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図版・解説 (51〜83)

毛利 伊知郎

51 天華寺廃寺出土品
  三重県教育委員会



 天華寺廃寺は、一志郡嬉野町にあり、昭和54・55年に行われた発掘調査の結果、東に塔、西に金堂を配する伽藍配置が明らかにされた。また、川原寺式や藤原宮式の瓦が出土し、7世紀後半に造営工事が行われて、奈良時代後期まで存続し、平安時代前期には廃絶した寺院と考えられている。

 同寺跡からは、今回出品の(せん)仏のほか、塑像の断片(坐像の左膝部分〉も出土し、また(せん)仏は戦前にも菱形如来坐像が、2〜3点採集されている(現在、奈良国立博物館蔵)。造営当初は、これら塑像や(せん)仏は堂内荘厳に用いられていたことが想像され、奈良時代の地方寺院における造像の有様を考える一つの手がかりをあたえてくれる。

 出土(せん)仏のうち最も注目されるのは、戦前にも採集されている菱形の如来坐像である。この像は、周縁に火(えん)のある頭光を負い、大衣を通肩にまとい、定印を結んで、蓮華座上に結跏趺坐するが、その周囲は縦長の菱形(正確には六角形に近い)にかたどられている。また、像によっては両側面が断ち切られたものもある。像の両肩上部には釘穴が穿たれていて、かつては仏堂壁面などに打ち付けられ、堂内を荘厳していたものと考えられる。像の造りは、厚みのある高浮彫りで、丸顔で肉付きの豊かな頭部や、光背の意匠、衣文の表現などには、7世紀後半の白鳳彫刻に通じる特徽を見ることができる。この菱形の(せん)仏は、天華寺廃寺以外では発見されておらず、白鳳・奈良時代における(せん)仏表現の多様性を知る上で、貴重な作例である。この他には、方形三尊(せん)仏の断片、方形独尊菩薩像断片なども出土している。


文献

 三重県教育委員会編『昭和53年度県営圃場整備事業地域埋蔵文化財発掘調査報告書―天華寺廃寺跡』昭和55年。
 奈良国立博物館編『奈良国立博物館名品図録』昭和55年 同朋舎出版。
 奈良国立文化財研究所飛鳥資料館編『日本と韓国の塑像』昭和60年。
  
(左)@(せん)製如来坐像断片
(上)縦11.0 奈良時代7C.
(右)A(せん)製如来坐像断片
(上)縦6.2 奈良時代7C.

B(せん)製菩薩像断片
縦6.8 奈良時代7C.

C方形三尊(せん)仏断片
(上)縦5.7 奈良時代7C.
52 藤福寺出土小形独尊(せん)仏
  縦6.7
  奈良時代 7C.
  一志郡 薬師寺



 藤福寺は、一志廃寺とも呼ばれ、天華寺廃寺にほど近い所に位置し、薬師寺境内には礎石も残っている。本像は、その境内から偶然発見された(せん)仏で、伴出した古瓦などから、同寺は7世紀後半に造営された寺院と考えられている。像は、大衣を偏袒右肩にまとって、定印を結び、左足を外にして結跏趺坐する如来坐像である。長年土中にあったためか、顔面が摩滅し、上半部が欠損しているのは惜しまれるが、小像ながら、薄い衣やヴォリューム感のある体躯の表現には、かなり写実的な表現が施されている。大きさは異なるが、本像のスタイルは、奈良県・紀寺出土の(せん)製大形如来坐像(東京国立博物館蔵)に近く、制作時期も、紀寺像と同じ7世紀後半と考えられる。


文献

 奈良国立博物館編『日本仏教美術の源流』昭和53年。
53 ◎如来坐像
   銅造 1躯
   像高 16.8
   平安時代 10C.
   志摩郡 和具観音堂



 飛鳥時代から奈良時代にかけて流行した金銅仏は、平安時代に入ると、あまり制作されなくなり、現存作品の数も非常に少なくなる。本像は、金沢市伏見寺の阿弥陀如釆坐像とともに、数少ない平安時代前期を代表する金銅仏の作例として知られている。

 かつて火中したために、右腕の肘から先が欠失し、また表面の鍍金もほとんど失われている。失われた右手は、あるいは近年発見された兵庫県・遍照院の如来坐像のように、屈臂して一種の施無畏印をとっていたのかもしれない。
 像容を見ると、左手を膝上に置き、掌を上にした一種の与願印をとり、左脚を外にして結跏趺坐している。高さ20センチ足らずの小像にもかかわらず、堂々とした迫力に満ちている。大振りの肉髻、大形の耳朶、大きな目鼻立ちの配された豊頬の顔面、丈の高い膝頭、首が短くやや猫背気味の体躯、細部にこだわらない衣文表現等々、各所に平安前期の彫刻らしい力強い造形的な特徴が現れている。

 鋳造は、飛鳥時代以来の金銅仏と同じ(ろう)型によるもので、肉厚は各部分ともほぼ平均している。また、鋳造時には、中心部に鉄心を貫入していたようで、頭頂部には、長円形の抜き去られた鉄心の跡が残っている。

本像の詳しい伝来は明らかではない。和具観音堂は、志摩国分寺とともに志摩半島を代表する古寺で、現在も、この地方の人々から多くの信仰を集めている。同寺には、文化財も多く、本像のほかに、平安時代後期の作と思われる丈六仏の頭部や、十一面観音立像(いずれも県指定文化財)などが残っており、この寺の由緒の古さを伝えている。


文献

 倉田文作「平安時代の金銅仏」『MUSEUM』215 昭和44年。
54 ◎千手観音立像
   木造 1躯
   像高55.6
   平安時代 9C.
   一志郡 常福寺



 常福寺は、寺伝では、弘仁5年(814)、空海による創建といわれれが、近世初期に荒廃し、本尊は一時、ほど近い成願寺へ移されたという。江戸時代中期に成願寺の見空によって再興され、現在では天台真盛宗に属している。
 この千手観音立像は、ヒノキの一木造りで、内刳りなどは一切無い。剥落が著しいが表面は漆箔仕上げとする。像は、頭上に化仏を置き、四二手を表す。条帛と裳とを身に着ける他、金属製の宝冠・胸飾・瓔珞(後補)などで荘厳し、蓮華座上に直立する。四二手は、別材製であるが、一部に後補があり、また持物は総て後補である。また、光背・台座も後世のものと変わっている。

 本像は、像高60cm足らずの小像ながら、迫力ある造形を示し、いかにも平安初期彫刻らしい力強さに満ちている。顎の張った顔面には、大きな眼鼻立ちが配され、胸から腹にかけての肉付けも力強く、下半身を覆う裳は、裾を左右に大きく張り出して、大腿部や膝下には彫りの深い衣文が刻まれ、いわゆる翻波式衣文も見られる。合掌手は、脇を広くあけ、また脇手は、正面から見ると大きな円弧を描くなど、巧みな空間構成を見ることができる。


 千手観音には、奈良・唐招提寺像や、大阪・葛井寺像(両像とも奈良時代の作)のように、文字通り千手を表す形式と、本像のように、四二手を表す形式とがある。四二手形式の遺品には、平安中期から後期にかけての像は多いが、本像のように、平安前期に遡る像は少なく、奈良時代の雑密系彫刻の系譜に連なる古様な表現になる作品として、本像は重要な像である。詳しい制作年代は不明であるが、造形的な特徴から見て、おそらく9世紀頃と考えられる。


文献

 井上 正「三重・常福寺(一志郡)千手観音立像 古仏巡歴」『日本美術工芸』532 昭和58年。
55 僧形坐像
   木造 1躯
   像高62.9
   平安時代 9C.
   松阪市 朝田寺



