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第1部 関根正二出品目録

油彩

作品解説:森本 孝

2 死を思う日
1915(大正4)年
油彩、キャンバス 75.7×56.8cm
右下に 1915 Shoji Sekine
展覧会:1915年 第2回二科展

 大正4年第2回二科展に出品して初入選した関根正二の作品が「死を思う日」で、関根はこのとき16歳であった。当時の読売新開には、関根は「錦城中学校予備科二年で退学して暫く越後の方へ放浪してゐたが、第二回二科会に出した『死を思う日』はその情感から出来たものです」(「情感と幻影と主観――樗牛貧を得た関根正二氏談」、読売新聞 大正7年9月16日)と記されている。伊東深水は「労働者風の男が風をうけながら大木の下を外套をかぶって歩いているような絵でした。それを見ていると、いかにも人生の大きな悲しみにぶつかったような感じをうける、大変いい絵でした。」(「関根正二と私」『三彩』127号 昭和35年6月)と記し、この時期の関根の油彩画としては「牛舎」が知られているだけで、所在不明であったが、昭和54年9月30日から10月14日まで白河市歴史民俗資料館において開催された「郷土白河が生んだ幻視の画家・関根正二展」の全期中に発見されている。

 この作品は、土手の上にうっそうと4本の樹木と羊歯が茂る草木が強風をうけてざわめいているなかを、一人の男が風を直接受けながらも必死になって進もうとしている場面が描かれている。「このあと四年後には死をむかえた関根正二を知っている私たちにとっては、この作品の題名はこの画家の出発を飾るにふさわし」(陰里鉄郎)く思える。この男は関根自身であり、関根が精一杯人生に立ち向かい、精神的にも肉体的にも有らん限りの力を振り絞り、弱冠二十歳で夭折する自己の生涯を的確に予言しているかのようである。

 まさしく、関根正二の活動期間は、大正4年から8年までの5年間でしかなかった。絵具も充分に買うことができないほど金銭的に貧しく、自己の個性を確立しようと精神面においても求めるものは大きく、常に精神的渇望を抱き、自己の理想と考えるものを純粋にしかも忠実に希求していった人生であったのであろう。死を憧れ、肺病は天才病だといって大いに気(えん)を吐き、自ら破滅した生涯であった。

 明治32年(1899)、福島県白河に生まれ、9歳のとき前年既に出た家族の後を追って上京し、深川での棟割長屋の生活が始まった。東川尋常小学校を卒業して夜間専修学校の錦城予備学校に入学したが、大正3年(1914)春には同校を退学、ともに小学生の頃には餓鬼大将であり生涯の友であった伊東深水の紹介で東京印刷株式会社の図案部に就職している。「図案部には小林専君といふ非常にローマンチシズム型の洋画家がゐた。関根君はその小林君にかなり芸術的乃至価値等についての問題を盛んに鼓吹されたと憶えてゐる。小林君はオスカーワイルド崇拝の一人であつた為、関根君にもワイルドのデカタン的の気分を扇動したから元来無邪気な君はぢきにその放漫な生活に入る事を可とした。善良な少年とのみ思ふてゐた関根君は、その頃から俄に呆れる程放縦な態度に変わつて了つた。時にはカフェーの女給仕に接吻したり、巴里の美術学生がよくやるといふ街道で林檎をかじって歩いたりするやうに成つた。そんなことから深川辺では君を不良少年視するに至つた。」(伊東深水「天分豊かなる関根君の芸術」『みづゑ』178号 大正8年12月)と当時を深水は述懐しているが、この印刷会社には顧問として結城素明がおり、西村青帰とか、「明日もコロッケ、今日もコロッケ……」という流行歌を作曲した人など芸術家、あるいは芸術家を志望する人が多く、こうした状況のなかで関根は特に小林の影響を強く受け、デカダンな生活に溺れていった。

 関根正二は大正4年(1915)、印刷会社をやめ、小林専の友人で、野田九甫の弟子であったといわれる日本画家の野村に誘われ、二人で無銭放浪の旅に出ている。困惑と貧窮のドン底に時々遭遇しながらの悲喜劇の連続であったという。途中で野村と別れて長野で河野通勢と知り合う。このとき関根は16歳、河野は20歳であった。河野のペン画やデッサンに魅せられ、デューラー、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロの伝記を聞き、またその画集や写真を見る機会を得ている。このとき、若き関根の心は感激を覚え、デューラーの偉業には迎合を禁じ得なかったほど強い啓発を受け、関根はしばらく長野に滞在して模写に励んでいる。以後関根の描くデッサンは、繊細な線描の張りつめたような作風となった。

