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原精一の戦中デッサン

陰里鉄郎

 原精一のアトリエを訪れたことのある人なら、誰でも一瞬、唖然とし、そして惘然となるであろう。そこは、乱雑をきわめている。いったいに画家のアトリエはきれいではないし、雑然としているものであろうが、原精一のそれは並はずれて乱雑である。しかし、一歩そこへ足を踏みこむと、文字どおり足の踏み場もないが、つま先立ってそのなかを数歩あるいてみると、画家原精一の世界、というべきものを全身の皮膚をとおして感じさせられる。

 そんなアトリエの片隅に、古ぼけた段ボールの小さな箱があった。蓋があいていて、そこから数枚の黄ばんだ粗末な紙片がはみでていた。手にとってみると、そこに、中国の風景らしきものが荒々しく描かれていたり、地面に横たわっている兵士の姿が鉛筆をつかった早い線描で描かれたりしていた。

 絵具と油のにおいのただよう乱雑をきわめたアトリエのなかで、阿修羅のようにキャンバスにむかっている原精一の姿と、弾丸の乱れとぶ戦場を這い回る原精一の姿と、そして戦いがやんでまだなお戦塵のくすぶる荒れはてた光景のなかに小さな紙片と鉛筆を持って仁王のように立っている原精一の姿とが、ひとつになってここに浮びあがってくる。

 原精一は、日中戦争から太平洋戦争の8年間のあいだに、二度にわたって召集をうけ、一兵士として戦場をさまよいながら、その間に数百枚のスケッチを描いているのである。このあいだには、画家として軍の報道部に属したこともあるが、一兵士にして画家であった、兵士でありながらその間にも画家でありつづけた、ということをこの数百枚のスケッチは示している。それは従軍画家による戦争の記録画ではない。兵士にして画家であった画家のデッサンである。本展が「戦中デッサン展」と題される理由がそこにある。

 原精一は、日本の洋画家のなかでおそらく最も個性的な画家であった萬鉄五郎の数少い弟子のひとりである。いや、唯一の弟子といってよいのかもしれない。原精一の交友関係は幅広く、それは美術関係だけでなく文芸・学芸の各界にまたがっていて、それぞれの世界に師友ともいえる人たちがいると思われるが、その原精一にとっても真実に師とするのは萬鉄五郎ひとりであろうと思われる。といっても、大正末期の原精一の初期から現在までの作品を通観しても、様式や描法のうえで萬鉄五郎のそれと共通するところはほとんどみられない。萬鉄五郎のフォーヴィスムやキューピスム、知的な分析やセックな(かわいた)詩情といったものを原精一の画面に見出すことはほとんどないであろう。こうした直接的な投影でない、おそらくもっと原初的な、根深いところでの両者の結びつき、原精一から萬鉄五郎への精神的な帰依のような関係であろうかと思われる。しいて両者の類似を見出すとすれば、南画精神とでもいうべきものではないかと思われる。芸術に対する態度、外界の事象に対しての態度、精神のリズム、韻律といった人間の根源的などこかで原精一は萬鉄五郎へ帰依を己のなかにもっているように思われるのである。原精一が少年時代に、萬鉄五郎の作品に初めて接して、「金縛りにあったように全身が震えて立ちすくんだ」という感応、どこがどうしたとは説明できない感応、それ以来の師弟の関係のようである。原精一がその師を喪ったのは、昭和2年、19歳のときであった。

 原精一が日中戦争に召集をうけたのは昭和12年8月である。7月7日の蘆溝橋事件から1ヶ月あとのことである。師萬鉄五郎の死から従軍までの10年間の原精一、19歳から29歳、人間形成の重要な時期である。この間、原精一は美術学校への進学を放棄、ひたすら画家への道を歩みながら青春の彷徨をつづけている。中学時代からの友人鳥海青児、森田勝1930年協会を通じて知己となった林武、野口弥太郎、図画会での梅原竜三郎といった先輩画家たちとの交友があり、さらには阿部次郎、児島喜久雄といった学者、また一方では尾崎士郎、尾崎一雄、林芙美子、山本周五郎といった文士らとの親しい交友もはじまっている。このころ、原精一は「怪童丸」と綽名されてまだ若き文士らに愛されている。とくに林芙美子とは、林の夫の手塚をとおして親しくし、林芙美子があの『放浪記』を書いた住居のあとを借りうけて原精一の結婚生活ははじまっている。『放浪記』で富裕になった林芙美子はなにくれとなく原精一を支援したし、原精一の最初の日中戦争従軍にはわざわざ原の戦陣にまで訪ねていっているのである。

