表した高橋勝蔵にも触発されたといわれています。数年後、三宅は日本で描いた水彩画を携えアメリカに渡航、美術学校で学校で学ぶ傍ら、個展で作品を販売、得た資金でヨーロッパに渡り、そこで描いた作品を第4回白馬会展(明治32・1899年)に出品し注自されました。三宅の成功は、他の画家にも波及します。中川∧郎、吉田博、鹿子木孟郎、満谷国四郎、河合新蔵、丸山晩霞、大下藤次郎らが、同じくアメリカで水彩画を売り、得た資金でヨーロッパヘ渡るという経路を選択しました。

 こうしたなか、明治の後半期、水彩画は全国的なブームを呼びます。明治34(1901)年、大下藤次郎が初心者向けに発行した『水彩画の栞(しおり)』は年内に6版2万部が売れ、明治37(1904)年までに15版を重ね、明治38(1905)年には三宅克己も『水彩画手引』を出版し、一般大衆から絵を志す若者まで広く浸透することになりました。また、この頃には、水彩画を原画とした絵葉書が人気を集め、各地では水彩画の講習会が開催されました。

 明治期には、前述のとおり、水彩画を独白の芸術として高めたイギリスからのスタイルと、フォンタネージによる油絵の前段階的な修練として捉えた水彩画の系譜、さらには日本の名所絵的な水彩画など、多彩な様相を呈しています。そして、明治の終盤から青木繁ら明治浪漫主義の系譜に入る画家が、自己の内面を表出した、新たな局面の水彩画を発表しました。

 大正期に入り、水彩画ブームを支えた画家たちの表現に、大きな展開はみられなくなりました。しかし、この時期、ヨーロッパの新しい美術動向が次々と紹介され、それに刺激を受けた若い世代の洋画家たち(萬鉄五郎、岸田劉生、村山槐多ら)が、油絵制作に重心を置きながらも、水彩絵具の特質を生かした斬新で個性豊かな水彩作品を残しています。
デューラー 《小兎》
参考図版:
デューラー
《小兎》
1502年
アルベルティーナ版画美術館蔵


ワーグマン
参考図版:
ワーグマン
《婦人像》
神奈川県立近代美術館蔵


アルフレッド・イースト《荒れ模様
参考図版:
アルフレッド・イースト
《荒れ模様》
郡山市立美術館蔵


鹿子木孟郎《建物の見える風景》
鹿子木孟郎
《建物の見える風景》


石井柏亭《研究所にて》
石井柏亭
《研究所にて》
1917年


岸田劉生《自画像》
岸田劉生
《自画像》
1917年
 

昭和から現代まで

 大正2(1913)年、石井柏亭や石川欽一郎、河合新蔵らは日本水彩画会を結成し、その後、古賀春江や萬鉄五郎を会員に加え、日本各地での講習会や、中国・インドで日本水彩画会会員の巡回展を開催するなど広範囲の活動をおこないました。そして、大正15(1926)年には、古賀春江らが水絵連盟(同盟)を、昭和15(1940)年には小掘進らが水彩連盟を新たに設立するなど水彩画団体の組織的動きがありました。

 −般愛好家にいたるまで、広く浸透した水彩画ですが、昭和の時代、水彩専門画家の系譜で独自の展開を見せたのは中西利雄ら少数にとどまります。「水絵というものをその絵画性に於いて正しく開放し、絵画としての真実の美の方向に高め、深みや強さや輝きを追い求め」ようとした中西は、不透明水彩(グワツシュ)と透明水彩を併用した技法で、油絵に近い密度と、水彩独特の透明感、軽快さとを同時に獲得しました。

 この時代の多くの画家たちにとって、水彩や素描は、自分たちが描くテーマに、もっとも適した画材を選択する手段のひとつとして存在していたようです。昭和の前半期の洋画界では、安井曾太郎や梅原龍三郎、児島善三郎らをはじめとして、日本人・東洋人としての意識を持ちながら世界に通じる油絵の創出を目指していました。彼らの制作の主体は油絵で、水彩や素描は、油絵制作のための入念な準備であることがほとんどでしたが、水彩や素描においても、南画に通じるリズミカルで軽妙な線、筆触を生かした秀作が生みだされました。

 水彩は、素描と密接にからみあい、−体化する芸術だということができますし、油絵と比べると、長い時間をかけての重ね塗りができません。ご存知のように、繊細な作業を短時間で処理する集中力が要求されます。このような特性を十分生かした好例として、藤田嗣治《ラマと四人の人物(ペルー)》や松本竣介《婦人像》、あるいは野口弥太郎、野田英夫、小林和作らの作品を挙げることができると思います。そして、戦後になると、美術の表現世界はいっそう多様化することになりますが、水彩や素描作品に注目してみると、麻生三郎や浅野弥衛といった画家たちが線の一本一本にまで神経を突き詰め、あらたな局面へと展開したことが注目されます。

(学芸員 田中善明)
中西利雄《彫刻と女》
参考図版:
中西利雄
《彫刻と女》
1939年
茨城県近代美術館蔵


安井曾太郎《少女》
安井曾太郎
《少女》
1953年頃
岡田文化財団寄贈



麻生三郎
《人》
1979年
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