 河野通勢は明治28年群馬県伊勢崎市に生まれ、独学で絵を学び、関根に合う前年の大正3年には第1回二科展に「蛇の家」「裾花川」「村塾の跡」を出品し初入選していた。同4年秋頃東京滞在中に偶然代々木付近で写生をしている岸田劉生と出合い、意気投合して岸田家に招かれ椿貞雄らとも知り合い、大正6年上京して、草土社の後半期には劉生の僚友として活躍している。

 大正4年、河野通勢に宛た書簡には「私は真実心から、私等の交(際)を深く喜びます。(中略)私等の交際は、ただ単なる友達ではなく、真なる芸術上の交と(云)ふ大きな物で有ることと、私は思って居ります。理智から行くも感情から行くも見たまゝで有れば真で有ることを私は信じます。其処に愛有ることは疑いません。愛、大なる愛の力、私が兄を信じ兄をしたふ、其れ天なる神の如し、愛の力に支配され、私がしたふのです。」とあり、河野との出会いを関根がいかに心から喜んでいたかが窺える。

 この作品のほとんどの部分が、彩度の低い緑と褐色で描かれているのは、「彼は死のことなんか考えたことがない男なんですが、デューラーに刺激されて、そういう深刻な絵を描いたのだと思います。」(「関根正二と私」『三彩』127 昭和35年6月)と深水が述べているように、また、久米正雄が「長野の河野通勢に会つて、交わり、ミケランジエロやデユラやジヨツトなどの絵を見る様になつてから、写実風のものを描く様になつて、『死を思う日』なぞが産まれたのである。其頃から後漸く放奔の心を収めて、手1本、指1本でも正確に描かうとする傾向が出て来た。一時は深川あたりの不具者を大分かいたもので、素描には随分不具者が描かれてゐる。」(「関根正二君の死―陋巷に輝く芸術」『中央美術』大正8年7月)と回顧しているように、小林専から影響を受けて社会主義的色彩を色濃く反映させ、また、おそらく無銭旅行中に河野によって知らされ、魅せられたデューラーなどの影響を強く受けているのであろう。

 なお、この「死を思う日」を出品した大正4年の二科展に特別陳列された安井曽太郎の滞欧作から関根は大きな刺激を受け、色彩に開眼している。「白と黒とで絵が描ける」と豪語していた関根であるが、安井の巧みな色彩と画面構成に感動し、綿が水を吸い込むように関根は安井の彩色技法を吸収し、安井の様式とは全く異なる主観的で独創的な色彩を獲得し、「死を思う日」以後の関根正二の芸術は、個性尊重の大正期を象徴するかのように短命であったが、激しく燃えるような作風を示し異彩を放っていた。


10 信仰の悲しみ
1918(大正7)年
油彩、キャンパス 73.0×100.0cm
右下に 1918 S.SEKINE
展覧会:1918年第5回二科展
大原美術館蔵

 「信仰の悲しみ」は、「姉弟」「自画像」とともに第5回二科展に出品され、それで関根正二は樗牛賃を受けている。

 関根は、大正7年4月頃、久米正雄の世話を受け、帝大病院で持病であった蓄膿症の手術をしているが、手術後の経過は優れなかった。おまけに、入院中に知り合った田口真咲に恋をして、今東光の援助を得ながら同病の彼女に対し徹夜で看病をするなど涙ぐましい介護をしたが、あっさり嫌われ、東郷青児に取られてしまうという悲劇が生じ、これらが要因となって関根は極度の神経衰弱と精神錯乱に陥っている。(また、中耳灸の疑いがあり、大正6年の夏頃からしはしば耳の痛みに悩まされていたようである。)

 関根がこの作品を制作し、二科展に出品した頃、関根が発狂したという噂が流れていた。関根は樗牛貧受賞に際し、「私は先日来極度の神経衰弱になりそれは狂人とまで云はれる様な物でした併し私はけつして狂人でないのです真実色々な暗示又幻影が目前に現れるのです朝夕孤独の淋さに何物かに祀る心地になる時あ(あ)した女が三人又五人私の目の前に現れるのですそれが今尚ほ目前に現はれるのですあれは未だ完全に表現出来ないのです身の都合で中ばで中止したのです」(みづゑ164 大正7年10月)と記している。身ごもっているような女性が両手でおそらく禁断の実であろう果実を持って、金色に輝く草原を行列をなして歩んでいるこの『信仰の悲しみ』も、あてもなく日比谷公園を歩いているとき、公衆便所から女がたくきん出てくる幻影を見たところを描いたものといわれている。また、「日本料理と書いた木の札が日本宗教大会といふ字に見えてならなかつたさうだ。さうして自分は其の会に招待されて出席して居るつもりで居た処をコツクに見付かつて二階から下された事もあつたさうだ。又帝劇の前で非常に美しい女に出会つて一緒に日比谷公園を歩いて居る間に両人は何時の間にか新婚式を挙げて居るやうに思はれ」(久米正雄「関根正二君を憶ふ」読売新聞 大正8年6月19日)たといった逸話が示すように、精神的異常に陥った関根は、現実であるのか幻覚であるのか判らない程、しばしば幻影を見ていたことになる。しかし、関根が構想を練った世界が現実以上の重みを持つほど昂揚した創作意欲を示し、天才願望の強烈な関根の行動が、周囲の人間に奇行と映ったと考えても不思議はない。