 松阪市の東部に位置する朝田寺は「朝田の地蔵さん」と呼ばれて、多くの信仰を集めている平安初期の地蔵菩薩立像を本尊とし、寺伝では、この地の練君長者を本願として、延暦年間に弘法大師によって創建されたといわれる。もとは真言宗であったが、現在は天台宗に属し、江戸時代の画家・曽我蕭白の作品を数多く所蔵することでも知られている。

 現在、この僧形坐像は同寺の書院に安置されるが、詳しい伝来等は、不明である。ヒノキの一木造りで、両袖先・手首を除いて、竪一材から彫出されている(ただし、右袖先・両手先は後補、左紬先は欠失)。内刳りも、一切施されていない。現在、表面は素地を呈しているが、当初は彩色が施されていたものと推察される。また、台座・光背も失われている。

 像は、胸を大きくあけて、袈裟を通肩にまとい、右手は、与願印を結び、左手には宝珠を持って、結跏趺坐する。やや猪首で、容貌は、日本人離れした大きな目鼻立ちを持ち、首や目尻には皺も表されてむしろ老人の相に近い。彫技は素朴で、衣文を殆ど表さず、体躯の肉付けも細部にこだわらず、プロポーションにも歪みが見られるなど、やや稚拙な印象すら感じられる。しかし、顔面の表現などはかなり古様で、造立年代は平安時代中期を下らないと思われる。

 本像は、いわゆる聖僧像に属するが、尊名は明らかでない。ただ、寺院の講堂や食堂には、賓頭廬や文殊などの聖僧像が安置されることが、しばしばあり、史料の上から賓頭廬像や迦葉像であることが知られる作品も確認されている。本像は、決め手となる文献史料に欠けるため、尊名を明らかにし難いが、造立当初は、おそらくそうした聖僧像として制作されたものと想像される。
56 ◎持国天・多聞天立像
   木造 2躯
   平安時代 10C.
   鈴鹿市 神宮寺



 神宮寺は、寺伝では天平年間に行基が伊奈冨神社に建立した堂塔に起源を持つといわれ、長く同神社の境内にあったが、明治の廃仏毀釈により神社から分かれて、現在の位置に移ったという。当寺には、平安彫刻の遺品が多く残っているが、この持国天・多開天の2体は、その中でも最も大きく、また時代的にも古い像である。

 我国では、飛鳥時代から、本尊を中心とする須弥増の周囲にあって、仏法を守護する四天王像が数多く造られ、また、これとは別に寺門や本尊を守る2体1組の二天像の作例も少なくない。

 両像とも、クスノキの一木造りで、頭部から足下の邪鬼に至る大部分を、一材から彫出し、腕や手先、翻る袖先などの部分に、別材を用いている。また、内刳りはない。現在、表面は、素地が現れて、瞳や髭などが墨で描かれているが、当初、全身に彩色等が施されていたかどうかは明らかでない。

 持団天は、顔を右に少し傾け、腰に下ろした右手には宝剣(後補)を持ち、左手は胸前に上げ、掌を上に開いて第一指・第二指を相捻じている。また、多聞天は、やはり右手は腰に置き、左手は胸前に挙げて、多宝塔(後補)を捧持している。

 二像とも、他の天部像と同様、眼を瞋らせて、身には鎧兜を着け、邪鬼を踏みつけて立つが、全体に動きの少ない、落着いたポーズを示している。また、持国天像の左袖には、いわゆる翻波式衣文を見ることができるが、全体的にノミ使いにしのぎ立ったところは少なく、誇張された表現も認められない。

 詳しい制作年代は甲らかでないが、上記のような造形的な特徽からみて、9世紀後半から10世紀前半頃の作と考えられる。
  
(左)@持国天立像 像高161.0
(右)A多聞天立像 像高162.5
57 ◎毘沙門天立像
   木造 1躯
   総高 101.0
   平安時代 llC.
   安芸郡 善福寺



 津市の西郊、安濃町の天台真盛宗に属する善福寺に毘沙門堂に伝来した像で、寺伝では、元この地にあった正蔵院という寺院の本尊であったという。

 本像の構造は、ヒノキの一木造で、頭体の主要部は、一材から彫出し、両腕は、肩・臂・手首で、別材を寄せている。内刳りは、施されていない。当初は、彩色像であったと思われるが、現在、殆ど剥落している。また、光背・持物が後世のものと変わる他、体側の天衣や邪鬼も後補となっている。

 像容は、正面に三角形の前立ちと左右に鳥形の装飾を持つ兜と、鎧、下半身を覆う裳を着けて、右手を腰に置いて三叉戟(後補)を握り、左手は屈臂して、宝塔(後補)を捧げ持ち、腰を右に曲げ、邪鬼を踏みつけて立つ。眼を瞋らせ、口を大きく開いた忿怒の相を示すが、首が太短く、顎の張った頭部の形は特徴的で、迫力に満ちている。しかし、腰を捻り、右足に重心を置いた身体のポーズは、勅勢に乏しく、鎧や衣文の表現も平面的で、制作年代も平安時代後期に下るものと考えられる。

 像高1メートル余りの小像であるが、脇を大きくあけ、腰を捻った体躯の造りは、豊かな空間構成を見せ、面相部を初めとする各部の彫技も巧みで、この地方に残る天部像の優れた遺品である。
58 ◎虚空蔵菩薩坐像
   木造 l躯
   像高94.8
   平安時代 10−11C.
   上野市 勝因寺



 勝因寺は、真言宗豊山派に属し、当寺本尊のこの虚空蔵菩薩坐像は、「山出の虚空蔵さん」と呼ばれて、近郷の人々の信仰を集めている。寺伝によると、本像は、諸国巡歴中の空海が求聞持法の本尊として刻んだ像であるというが、実際には、空海在世時よりかなり年代の下る平安時代中期から後期にかけての作と考えられる。

 本像は、カヤの一木造であるが、両腕や手首、脚部などには、別材を用いている。内刳りは、殆ど施されていない。現在、表面は、素地を呈しており、当初彩色が施されていたかどうかは明らかでない。また、当初の光背・台座・宝冠・持物・胸飾などは失われ、後世のものと変わっている。

 像は、条帛・天衣と裳を着けて、右足を外にして結跏趺坐し、右腕は屈臂して第一指・第二指を相捻じた一種の施無畏印を取り、左手は胸前で掌を上にして宝珠を持った姿に表される。大きなカーブを描いて鼻梁につながる眉・切れ長の眼・豊かな頬を持つ穏やかな顔貌や、緩やかな起伏のある体躯の肉付け、浅い衣文の表現などは、本像が平安時代10世紀から11世紀頃め制作になることを示している。

 虚空蔵菩薩は、福徳を司る菩薩として、我国では奈良時代以来信仰されてきた。密教では、この菩薩の福徳・知恵増進の功徳にあずかろうとする虚空蔵菩薩法や、記憶力増進をはかる求聞持法の本尊として尊崇され、特に空海による求聞持法修法は有名である。虚空蔵菩薩像の遺品は、彫刻では奈良時代後期の奈良・額安寺の本心乾漆虚空蔵菩薩半跏像や、平安前期の京都・広隆寺の木造虚空蔵菩薩坐像などがあり、また絵画では平安後期の虚空蔵菩薩像(東京国立博物館)が良く知られているが、この勝因寺像も平安中・後期の作例として貴重である。
59 ◎大日如来坐像
   木造 l躯
   像高89.5
   平安時代 10−11C.
   津市 蓮光院



 津市の中心部に位置する蓮光院は、真言宗御室派に属し、寺伝ではかつては近くの四天王寺の子院であったとも伝えられる。当寺は、戦見などで伽藍などは焼失してしまったが、幸い平安期の彫刻が2体残っている。