 近衛工兵大隊の輜重兵となった原精一は入隊するとすぐに中国出兵に加えられ、戦場へ赴くことになる。中国との全面戦争(Full Scale War)開始の最初の戦闘の場にたたされている。揚子江河口、呉淞鎮の敵前上陸に参加、戦史によれば日本陸軍第3師団の呉淞鎮、第11師団の川沙鎮北方地区への上陸は、昭和12年8月23日であったという。原精一の戦中デッサンは、おそらくこのときからはじまっているにちがいない。

 今から3年ほどまえに、原精一の回想記を数回にわたって開いたことがあるが、上海・呉淞鎮上陸時のことを原精一はつぎのように語った。

 「いかなる犠牲を払っても敵前上陸を敢行すべし」という命令がでたのだ。ぼくは30分生きたら長生きだと思いましたね。でも30分もたない……油汗がダーッと出てきましてね。怖いのなんのって、初めてですからね。この怖さのなかで、船の上から見える風景を描いた、すると急に落着いたです。どうせだめなら、絵を描いてる最中にすっとぶのなら絵描きとして本望だと思いましてね。そしたら船を這いずって小隊長がやってきて「やめろ!弾がくるからやめろ」と言うんだ。ここでやめたら俺は凱旋するまでこの小隊長の言う事をきかなくちゃいけない、と思ったんです。小隊長は這いずって逃げていっちゃったんで、2枚描いた。おちつくにはこれに限る、と思いました。」

 兵士にして画家、原精一の出現である。そして、いくつかのことがあって、班長であった原精一は、「どうもあの班長は、なんにも軍隊のことは知らないらしいけど、あの班長の言う事をきいてりゃ、弾がこないな−」と評判になったという。

 以降、原精一は、南京、徐州、漢口、武昌へとすすんでいる。その間、原精一の軍事郵便の葉書は、ほとんどスケッチ、デッサンのための画面と化した。また、紙を拾い、墨を拾って描きつづけたようである。原精一の談話を開いてみよう。

−−原さんは、現役の兵隊である訳でしょう。そのなかで、どうやって絵を描いていたのですか。

−−僕は下士官だからね。まあ、たとえば昼になって、皆で飯を食う。飯を食ってたら、スケッチできないから飯を食わないで僕はスケッチして歩く……要するに、時間割そのものは軍隊の時間割だから画人(原精一)としては、飯を食う時とか、ちょっとした余暇に描くとか……その時に、軍務だけやるヤツはつまんないヤツだと思ったね、僕は。……それは、もう、いかなる時でも、僕は鉛筆を持って弾に当たってすっとぶなら光栄だと思ったよ。それとね、不思議なことに、これだけ一生懸命やってるのに、武人の神様はどうでもいいけど、ミューズの神は助けてくれるだろうと、僕はずっと思ったね。で、もし僕の仕事がダメならば、ミューズの神がみはなして、弾に当って死んじゃうな、と思ったな。

 林芙美子が戦場の原精一を訪ねたのは昭和13年10月半ば、漢口占領の直前であった。林芙美子はこのとき、「文士慰問団」の一行に参加して久米正雄らとともに第36旅団長牛島少将、第6師団長稲葉中将らに続行して漢口へきたのであった。文士慰問団は、漢口攻略部隊となった第6師団第23連隊の出発を手を振って見送ったという(児島襄『日中戦争』)。このころ、日本の兵士たちのあいだにはマラリアが流行し、疲労と高熱で夢遊病者のような兵士たちが必死になって進軍していたと戦史はつたえている。原精一もまた第6師団に属し、渡河材料隊員の曹長として掲子江溯行作戦に加わっており)、またマラリアに罹って朦朧としていたとのことである。1年ぶりに再会した両者は、それでも、「絵の話、文学の話、戦争の話、支那の娘の話」をしたと林芙実子はつたえている(「原さんの性格」)。どうやら、2人とも、硝煙弾雨の戦場にいながらも、自己の本然を忘れることがなかった。原精一は、漢口攻略の3ヶ月後、武昌において、それまでに描きためたスケッチを陳列して、戦場での展覧会さえ開催しているのである。稲葉師団長はこれを観覧に訪れたという。