 二科展に出品する前、伊東深水宅に作品を持ち込んだ関根に対し、探水が画題をたずねると『楽しい国土』であると言ったが、深水は「まことに悲痛な人間の悲しみ」が感じられ、「いかにも宗教画という感じ」がして「楽しいというより、悲しみのどん底にいるような絵じゃないか」(「関根と私」『三彩』 昭和35年6月)と関根に言ったところ、「信仰の悲しみ」と題して出品したといわれ、また、久米正雄の記述に「其頃の絵は当時二三点僕の家に置いてあつたが、非常に凄いものだつた。夕方など薄れてゆく光で見てゐると魔気人に迫るものがあつた。それからのち、それらの絵を二科へ出すのだと云つて手を入れたが、それはもう前日の凄気を失つてゐた。「姉弟」の煉画などは実に凄いものであつた。」(「陋巷に輝く芸術<関根正二君の死>」『中央美術』5−7 大正8年7月)とあり、二科展を前にして関根は加筆したようであるが、これらの詳細は不明である。

 この作品について、当時の主な批評は次のようである。

 関根氏の芸術は精神的ではあるが、文学的あるいは空想的、もつと悪くいえば空虚な比喩的、いわゆる理想画なるものには堕していない。その精神的な威力はどこまでも絵画的の根底を失つていない。青空の下、金色の野原を歩む五人の女の黄、淡紅。緋、淡紅。淡紅の色の色彩の取合せは自然に涌いた一種の調和である。(有島生馬「二科受賞者の作物について」大正7年9月) 関根正二君の画には、凍味がある。魔気を有つてゐる。「信仰の悲しみ」といふあの作は、女が同じ方向へ向つてゐる中に、首を傾けたのなどがあつて、リズミカルな運動のあるのが面白い。それに何物にも拘束されないやうなテクニックだ。「自画像」も面白い。(石井拍亭「今年の二科会」読売新聞 大正7年9月15日) 関根正二氏の「姉弟」以下三点は、本年の二科会中最も異色ある作品として挙げなければならない。技巧は穉拙であるが其処に囚はれざる強さがある、賦彩は管々しき迄に濃麗だが大した破調を来さぬ程の腕である、加ふるに一種物湊き天才肌の感情を偽らず其儘に出て居る、あゝ之あるかな(坂崎坦「二科会評」『審美』7−10 大正7年10月) 作者の無邪気とでも云ふ可き子供らしいいゝ点を持つて何か自分の考へを表現しやうとして居る所はあるが、其無技巧と自然観照の驚く可き不足とは絵画芸術としては無意義不徹底な異端者と云ふに止まる(大野隆徳「二科展覧会を評す」読売新聞 大正7年9月11日)

 マチィスやドンゲンの作品は決して其形式が似通はず各々其特性を出して居る、関根正二氏の作品はそうした技巧の方面からは誰の模倣でも無いやうだ。然し問題絵画、或は説明的絵画とも云ふ可き質が多くて絵画精神の第一義から遠ざかつて居る。『信仰の悲しみ』も単に構図の上の興味に止まつて、氏がもつと写形の目が出来色彩のトーンに就て目が開いたならばこう云ふ表現ではとても満足して居られまいと思ふ。(大野隆徳「二科展覧会の新人」『中央美術』4−10 大正7年10月)

 関根正二君の画は珍らしいものですね。今度の展覧会で最も強い印象を人々の胸においたのは或はあの三点でせう。白昼魔気に触れる気がします。伝承の画術に拠らない、自由で生な技工といふものはまつたく強い力を有つて居ますよ。(山本鼎「二科会の印象」『中央美術』4−10 大正7年10月)

 絶望的な宗教の感情と云ふやうな物が、実によく現はれてゐると思ひました。(仲木貞一「注目されたる作品」『中央美術』4−10 大正7年10月) 関根正二氏の『信仰の悲しみ』や『姉妹』の絵は、矢張り物を思はさずに措かぬ絵です。そして素人の画の強味と云様な筆も考えられます。(小川千甕「第5回二科展 想ふた儘を」『みづゑ』164大正7年10月)

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