 本像は、胸前で智挙印を結んだ金剛界の大日如来である。本像の詳しい伝来は明らかでないが、各所に巧みな彫技が見られ、後補部分も少なく、鈴鹿市・妙福寺の大日如来像とともに、この地方に残る密教彫刻の優れた作例として注目される。

 ヒノキを使用し、頭部と体部の主要部は一材から彫成し、脚部と両肩・臂・手首から先は別材製で、像底から内刳りが施されている。当初は彩色されていたと考えられるが、現在では殆ど剥落し、僅かに唇に朱が認められるのみである。また、腕釧・臂釧は、銅板打出し製である。なお、当初の光背・台座は失われている。

 像は、条帛と裳を看けて、智拳印を結び、右足を外に結跏趺坐する。大きく張った顎と、豊かな頬、目尻の上がった眼の形や、脇を開いて腕を張った体躯の造りなど、各部に平安初期彫刻を思わせる古様な表現が見られるが、それらは、手慣れたノミ使いを示して、やや初発性に欠け、その造立年代は、平安時代中期頃に下ると考えられる。
60 ◎雨宝童子立像
   木造 1躯
   総高110.0
   平安時代 10−11C.
   伊勢市 金剛証寺



 伊勢の朝熊山山中に位置する金剛証寺は、神宮に近いこともあって、仏教信仰と神宮信仰とが結付いた、独特の信仰形態を持っている。寺宝にも、かつて神宮の神宝であった双鳳鑑のように、神宮との強い関係を窺わせる作品が、少なくない。この雨宝童子立像も、神仏習合的な当寺の特異性を物語る遺品である。

 本像は、頭上に五輪塔を戴き、右手には宝棒をつき、左手には宝珠を持って、直立する(ただし、五輪塔及び持物は後補)。身には、袖の長い衣と、裳を着け、髪を長く肩まで垂らしている。ヒノキの一木造りで、現在、表面は殆ど素地を呈しているが、両膝部に僅かに朱彩色の跡が認められる。

 雨宝童子は、寺伝では、天長2年(825)、朝熊山で求聞持法を修した空海が、天照大神の託宣により、同山の護法神として彫出したという。また、本地垂迹思想では、天照大神は大日如来の垂迹神とされるところから、本像頭項の五輪塔は、この垂迹思想との関係から付与されたものであると考えられる。髪を長く垂らし、左手に宝珠を持った姿は、一見して吉祥天を連想させるが、あるいは雨宝童子の図像形成には、吉祥天の形制が関係していることも推察される。

 本像の制作年代は明らかでないが、顔貌や体躯の造りなどから見て、平安時代中期頃と考えるのが妥当であろう。雨宝童子の作例は、他に鎌倉期の奈良・中宮寺像や、室町時代の奈良・長谷寺像などが知られているが、平安時代に遡る作品はなく、本像は年代的に最も古い点、貴重な作である。
61 ◎薬師如来坐像及び像内納入品 津市 四天王寺
   @薬師如来坐像
    木造 l躯
   像高64.2
   平安時代



 四天王寺は、現在、曹洞宗に属するが、寺伝では聖徳太子の創建といわれるこの地方の古寺で、戦前までは、境内北側の薬師堂に、出品の薬師如来坐像を中心に、阿弥陀如来坐像(像高232.7cm)、大日如来坐像(像高242.5cm)、及び阿(しゅく)如来坐像(像高238.2cm)、千手観音坐像(像高152.0cm)、薬師如来坐像(像高86.3cm)が安置され、偉容を誇っていた。いずれも平安後期の造立になる大作であったが、戦災のために焼失し、現在では出品の薬師如来像1体が残るのみとなってしまった。

 本像は、ヒノキ造りで、表面を漆箔仕上げとする。頭体部は、竪一材から造り、両脚部には横一材を寄せている。また、右腕の臂から先と右手首、左手首は、それぞれ別材を矧いでいる。背面から背刳りが施され、像底からも浅く内刳りされている。

 像容は、薬師如来通例の形制を示し、大衣と裙を着けて、右足を外にして結跏趺坐し、右手は掌を前方に開いた施無畏印を結び、左手には薬壷を持っている。像高60cm余りの小像であるが、平安後期の作らしい穏やかな作風を示し、寺院の本尊というよりは、むしろ個人の念持仏といった趣の強い像である。

 本像は、像内に納入されていた品々によって、造立の経緯と年代とが知られる点が、重要である。納入品は、文化2年(1805)、本像が開帳された時、仏師友学康珍によって修理された際に、像内から取り出されたもので、納入状況の詳細は明らかでない。

 納入品は、別記のように結縁交名状・貢進状などの文書類と、櫛・鏡などの工芸品とに大別できるが、大像造立の経緯を記すのは、結縁交名状である。それによると、本像は、物部美沙尾が願主となり、「内作」の物部吉守と「木作」勝重孝を中心に造立が行われ、おそらく美沙尾の没後、彼女の志を継いだ寺家目代僧定尋が願主となって承保4年(1077)2月頃に像が完成し、種々の品を像内に納入したものと考えられる。

 物部美沙尾なる女性が、いかなる人物かは明らかでないが、この地方の豪族の夫人かと想像され、納入品中の鏡・櫛・扇骨・縫針・タカラカイなどは、おそらく本像の願主であった物部美沙尾遺愛の品々であったと考えられる。また、納入品中の民部田所勘注状は、康平5年(1062)に記されたもので、平安後期における当寺の経済的基盤であった田畑の状況を知ることができる。

 このように、本像は、納入文書によって、造立年代や経緯を知ることができる基準作であり、また平安後期の地方での造仏活動の状況の一端を敢えてくれる点、貴重な資料ということができる。

@薬師如来像 木造1躯
像高64.2 平安時代



A結縁交名状 貢進状1-3 民部田所勘注状
絵本墨書5通 各天地26.1
  
(左)B唐草双鳳鏡 白銅製1面
径10.3 平安時代
(右)C櫛 木製3枚 平安時代
    
(左)D扇骨 黒漆塗5橋 平安時代
(右E)縫針 7本 平安時代
 
(左上)Fタカラカイ 2個 平安時代
(左下)G牙賽子 2個 径0.6 平安時代
(右)H瑠璃玉 1顆 径0.6 平安時代

(左)I麻糸 1束 平安j時代
(中)J麻布 1枚 平安時代
(右)K絹小袋 1口 平安時代

L包裂 絹製 縦34.5 平安時代
62 ◎大日如来坐像
   木造 1躯
   像高151.0
   平安時代 llC.
   鈴鹿市 妙福寺

63 ◎大日如来坐像
   木造 l躯
   像高148.0
   平安時代 llC.
   鈴鹿市 妙福寺



 鈴鹿市の南西部,徳居町にある妙福寺の本堂には、現在、本尊厨子を挟んで、半丈六の大日如来坐像2体と等身の釈迦如来坐像1体が安置されており、同市では、稲生町の神宮寺と並んで、平安彫刻を数多く伝える寺院として知られている。

 2体の大日如来坐像は、像高も殆ど同じで、作風も近似していて、おそらく同時期に同一工房によって造立されたものと思われる像である。詳しい伝来は明らかでないが、当時は、もと南の堂山にあり、桃山期の兵火により仏堂を焼失し、残った仏像と共に、現在地に移ったという。

 2体とも、条帛と裳とを着け、右足を外にして結跏趺坐する。両手は、胸前でいわゆる智拳印を結んでおり、金剛界大日如来通例の形制を示している。両者殆ど同じ形式を示すが、印相や条帛末端の処理、裳裾の表現などに、若干相異が認められる。