 召集をとかれて一度帰還した原精一が再度の召集をうけたのは昭和18年1月であった。このときは日米戦争の前半とはもはや明暗を異にしようとしていた時期であり、南方への派遣、それも原自身、ビルマヘの派遣を希望したという。シンガポールまで赴いた原精一の参加部隊はほぼ半年間その地にとどまり、そこから陸路、タイの国境を超えてビルマへすすんでいる。原精一がとりあえず配属されたのは自動車隊の材料廠であった。タイからビルマヘすすんだ原精一は、さらにインパールヘとはこばれる。インパール作戦の壮大な失敗については数多く語られているが、英印連合軍側の近代兵器による圧倒的な攻勢に転進という名の敗退を余儀なくされた日本軍の惨状もまた数多く語られている。原精一の場合でも、戦闘そのものの恐怖感はうすれていたとしても生死の境界をさまよう事態を両三度にわたり経験することになる。あるときは戦友に、あるときはビルマ人に助けられ、また最後は自己の気力と精神力によって生きぬいてきたというほかないであろう。ここでも原精一自身の回想の談話をきいてみたい。

−−時々ね、大きい葉っぱを見ると思いだすのだ。それが何の木で、何という葉っぱか分らないけどね。大きい葉っぱが2枚あったんです。葉っぱがあるなと思ってね見てた、確かに2枚あった。1枚が落っこちたのかね、たった1枚になったのね。そこにかくれてダメになったのよ、人事不省に。そしたら太陽が動くたびに影が動くんだね、そういう自然の、地球の神秘を体得したとでもいうのかな、だからおそらく人事不省になっても無意識のうちにときどき影を日影の方へ動いていたんだね、それでビルマ人に助けられたんだ。

 敗退する飢餓街道は酸鼻をきわめた。原精一の記憶も完全ではないが、その部分、部分は鮮明であり、ここでも原精一は画家であった。体力の消耗と飢餓のなかでの徒歩の敗退行進で、身につけている荷物はすべて捨てさった。それでもチビた鉛筆数本と小さい紙切れをポケットにしまって歩くのである。疲れきって一度腰をおろすと、どうしても立てない。そこでポケットからチビた鉛筆を取りだして静かに地面におく。そしてようやく立ちあがることができた。それを繰り返し、繰り返しては歩きつづけたという。如かい1本の鉛筆をそっと地面において、身に、心にはずみをつけては立ちあがる痩せた画家の姿を想像するだけに鬼気せまる思いがする。原精一の言葉をかりていえば、ミューズの神も原精一をみすてなかったように、原精一も死に直面してもミューズの神を捨てることに頑強に抵抗しつづけたのである。

 さきに記したように、原精一の戦中スケッチは、戦争の記録画ではない。戦場で軍務に服しながらも描かずにはいられなかった兵士である画家のデッサンである。それゆえに、従軍画家が軍当局の要求のまゝにか、あるいは、愛国心にかきたてられての報国の感情によってかといった類の戦争画とは性格を異にする絵画といってよいであろう。同じように戦場の兵士の姿を描きながらも従軍画家のそれは、いかに巧妙に、いかに写実的に描かれていても従軍画家のためにポーズした兵士といった雰囲気をどうしてもまとっている。戦争画で名をはせた宮本三郎は、戦争画についてつぎのように書いている。

 時々経験することだが、時局柄戦争画を描かなければならないことについての感想をきかれることがある。そのたびに私は戦争画が面白いからと答へることにしてゐるが、事実迎合するとか止むを得ずとかいふ気持もない。面白いから描くことが、お役に立つといふことになれば有難いと思ふばかりである。(『宮本三郎南戈征軍画集』)

 原精一のデッサンの多くには、休息する兵士が描かれている。地面にゴロリと横たわっている兵士の姿には、ほんとうの疲労が感じられないであろうか。中国人が地面に横たわっている画面もみられる。どこの、誰による殺戮であろうか。埋葬者もなく横たわる中国人を画家はそのままに描きだしている。凝視する人は言葉を失うかもしれない画面である。可憐なビルマやタイの少女たち、人なつっこそうな少年たち。画家の眼は、おそらくは画家自身が意識しないままに、ときに厳しく、ときにやさしい。そこには、殺戮の場のなかでも人間を失わなかった画家の眼が感じられないだろうか。

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