このページではjavascriptを使用しています。JavaScriptが無効なため一部の機能が動作しません。
動作させるためにはJavaScriptを有効にしてください。またはブラウザの機能をご利用ください。

サンパウロ美術館〜その収集と活動について〜

陰里鉄郎

 日本における「サンパウロ美術館展」は,これまでに3度,開催されている。最初は,1973年(昭和48),ついで1978年(昭和53),これはいずれもサンパウロ美術館が所蔵する作品のうち,絵画だけで構成された展覧会であったが,両度ともに,日本の各地を巡回し,一般公衆,美術愛好家に熱狂的に歓迎され,成功をおさめた。さらに1979年(昭和54)には,サンパウロ美術館の所有するエドガー・ドガの作品による「ドガ・彫刻のすべて」展が開かれ,日本の彫刻愛好家を魅了したことは私ビもの記憶に新しいところである。そしていま,私どもは,再び,これまでのどれよりも充実した内容をもつ,第4回目の「サンパウロ美術館展」をむかえている。

 このように日本において「サンパウロ美術館展」が繰り返し開催されるということには,充分に理由があると考えられる。

 まず第一に考えられることは,国としてのブラジルと日本との関係である。周知のようにブラジルの国土は,日本の国土の23倍にもあたる広大な土地であり,南アメリカ全体の半ばに達するものである。16世紀以来の長いポルトガル植民地時代をへて,19世紀初めの1822年に独立し,帝政から共和制へ移行したのは1889年のことであった。私どもの日本からいえば,ちょうど地球の裏側にあたるこの国は,一般にはたしかに遠い国である。この地球の裏側に位置する国と国とに密接なつながりができはじめてきたのは,今世紀はじめ,1908年(明治41)以来のことである。北アメリカのアメリカ合衆国本土への移民に制限をうけた日本は,中南米へと移民先を転じ,第1回南米移民が日本を離れてその地に移住したのがこの年であった。統計資料によれば,以後,1930年代前半をピークとし,第二次大戦中の一時期を除いて日本移民のブラジル移住は絶えることなく続いており,現在,在ブラジル日系人は,二・三世をも含めて70万人以上とみられている。そして,その日系人の3分の2以上がサンパウロ州に居住しているといわれている。このようにして,物理的にはもっとも遠く離れた位置にあるブラジルは,実は,国民相互の交流(多少,一方的であるが)のうえではきわめて近い関係にあることをあらためて認識させられるのである。とはいえ,文化に関しては,とくに美術に関しては,1973年の「サンパウロ美術館展」の開催まで,実質的な交流は,1951年以来のサンパウロ・ビエンナーレ展への日本の参加を別にすれはさして見るべきものはなかったといってよいであろう。筆者の回想では,学生時代にブラジルの首都プラジリア建設(1960年)をめぐって建築科の学生と会話した記憶がある程度のものでしかない。

 1970年からの活撥なブラジル・日本間の文化交流がはじまったことには,国際的な交通回路が充実し,相互に文化関係者の信頼が確立したことに直接の原因があるとしても,前記のような移民による国民相互の交流がその基盤となっていることはいうまでもないであろう。


 つぎに,あげなけれはならないことは,サンパウロ美術館の収蔵するシャトーブリアン・コレクションの作品群が,いずれも質的にすぐれていることである。サンパウロ美術館が,「奇蹟の美術館」と評されているのは,その大半の理由は,このコレクションを基礎として設立されたことによっている。パルディ館長の序文でも触れられているように,シャトーブリアン・コレクションがサンパウロ美術館展としてヨーロッパで公開されたのは,1954年(昭和29年),パリのオランジュリ美術館においてが最初であった。その展覧会は同年中に,ロンドンのテートギャラリー,ブリュッセル美術館,翌年にはオランダ,ドイツ,スイスを巡回し,さらにその翌年にはイタリアのミラノ,ニューヨークなどの有名な美術館で開催されていて,その初めのころに,「奇蹟の美術館」の称賛が生まれているようである。