 構造は、ヒノキ材を使用し、頭部と体部の主要部は竪一材から彫出し、脚部には、横一材を寄せている。また、両腕も、肩・臂・手首でそれぞれ別材を矧いでいる。背面から大きく背刳りを施すほか、後頭部・像底からも内刳りを行っている。当初表面を覆っていた彩色あるいは漆箔は、現在では殆ど剥落している。また、台座は後補で、光背は失われている。

 両像とも、定朝様式に習った、いかにも平安後期の彫刻らしい穏やかな作風の像である。写実的で、柔らかい衣文表現、伏目がちの優しい顔立ち、痩せ気味の胸から腹にかけての肉付けなど、各所に共通する特徴が認められるが、作者の違いに因ると考えられる相異もニ・三見ることができる。すなわち、向かって左の像が、膝高の高い脚部や、いかつい南肩、男性的で意志的な表情などにみられるように、全体に力強い造形を示しているのに対し、右の像は伏目がちの女性的な顔立ち、撫で肩の体躯、偏平な脚部の表現など、やや造形的にやや弱い点が認められる。両像は、法量や全体の作風からみて、ほぼ同時期の作と考えるのが自然であり、このような細部の相異は、おそらく同一工房内における仏師の違いに因るものと思われる。これら2体の大日如来像は、詳しい伝来や制作年代など不明であるが、11世紀から12世紀にかけての、この地方に残る密教彫刻の大作として重要な像である。

(62)

(63)
64 ◎釈迦如来坐像
   木造 l躯
   像高110.0
   平安時代 11−12C.
   鈴鹿市 妙福寺



 本像は、妙福寺本堂仏壇の向かって右瑞に安置きれる像である。

 大衣と裙とを身に着けて、右足を外にして結跏趺坐し、右手は掌を前に開いた施無畏印を結び、左手は膝上に置いて、与願印を結んでいる。

 像は、ヒノキ材製で、頭部と体部の主要部は竪一材から彫成し、脚部には横一材を寄せ、右臂から先と、両手首なども別材から彫出している。また、背面から背刳りを行う他、像底からも内刳りを施している。現在、表面は素地を呈していて、当初の漆箔などは総て剥落している。なお、先の大日如来と同様、当初の光背は失われ、台座は後世のものとなっている。

 作風は、大日如来とかなり異なるが、やはり平安時代後期の作と考えられる像で、装館的に整えられた裳裾の衣文や、丸く端正な表情を示す容貌に特徴がある。本像の作風や法量は、当寺仏壇左端に安置される聖観音坐像(未指定)と近似しており、あるいはこの2体はもと一具の像であったとも推測されるが、詳細は明らかでない。
65 ◎四天王立像 
   木造 4躯のうち2躯
   平安時代 11−12C.
   上野市 市場寺



 上野市南部の菖蒲池にある市場寺は、現在、真言宗豊山派に属し、平安時代も終わりに近い頃の定朝様になる半丈六の阿弥陀如来坐像を本尊とする。今回出品の四天王立像は、寺伝では定朝作と言われる等身に近い像で、作者の伝承はともかく、都での制作を思わせる、平安後期の優美な作風を示している。

 出品の2体は四天王像4体の内の2体で、ヒノキを使用して、頭部から足下の邪鬼に至るまで竪一材から彫出し、胴体は、体側で前後に割り矧いで内刳りを施している。翻る袖先や、両腕の大部分などは、別材を矧ぎ、天衣・持物も別材製である(ただし、天衣・持物・手先などは、後補)。現在では、かなり剥落が著しいが、表面には白土地の上に、漆箔及び彩色が施され、華麗な切金文様も各所に見ることができる。

 持国天は、眼を瞋らせ、口を閉じて、顔を斜め右に向け、右腕は軽く屈して、宝剣を執り、左手は体側に沿って伸ばし、掌を下に向ける。身体には、鎧・裙を着けて足下の邪鬼を踏みつけて立つ。また、増長天も、やはり鎧・裙を身に着けて、右腕を後方に振り上げて剣を持ち、左手は腰に置いて、顔を左に向けて、眼を喋らせ、口を開いて立つ。

 両像とも、顔の表情は忿怒相を示すが、太い体躯は、動きが少なく、量感に溢れている。この2体と、広目天・多聞天の両像とは、若干作風と形制とに相異があるけれども、4体同時期の作と見て誤りないものと考えられる。像全体の静的で、誇張のない造形表現や、裳裾や袖の部分に施された繊細華魔な切金文様から見て、本像の制作年代は、平安時代後期の11世紀後半から12世紀頃と考えられ、この地方に残る数少ない四天王の遺作として重要な作品ということができる。

 また、この四天王像で注目されることは、持国天像邪鬼の底面に、造立当初のものと思われる墨描の戯画が見られることである。描かれているのは、男根・瓶子・水禽などで、おそらく彩色に携わった画師か仏師による、手すさびの筆と思われる。
    
(右)@持国天立像 像高149.5
(左)A増長天立像 像高152.0
66 ◎薬師如来立像
   木造 1躯
   像高81.3
   平安時代 11−12C.
   鈴鹿市 神宮寺



 この薬師如来像は、表面に彩色や漆箔仕上げを施さない、いわゆる檀像彫刻の系統につながる像で、現在、螺髪に後補の紺青が塗られている以外、表面は素地を呈している。 像は、ヒノキを用い、頭部から足元に至る体躯の大部分を竪一材から彫成し、両肩から先には別材を寄せている。内刳りは、施されていない。また、当初の台座・光背は失われているほか、両手先と足首から先は後補である。

 像容は、大衣と裳を着けて、右手は掌を前方に開いた一種の施無畏印を結び、左手には薬壷を持って直立する、薬師如来通例の姿を示す。

 ぽっちゃりした童顔風の穏やかな表情や、奥行きの浅い体躯と、抑揚の少ない胸から腹にかけて肉付け、流れるような彫りの浅い衣文表現など、各所に藤原彫刻の特徴を見ることができ、平安初期彫刻にならった、衣文を刻出しない大腿部の表現も形式化して力強さは認められない。制作年代は11世紀後半から12世紀頃と考えられる。
67 ◎十一面観音立像
   木造 l躯
   総高173.6
   平安時代 11−12C.
   名張市 弥勒寺



 東に布引山地を望む、名張市北東部の西田原の高台に位置する弥勒寺は、寺伝では天平年間、円了の創建と伝えるが、詳しい寺史は不明で、現在は真言宗豊山派に属している。寺名から明らかなように、当初は弥勒仏を本尊としていたと考えられるが、今では薬師如来を本尊としている。

 当寺には、古彫刻が多く、出品の平安後期の聖観音立像・十一面観音立像の他にも、やはり平安後期の薬師如来坐像・弥勒如来坐像、室町時代の役行者倚像が伝えられている。

 この聖観音立像は、現在、当寺本堂向かって右端に安置され、次の十一面観音像に以た作風を示すが、詳しい伝来は明らかでない。

 ヒノキの一木造で、頭部から足元までを竪一材から彫出し、両肩・左臂・両手首で、それぞれ別材を矧いでいる。内刳りは、一切施されていないようである。又、現状、表面はほとんど素地を呈し、当初の彩色等は剥落してしまっている。残念なことに、本像は、後補部分が多く光背・台座と両手先や持物の蓮華、両足先が後補である他、顔面の眼や口唇にも後世の補刻が認められる。

 像は、条帛・天衣と裙とを身に着けて、右手を体側に沿って垂下させ、左手は胸前で蓮華を持って、直立している。後世の補刻のために、顔立ちはかなり損なわれているが、優しい容貌や彫りの浅い衣文表現は、穏やかな藤原彫刻の特徴を示しており、制作時期も11世紀後半から12世紀に下るものと考えられる。
68 ◎聖観音立像
   木造 1躯
   絶高171.0
   平安時代 11-12C.
   名張市 弥勒寺



 当寺本堂の仏壇左端に安置される像で、作風や法量などから見て、上記の聖観音立像とほぼ同時期に造立きれた像と推察される。

 ヒノキ造りで、頭体の主要部を竪一材から彫成し、背面から大きく背刳りを施している。また、右腕は肩と手首、左腕は肩・臂・手首でそれぞれ別材を矧いでいる。持物・項上面・左右の垂下する天衣などは後補で、台座・光背も当初のものは失われている。現状、表面は殆ど素地を現しているが、裙の各所に彩色が認められる。

 像は、条帛と天衣、裙を身に着けて、右手は垂下して、掌を前方に開き、左手は屈臂して、水瓶を持って直立する。作風は、先の聖観音立像に近く、抑制された、柔らかい肉付けの体躯や、彫りの浅い線条的な衣文表現などは、平安後期に全国各地へ普及して行った絵画的な性格の強い彫塑表現の一典型というべきものである。
69 ◎日光・月光菩薩立像
   木造 2躯
   平安時代 11−12C.
   上野市 蓮徳寺



 上野市の南部・湯屋谷の蓮徳寺は、寺伝では行基による開創といわれ、現在は真言宗豊山派に属する。本尊の薬師如来は秘仏であるが、両脇侍の日光・月光菩薩立像は、平安時代後期の優美な作として知られている。

 両像とも、ヒノキ造りで、頭体の主要部は、竪一材から彫出され、両肩・臂・手首で別材を矧ぎ、体側を垂下する天衣も別材製である。背中から大きく内刳りを行い、肩下から裳裾に至る背板を当てている。当初の彩色や漆箔は、殆ど剥落し、現状では、表面は素地を現している。また、光背・台座とも後世のものである。

 日光菩薩は、高髻を結い、条帛・天衣・裙を着け、腰を左に捻って、右足を僅か前に踏み出して、蓮華座上に立つ。左手は屈臂し、右手は下げて、両手で日輪(後補)を持っている。また、月光菩薩像も、日光像と酷似するが,腰を殆ど捻らず、右手を屈臂する点が大きく異なる。

 像の表現は、平安時代後期に流行した定朝様にならっており、優しい眼差しの顔立ち、彫りの浅い、平面的な衣文表現、平板な陶から腹部にかけての肉付けなど各所に平安後期の彫刻に共通する造形的な特徴を見ることができ、おそらく12世紀に入ってからの造立になるものと思われる。

  
(右)@日光菩薩像 総高103.3
(左)A月光菩薩像 総高104.0
70 ◎観世音菩薩・勢至菩薩坐像
   木造 2躯
   平安時代 11−12C.
   上野市 西光寺



 上野市・界外(かいげ)の西光寺本尊の阿弥陀如来坐像(室町時代の作)の両脇侍像で、観世音菩薩が両手で蓮台(後補)を捧げ持ち、勢至菩薩が合掌して、膝を揃えて坐るという平安時代後期に流行した来迎形式を示す。

 両像とも、ヒノキ材製で、頭体部の大部分を竪一材から彫出し、両膝部には別材を寄せる。また、両腕も、肘から先や、手首などは別材を矧いでいる。頭部は、割り首とし、耳後で前後に割矧いで、内刳りを施し、また胴体も体側で割矧いで、内刳りしている。内刳りは、非常に丁寧になされ、一部に布貼りも認められる。表面は、やや傷んでいるが、布貼りの上に、漆箔を施す。なお、当初の台座・光背は失われている。

 両像とも、いかにも平安時代後期の作らしい、穏やかな表現を示し、肉付けや衣文表現など、どこを見ても、しのぎの無い、静かな雰囲気をたたえている。2像が、同時期の同一工房による作であることは明らかであるが、両者を比較すると、若干表現の差異も認めることができる。すなわち、観世音菩薩の方が、顔がやや面長で、体躯の造りも細身となっている他、衣文の処理にも、両者に少し相違が見られ、両像の仏師の違いを想定することができる。

 この来迎形式の阿弥陀三尊像としては、久安4年(1148)の制作になる京都・三千院像が有名であるが、両脇侍が跪坐する作例は多くなく、三千院像や本像の他には、愛媛県・保安寺像、静岡県・MOA美術館像など数例が知られているだけで、本像もそうした12世紀前後の都での阿弥陀来迎の造像にならった腕坐形式の脇侍菩薩像の貴重な遺品である。

(右)@観世音菩薩坐像 像高68.0
(左)A勢至菩薩像 像高68.5
71 ◎薬師如来坐像
   木造 1躯
   像高103.6
   久安元年(1145)
   度会郡 明星寺



 この薬師如来坐像は、もと神宮入ヶ寺の一つであった三津定泉寺に伝わった像で、明治の廃仏毀釈の際、明星寺に移されたという。本像は、像内背面に墨書銘があり、これにより平安時代も末に近い久安元年(1145)に、神宮の神官もつとめるこの地方の豪族・荒木田氏と度会氏とを発願者として道立されたことを知ることができる。制作年代が明らかであり、また神宮神官と仏教との関係を示している点でも貴重な作品である。

 像は、大衣と裳とを着け、右手を胸前に上げて、一種の施無畏印を結び、左手には薬壷を持って、右足を外にして結跏趺坐する(ただし右臂から先と、左手首・薬壺は後補)薬師如来通例のポーズを示す。現在、表面は、素地を呈しているが、当初は漆箔仕上げであったと推察される。なお、光背・台座は失われている。

 構造を見ると、ヒノキ材を使用し、頭部と体部の大部分は竪一材から、また両脚部や右臂から先、左手首などは別材から彫出している。頭部は、三道下で割り離した後、耳後で割矧ぎ、内刳りを施し、また体部は背面襟際で割って、やはり内刳りしている。

 胴体に比較して、やや大きな豆畠部を持つが、その彫技は巧みで、伸びやかなカーフを描く眉・切れ長の眼・形の良い唇の配された、やさしく親しみやすい顔貌や、抑揚の少ない体躯の肉付き、しのぎの無い浅い衣文表現などは、いかにも平安後期の作らしい特徴を示している。


文献

 竹内森太「伊勢明星寺薬師坐像」『史迹と美術』24−8 昭和29年。
 水野敬三郎他『日本史彫刻史基礎資料集成 平安時代 造像銘記篇三』昭和42年 中央公論美術出版。
72 ◎阿弥陀如来坐像
   木造 1躯 像高84.6 
   平安時代 12C. 
   津市 蓮光院



 No.59の大日如来坐像を蔵する津市の蓮光院に残る、等身の阿弥陀如来坐像セある。造立当初、表面に施されていた漆箔は、現在では殆ど剥落し、大部分素地を現している。構造は、ヒノキ材を使用し、頭体主要部は竪一材から彫出し、両足部・右臂から先・両手先部などは、別材を用い、背面と像底から、大きく内刳りを施している。両手先が後補である他、当初の光背・台座も失われている。

 像は、大衣と裙とを身に着けて、来迎印を結び、右足を外にして結跏趺坐する阿弥陀如来通例の形制を示す。前記の大日如来像と同様、本像の伝来・制作時期についての詳細は不明であるが、彫りが浅く、形式化した衣文処理、量感に乏しい肉体表現などから見て、制作は平安時代も末に近い頃と思われる。また、大日如来像が破綻のない都ぶりの作風を示していたのとは対照的に、本像の左肩下がりの、ややパランスのくずれた体躯の造りや、うつむき気味の丸味の多い頭部の表現などは、素朴でひなびた印象を与え、都の仏師による洗練された作風の作というよりは、この地方の仏師の作になる像である。
73 地蔵菩薩立像
   木造 1躯
   像高142.0
   鎌倉時代 12−13C.
   伊勢市 金剛証寺