 そのコレクションの内容をみてみると,ルネサンス以前のイタリア・プリミティフの画家の作品から,イタリア・ルネサンスの巨匠ラファエルロの作品,北ヨーロッパのものではヒエロニムス・ボッスの興味深い作品《聖アントニウスの誘惑》,メムリンクの《聖マリア,聖ヨハネと三人の聖女》,スペインの画家エル・グレコの《受胎告知》(私どもがよく知っている大原美術館所蔵の作品と酷似していることで興味がもたれる),フランスの18世紀ロココ時代の作品群,ナティエの華麗な《フランスの王女たち》,パテールの雅宴画,シャルダンの独楽をまわす少年の肖像などなど,今回の展覧会に出陳される作品を含めて,ヴェラスケス1点 ティツィアーノ1点,ゴヤの作品5点 フランス印象派にいたっては,4点のマネ,14点のルノワール,セザンヌ4点 ロートレック10点があり,さらにモディリアニが6点,ドガの彫刻にいたっては73点を収蔵しているのである。このような内容をもつコレクションが「奇蹟」と呼ばれたのは,このコレクションが,ヨーロッパからはるかに離れた南アメリカの,当時はまだ発展途上にあった後進国ブラジルに忽然と出現したことにあったといわねばならないであろう。

 この驚異的な収集は,アシス・シャトーブリアン(Francisco de Assis Chateaubriand Banderia de Mello,1891−1968)によってなされている。アシス・シャトーブリアンについては,詳しく紹介する余裕はここにはないが,その収集の経緯に若干だけ触れておこう。

 ブラジルの北東の地に生まれたアシス・シャトーブリアンは,レシフェ大学で法学を学んだあと,リオ・デ・ジャネイロでの新聞社勤務を皮切りとして,ブラジルの新聞,雑誌,ラジオ,テレビなどマスコミ関係の大組繊網を形成するまでにいたっている。「奇蹟の美術館」といった称賛を呈しながらも,ヨーロッパ本土のこのコレクションに対する見解は,けっして好意的なものばかりではないが,フランスの新聞がつたえているところによれば,つぎのような状況のなかで収集は行われたのであった。

 第二次世界大戦の前夜,ニューヨークでは経済恐慌がおこり,絵画の値段は急速に下降した。また一方,ヨーロッパ諸国でも経済的な窮乏から高価な作品が売り出されはじめたのある。この時期にそれまでほとんど美術とは無関係であったアシス・シャトーブリアンはパリ,ロンドン,ニューヨークを駆けめぐり,絵画の収集にのりだしたのであった。その間に彼は,美術界では目利きとして著名であったジョルジュ・ウィルデンシュタインとかたい友情で結ばれ,そのときに購入した40点の作品でこのコレクションの基礎を築いた,ということである。そしてアシス・シャトーブリアンが実際に数多くの作品を収集した時期は,第二次大戦後の1947年から1952年であったという。このとき,サンパウロ美術館(1947年設立)にディレクターとして招聘されて来伯したP.M.パルディ氏の助けをかりて,ゴッホ,ドガ,コロー,マネ,モネといったフランス近代の巨匠たちの作品の収集に成功したという。この1950年代前半に,印象派の作品の価格は,1年間に20〜25%上昇したとつたえている。

 フランスのある新聞は,これらのことについて,「この美術館のコレクションは非常に短期間で収集された欠点をもっている。すなわち豊かで貧しいコレクションであるが,しかしその全体は驚くべきものである」と書いており,アンドレ・マルローはかつてこのコレクションのなかのルノワールの作品の返還を希望した,ともつたえている。これほどに内容の質的な面ですぐれたコレクションが,戦中から戦後のごく短かい期間に強力に遂行されたということは,その経過のなかには,立ち遅れたヨーロッパ諸国の側から見れば,若干の批判の材料があったであろうことは当然といえば当然のことであったろう。フランスの新聞は,フランスの美術館が戦後,収集をはじめたのは1953年からであった,とすこし負けおしみ気味に書いている。

 しかし,経緯はどうであれ,このアシス・シャトーブリアンの愛国心と勇敢な行動とによって先進のヨーロッパ諸国のそれに匹敵するコレクションをもつ美術館をブラジルが所有したことは,やはり驚異というほかない。