 本像は、下半身に丈の短い裙をまき、上半身は裸体という半裸の地蔵菩薩で、鎌倉時代に盛行した裸形像の一種である。構造は、ヒノキ材製で、頭体主要部は竪一材から彫出し、両腕は、肩・臂・手首でそれぞれ矧いでいる。肉身部は、漆箔を施し、裙には剥落が著しいが、彩色の跡を見ることができる。なお、当初の持物および光背・台座は失われている。

 像容は、胸飾(後補)を着け、右手を軽く屈して腰のあたりに置き(もと錫杖をもっていたと考えられる)、左手は掌を上に宝珠を取って、下半身に腰布状の短い裙を巻いて、直立している。頭部は、いわゆる比丘形で、頬の豊かな顔面に眼鼻立ちを大きく配している。喘正な顔立ちや、胸から腹にかけての柔らかな肉付け、簡略化された衣の表現などは、本像が藤原彫刻の遺風を遺す鎌倉初期の制作であることを示している。

 鎌倉時代は平安時代後期に引き続いて、現世利益的な性格の強い地蔵菩薩が盛んに信仰された時代で、この時期に制作された地蔵像の遺品は非常に多く、本像もそうした平安時代末から鎌倉時代にかけての地蔵信仰の隆盛を背景にしているが、彫刻史的に興味深いのは、本像が、鎌倉時代に集中して造られた裸形像に属する点である。裸形像には、奈良・伝香寺の地蔵菩薩立像のような全裸像と、本像のような半裸像とがあり、これら裸形像は、その上に実物の袈裟などを着けることを前提としている。裸形像の起源については、これを鎌倉時代の彫刻が持つ現実主義的な傾向に求める説や、中国宋代彫刻に求める説、あるいは神像彫刻からの影響を想定する説もあって、定説は無いが、本像もこうした鎌倉期の裸形像の貴重な作例の一つである。

 なお、金剛証寺では、本像を「矢負地蔵」と呼び、信者の身代わりになって、矢を負う地蔵菩薩として、尊崇している。


文献

 田辺三郎助「金剛証寺地蔵菩薩像について―着装像の一例として」『大和文化研究』66
74 ◎俊乗上人坐像
   木造 1躯
   像高81.2
   鎌倉時代 13C.
   阿山郡 新大仏寺



 治承4年〈1180)に平重衡の南都焼き打ちによって大きな打撃を受けた東大寺復興の大勧進職として活躍した俊乗坊重源の肖像である。重源の肖像は、本像の他、奈良・東大寺、兵庫県・浄土寺、山口県・阿弥陀寺など重源ゆかりの諸寺に数体が残っているが、この新大仏寺像は、それらのなかでも優れた作として知られている。
 本像は、ヒノキの寄木造りになり、頭部は顔面で矧いで、玉眼を嵌入し、体部は、前半を一材,後半を左右二材から彫り出し、両足部・袖・手先などに、別材を寄せている。表面には、布貼りの上、彩色を施し(現在の彩色は後補)、像内も丁寧に内刳りして布貼りする。

 像容は、袈裟に衲衣、裳を着けて坐し、両手は腹前に置き、左手を外にし、右親指を左手で包むような印相を結んでいる。容貌は、他の重源像と同様、老人の相を示し、額や目尻・首筋には深い皺を刻む。口をへの字に固く結び、遠くを見詰めるような眼差しは、この高僧の強い意志をリアルに伝えている。猪首のように前方に突出した太い首や、異様に突き出した後頭部の表現、あるいは左削こ対して右目を大きく表すなど、重源の容貌を良く知った仏師の作になることを推察させる特徴が各所に認められ、こうした真に迫る写実的表現が、この像に大きな存在感を与えている。

 重源は、建永元年(1206)、86歳の高齢で没している。本像を初めとする重源像の制作時期や作者については、確実な史料に欠けるため、不明な点が多く、この新大仏寺像も例外ではない。制作年代は、本像よりもやや年が若い山口・阿弥陀寺像、あるいは更に進んだ老相を示す奈良・東大寺像との比較から、木像を重源82,3歳頃に造立されたとする説の他、80歳の寿像と見る鋭もあって、断定し難い。また、作者についても、重源と関係の深かった快慶を想定する説もあるが、推測の域を出か、。このように、不明な点は多いが、いずれにせよ本像は迫真的な写実表現になる鎌倉時代肖像彫刻の傑作として、価値は高い。


文献

 小林 剛「俊乗坊重源の肖像について」『仏教芸術』23 昭和29年。
 小林 剛『俊乗坊重源の研究』昭和46年。
 三山 進「寿像と頂相彫刻」『MUSEUM』295 昭和50年。
 井上 正「肖像彫刻の一系列―僧侶肖像とその脈流」『日本の肖像』昭和53年 中央公論社。

75 ◎僧形坐像
   木造 1躯
   像高73.1
   鎌倉時代 13C.
   阿山郡 新大仏寺



 この僧形坐像は、寺伝では賓頭廬尊者とも、また重源の『南無阿弥陀仏作善集』に、東大寺大湯屋の大釜を造ったと記され、俊乗坊重源に次いで当寺に住した伊賀聖人の像ともいわれるが、確証はなく、尊名は決定しがたい。

 像は、ヒノキ材を使用し、頭体主要部を竪一材から彫出して、内刳りを施す。両肩以下には別材を寄せる他、また両手先・裳先も別材製とする。現状、肉身部は、黒色を呈し、衣の部分は殆ど素地を現しているが,当初の彩色の状態は明らかでない。又、台座も後補である。

 像容は、袈裟と衲衣、裳を着けて、右足を外にして絃跏趺坐する。右手は、膝上に置いて掌を上に開いて軽く4指を曲げる。また、左手は屈臂して、掌を上に、何かを握るポーズを取る。頭部は、円項の比丘形で、眼がやや窪み、額に皺のある老人の相に表される。持物を取っていたらしい両手先は、後補と考えられるが、持物や当初の印相は不明である。

 顔面の表現は、なかなか巧みで、老人の相を写実的に写しているが、肉身部は、厚い衣に覆われて、抑揚に乏しい。また、衣文は、よく整理されているが、大振りで布帛の質感に欠けている。このように形式化が目立つ各部の表現から見て、制作年代は、鎌倉時代も後期に近い13世紀後半に下る可能性が大きい。
76 ◎阿弥陀如来立像及び像内納入品
   鎌倉時代 13C.
   四日市市 善教寺



 書教寺は、真宗高田派に属し、寺伝では、専修寺十世真慧の草創といわれる。当寺本尊として伝来した、この阿弥陀如来立像は、像内納入品から、鎌倉時代前期の仁治2年(1241)頃に造立されたことが知られる基準作であり、また中世の地方豪族の仏教信仰の一面をも知ることができる資料として、貴重な作品である。

 本像は、ヒノキの寄木造りで、頭体の主要部は竪一材から彫出し、頭部は割首して、耳後で割り矧いで内刳りし、面相部を矧いで玉眼を嵌入する。また、体部は、体側で割り矧ぎ、内刳りを行う。両肩以下の体側は、別材を寄せ、右腕前膊部と、これに懸かる袖・両手・・足首も別材製である。現状、かなり剥落しているが、表面は、漆箔仕上げとする。なお、当初の光背・台座は失われている。

 衲衣を通肩にまとい、下半身には裳を着けて、第一指と第二指とを相捻じた来迎印を結んで直立するという、鎌倉期の阿弥陀像によく見られる像容を示し、顔面は、肉付け豊かな頬を持ち、切れ長の眼と引き締まった小振りの鼻・口唇を配する。肩から胴体にかけての造りも堅固で、衲衣の間に見える胸部の肉付けにも張りがあり、力強い鎌倉彫刻の特徴が各所に現れている。

 本像には、別記の通り数種類の摺仏や写経、作善日記、願文などが納入されていた(現在は、巻子装にして別に保存する〉。これらは、いずれも本像造立の発願者である藤原実重にかかわる品々である。藤原実重については、出自や生涯、没年などは一切不明で、北伊勢地方に根拠を置く地方武士である可能性が強いと推測されるのみである。

 納入品の過半を占める、阿弥陀如来・十一面観音摺仏は、嘉禎4年(1238)から、上下に並んだ4寸8分の阿弥陀如来立像と3寸3分の十一面観音立像とを毎日1体ずつ黒摺りとしたもので、仁治元年10月28日に満願となったという。その数は、現在、715体を数え、実重自身が記した「七百十七体」という数とほぼ合致する。また、膨大な作善日記は、巻首を欠くが、貞応3年(1224)から仁治2年(1241)正月19日に至る、18年ほどの間の様々な善業と、それにかかる経費とを詳細に記した記録である。そこからは、この在俗信者の現世安穏・極楽往生を題う素朴な心情と、彼のもとを頻繁に訪ねる勧進聖・修行僧などの存在から、中世の宗教界の一端を知ることができる。


文献

 川勝政太郎「善教寺阿弥陀立像と胎内奉籠物」『史迹と美術』217 昭和26年。
 村治円次郎「藤原実重の作善業」『史迹と美術』217 昭和26年。
 平松令三「善教寺阿弥陀如来の胎内納入物に関して」『史迹と美術』233 昭和27年。
 太田古朴『摺仏印仏』昭和49年 三重県郷土資料刊行会。
 川村和史「善教寺阿弥陀如来胎内文書について―藤原実重の信仰」『仏教史学研究』昭和50年。
 平松令三「四日市市善教寺阿弥陀像胎内文書管見―藤原実重とその信仰」『三重県史研究』創刊号 昭和60年。
 平松令三「鎌倉時代の一土豪の宗教生活―四日市市善教寺阿弥陀如来立像胎内文書から」『龍谷史壇』86 昭和60年。
 
(左)@阿弥陀如来立像
木造1躯 像高78.3
(右)B仏頂尊勝陀羅尼
絵本墨書1紙 縦30.1 横40.0



A阿弥陀如来・十一面観音摺仏等
絵本墨書4巻 縦27.0〜29.0
嘉禎4年〜仁治元年(1238〜1240)



C般若心経・阿弥陀経 絵本墨書1巻
縦28.1 天福元年(1233)

D藤原実重作善日記 絵本墨書1巻
縦9.6 貞応3年〜仁治2年(1224〜1241)



E藤原実重願文 絵本墨書1巻
縦29.5 延応元年(1239)
77 地蔵菩薩坐像
   木造 1躯
   像高79.8
   正応2年(1289)
   四日市市 観音寺



 四日市市垂坂町の観音寺は、寺伝では、延長7年(929)、慈恵大師良源による草創と伝え、観応2年(1351)、大仏師法橋乗賢の造立になる慈恵大師坐像を本尊とする。

 この地蔵菩薩坐像は、当寺本堂仏壇の左脇に安置される像で、像内の墨書銘により、正応2年(1289)、法橋慶円により造立され、亨禄4年(1531)に長慶によって修理が行われたことが知られる。 構造は、ヒノキ材製で、頭部は前後に割り矧いで、内刳りの上、玉眼を嵌入し、差し首とする。胴体は、竪一材から彫出し、背刳りして背板を当て、両脚部、両腕前膊部、手・謔ネどは別材を寄せている。墨書銘は、脚部内面に記されている。当初の彩色は、殆んど剥落し、裳裾に朱が僅かに見られる他は、各所に白土地が残るのみである。また、光背、台座は失われている。 像は、地蔵菩薩通例の比丘形で、袈裟と衲衣、下半身を覆う裳を着け、右足を外にして半跏趺坐する。右手は、屈臂して、錫杖を持ち、左手には宝珠を捧持する(ただし、この両手先と、錫杖は後補)。 顎が大きく張った頭部、賑やかで大振りな衣文処理、かなり太めの体躯ながら、抑揚を殆んど感じさせない肉取りなどに、本像の特徴がよく現れている。その表現は、やや形式化して、みずみずしさに欠けるが、上記の特徴などから見て、慶派の作風につながる鎌倉後期の作になる地蔵菩薩像ということができよう。

 本像を造立した仏師「法橋慶円」については、詳しい履歴は明らかでないが、最近の研究によれば、慶円は、「伊予法橋」と称し、正元元年(1259)に内山永久寺御影堂の弘法大師を造り、また文永5年(1268)には同寺の多聞天像の修理を行ったこと、また弘安3年(1280)からの長谷寺本尊十一面観音像再興に参加したこと、更に名前から見て慶派に所属する仏師であった可能性が強いことなどが知られている。

 本像は、像内の銘文によれば、正応2年の造立とされるが、銘文中の年号と干支とがずれている(正応2年は、己丑で、翌3年が庚寅)ことから、あるいは正応3年造立の可能性もあるが、慶円の殆んど唯一の現存作である。


文献

 山本 勉「『弘安三年長谷寺建立秘記』にみられる仏師群の動向について」『美術史』110 昭和56年。
78 ◎地蔵菩薩坐像 像内納入品 
   阿山郡 万寿寺



 万寿寺は、詳しい寺史は不明であるが、元は長福寺と称し、奈良・西大寺の末寺であったというが、江戸時代に万寿寺と改称し、曹洞宗に属するようになった。

 当寺本尊の地蔵菩薩坐像は、像内墨書銘により、貞治3年(1364)、奈良・椿井仏所の「寛慶」と子息の「忍慶」とによって造立されたことが判明する室町彫刻の基準作で、鎌倉時代慶派の系譜に連なる作風を示す像として知られている。

 今回出品の納入品は、この地蔵菩薩像の頭部に納められていた品々で、大量の地蔵菩薩立像・騎獅文殊菩薩像摺仏など、中世仏教版画の他、版本の両界種字曼荼羅、あるいは平安時代の古写経断片や、珍しい袈裟の雛形、仮名消息なども含まれ、多彩な内容となっている。

 そのうち、地蔵菩薩立像摺仏一巻は、附属の包紙2枚に記された墨書銘によれば、貞治2年7月24日から、亡き両親の追善供養と日々の勤行のために、毎日24体ずつを上下2段に塁で摺ったもので、翌貞治3年3月に満顔に達したものと推察される。捺されている地蔵菩薩像は、右手に錫杖、左手に宝珠を持った童顔の像で、各所に捺しむらがあり、像と像との間隔も不揃いであるが、延々と続く地蔵菩薩の群像からは、素朴な信仰の美しさを感じることができる。

 また、このほか摺仏には、騎獅文殊菩薩像を8体並べたもの、地蔵菩薩と五髻を結い、獅子上に坐した騎獅文殊像とを6体ずつ摺ったもの、地蔵菩薩立像1体を摺った小形のものなど、数種がある。いずれも南北朝頃の作であるが、これらの地蔵菩薩立像は上記の地蔵菩薩像摺仏の地蔵像とは異なる像容を示しており、その制作事情も異なっていたのではないかと推察されるが、詳細は不明である。

 摺仏以外の納入品で、注目される品には、木版墨摺の両界曼荼羅がある。これは、金剛・胎蔵両界の諸尊を、仏像表現によらず、すべて種字によって表した小形の曼荼羅で、この種のものは、仏像の像内納入品としては、比較的頬品が多く残っている。また、袈裟の雛形は、大小2種あり、墨染めの絹地を縫い合わせて、五条と七条の袈裟に仕立てている。この種の袈裟雛形は、他に現存例がほとんどなく、像内納入品としては、非常に珍しい品である。あるいは、この地蔵菩薩像の造立に関係した僧侶の生前ゆかりの布地であったのかもしれない。