 収蔵品がすぐれていることのほかに,このサンパウロ美術館については注目すべき事柄がある。それは収集に協力し,美術館設立と同時に館の運営にあたったP・M・パルディ館長を中心とする美術館活動である。パルディ館長の名は,おそらく日本においても建築関係者には,戦前のイタリアにおける建築運動の指導者として記憶されている方もいるであろう。また,1930年前後のイタリアにおける前衛芸術運動の擁護者,ジャーナリストとして記憶している方もいるに相違ないし,そしてまた,ヴェラスケスの研究といった美術史研究者としてその名を知っている方も少なくないかもしれない。こうした多彩な活動で知られたパルディ教授が,アシス・シャトーブリアンの招きでブラジルへ移ったのは1947年のことであった。バルディ教授は,新しい美術館の運営にあたって,新しい世界の開拓者として「広い視野と強固な意志に恵まれた一ブラジル市民アシス・シャトーブリアン氏」(バルディ)の美術館に関する思想と一致した地平に立って,自己のすぐれた過去の経験を生かしながら従事し,かつ発展させてきている,と筆者には思われる。パルディ教授は,この美術館について,日本における最初の「サンパウロ美術館展」のカタログの序文のなかに,つぎのように記しているのである

  彼(アシス・シャトーブリアン)はブラジルに美術館の必要なことを理解していましたが,それは古美術の単なる収蔵所でなく,もっと弾力性にとんだ美術館でなけれはなりませんでした。彼は私を招致してその計画,指導に当らせました。私はそれを単なる美術館以上のものにしました。つまり諸芸術(絵画,彫刻,建築,版画,素描,工業デザイン,音楽,映画,演劇等)が全体として一望できるような文化センターがそれでした。私たちの目的はとりわけ教育的なもので,一種の研究機関を設け,これに参与している人々は,若い人たちの芸術への関心をひきつけ,これを高めようと実際的な行動を行っています。

 上記のようなことが,今日では世界的に知れわたっているパリのボンピドー・センターの設立より30年もまえに,南米の地で実行にうつされていたのである。バルディ教授は,その著書である“The Arts in Brazil,a new museum at Sao Paulo”(Milano,1956)のなかで,この美術館活動について情熱をこめて語っている。そのなかで,現在ではようやく日本でも美術館人の常識となってきているようなことを,例えば,美術館は公然たる教育的性格を失ってはならないこと,展覧会に関しては,つねに観客が充分に理解をうることができるように出品物についての情報を用意しておかねはならないこと,といったようなことを説き,その情報も学問的にも照合することによって観客を正しい理解へ導くよう配慮する必要なども説いている。そしてブラジルの歴史と現実に触れ,そのなかでの美術館の活動を述べている。こうしたバルディ教授の美術館学は,現在,日本の巷に散見する博物館学とは異った,過去の美術運動,芸術運動の知識と体験によって支えられた美術館学というほかないであろう。それゆえ,サンパウロ美術館は,その収蔵品によって「奇蹟の美術館」であるはかりでなく,その美術館活動においても,「美術館学のうえでの奇蹟」といわれるのである。

 私は,昨年1980年2月,ブラジルにおいては真夏のある日,サンパウロ市はパウリスタ大通りに面して建てられているこの美術館を訪問した。大きな箱が,空中に浮かんでいるような形のこの美術館の建築は,バルディ教授夫人リナ・ポ・バルディ女史の設計になるものであるが,展示室内は,柱のない広大な一つの空間で,絵画を懸ける壁画をもっていない展示室であった。その広大な空間のなかに,作品は1点,1点,それぞれ自立しているように立っているのであった。そしてこの建築が,1950年代における前衛の典型であることを知ることができた。そしてまた,パルディ教授と美術館スタッフの説明をきいて,前記のようなパルディ教授の美術館学を納得したのであった。


 今・の日本における「サンパウロ美術館展」は,過去のどれよりも質・量ともに充実した内容をもつ展覧会として組織されている。過去2回の展覧会には含まれていなかった新しい8点が附加されており,そのなかにはかつては日本のコレクターの所蔵であったセザンヌの作品1点も含まれていて興味深い。最後にバルディ館長をはじめ,この展覧会に協力を惜しまれなかったブラジルの関係者各位に心からの感謝の意を表したい。

(三重県立美術館長)

ページのトップへ戻る