 これら様々な納入品の中には、年代の知られるものでは、像の制作年次を大きく遡る寛元元年(1303)の年紀を持つ文書や、康永3年(1344)の大般若経全文義理趣などの他、錦袋や毛髪などの形見的な品、仮名消息8通なども含まれているが、こうした納入品は、地蔵菩薩像の完成に合わせて、像の発願者あるいは結縁者ゆかりの品々を集め、像内に納めたのではないかと推察される。

(左)A錦裂1枚 南北朝時代
(中)B錦袋1口 縦約7.8 南北朝時代
(右)C錦断片1枚 長8.5 南北朝時代
 
(左)E古写経断片(1)紙本8片
最大片縦6.3 平安時代
(右)F古写経断片(2)
紙本1片 平安時代

G両界曼荼羅 版本2枚
各縦30.5 横30.3 南北朝時代
 
(左)H仏頂尊勝陀羅尼 版本1枚
縦22.4 横27.3 南北朝時代
(右)大般若心経全文義理趣 版本1本
縦15.2 横18.8 康永3年(1344)

J仏眼真言 絵本墨書1枚
縦17.0 横10.6 貞治3年(1364)

K騎獅文殊摺仏 絵本墨摺4枚
縦7.1〜9.0 横35.5〜37.4 南北朝時代

L騎獅文殊・地蔵菩薩摺仏 絵本墨摺1枚
縦23.5 横35.4 南北朝時代

M地蔵菩薩摺仏 絵本墨摺1巻
天地12.4 南北朝時代

N地蔵菩薩摺仏 絵本墨摺4枚
縦6.3〜7.3 横2.4〜3.3 南北朝時代

O地蔵菩薩摺仏包紙 絵本墨書1紙
縦20.0 横41.7 貞治3年(1364)

P地蔵菩薩摺仏包紙 絵本墨書1紙
縦41.8 横30.5 貞治2年(1363)

Q寄進状等 絵本墨書10通
縦25.8〜29.4 横24.8〜44.5
寛元元年〜観応2年(1243〜1351)

R袈裟 絹製墨染1枚
縦7.3 横24.5 南北朝時代

S袈裟 絹製墨染1枚
縦2.7 横10,6 南北朝時代
79 男神坐像
   木造 1躯
   像高72.6
   平安時代 11C.
   鈴鹿市 神宮寺



 伊奈冨神社は、稲生神社とも記される、この地方の古社で、社伝では崇神天皇の頃の創建といわれる。同社には、現在16体の神像が伝来し、また神宮寺所蔵の男神坐像も、明治の廃仏毀釈で、同寺が神社から別れた際に、同社から移された像であるという。

 神宮寺の男神坐像は、淳和天皇像と伝えられるが、詳細は不明である。木心を込めた、ヒノキと思われる材を用いた一木造りであるが、現在、損傷・腐朽が著しく、両手が後補となって、かなり像容を損ねる他、表面も彩色が剥落して、素地を呈している。 髯を蓄え、頭に幅の広い冠をかぶり、袖の長い衣を身に着けて坐る姿である。現在、後補となっている両手が、当初どのようなポーズを取っていたのか不明であるが、あるいは胸前で笏を持っていたとも想像される。

 一方の、伊奈冨神社の男神坐像は、社伝では崇神天皇像といわれ、神宮寺像よりも一回り小形の像である。構造も、神宮寺像と同様、ヒノキらしい材を用いた一木造りであるが、両膝部分には別材を寄せている。また、衣には、朱の彩色が認められる他、髪・眉・瞳などは墨描されている。本像は、眼を大きく開いた、忿怒の相を示し、幅の広い冠を被って、袖の長い袍を着て坐り、両手は右手を外にして胸前で組んでいるが、持物は失われている。
80 男神坐像
   木造 1躯
   総高52.5
   平安時代 11C.
   鈴鹿市 伊奈冨神社



 伊奈冨神社には、現在も出品像の他に、いずれも高さ20cm内外の小品ながら、15体の木造神像・狛犬などが伝えられている。これらの神像群については、詳しい伝来や制作年代は明らかでないが、整理された衣文処理や、柔らか味のある面部の肉付けなどから見て、おそらく平安時代後期の作と推察され、平安後期における神像制作の有様を考える上で、貴重な資料ということができる。
81 ◎神宮寺伽藍縁起(へい)資財帳 紙本墨書 
   巻子装 1巻 
   天地27.3 
   延暦7年(788)
   桑名郡 多度神社



 奈良時代後半における神仏習合の例として良く知られた、多度神宮寺の縁起と伽藍及び資財の状況を記した文書で、文面によると、4通作成され、延暦20年(801)に僧綱所に提出されて検印を受け、神宮寺、僧綱所、伊勢・尾張両国司に保管されたものという。紙幅約49センチの料紙9枚を継いで、薄墨で天地の横罫と縦罫を引いた後、縁起文の箇所では、1行17字から18字詰めで、謹直な書体の文字で記され、その上に巻初から巻末にわたって、「僧綱之印」が計213顆捺印されている。かつて、村山龍平氏所蔵になる別本が紹介されたが、現在この本の所在は不明である。

 巻頭に記された縁起文によると、当寺は天平宝字7年(763)に満願禅師がこの地に住し阿弥陀如来の丈六仏を造っていたが、多度神の託宣があったため、山の南の地を開いて小堂及神御像を造立したのに始まるという。次第に伽藍も整備されていったようで、宝亀11年(780)には、朝廷がこの寺で、4人を得度させ、その後、大僧都賢mの頃、三重塔が完成したという。資財帳には、東西の三重塔の他、仏堂・僧房などの建物や、「金泥弥勒菩薩像」を始めとする仏像,仏画、写経、仏具などが記され、往時の有様を偲ぶことができる。

 このように、本文書は、奈良後期の神仏習合及び地方寺院の有様を知る上で、重要な資料であるが、巻末の延暦20年という年紀を初めとして、各所の記載に疑義が提出され、偽文書説を唱える研究者もあった。最近の研究では、巻末の延暦20年の年紀は、延暦7年の改筆であるとする説が有力である。また、資財帳の部分でも、墾田などの広さに改変がなされている。更に、全体に捺されている「僧綱之印」にも、二種類の印が認められるなど、未解決の問題も多い史料である。なお、本巻には、これを納めた竹帙が附属している。


文献

 水谷悌二郎「多度神宮寺伽藍縁起(へい)資財帳考」『画説』3 昭和12年。
 矢野健一「多度神宮寺伽藍縁起(へい)資財帳」『地方史研究』147。
 湊敏郎「多度神社蔵、神宮寺資財帳について―僧綱之印を中心に」『仏教芸術』144 昭和57年。
82 ◎近長谷寺資財帳
   紙本墨書 巻子装 1巻
   天地29.8 天徳2年(958)
   多気郡 近長谷寺



 奈良県桜井市初瀬の長谷寺本尊・十一面観音は、霊験あらたかな観音として、古米、「長谷詣」と称され、藤原道長や足利尊氏の参詣に代表されるように、多くの信仰を集めてきた。この長谷寺の十一面観音に対する信仰は、この像と同木分身と移する多くの模刻像を生むことになり、各地に長谷寺・近長谷寺・遠長谷寺などの寺名の寺院が建立されるに至った。

 多気町の近長谷寺も、そうした長谷信仰の系譜につながる寺院の一つで、平安時代後期の作になる、像高6.5mの右手に錫枚・左手に水瓶を持つ、いわゆる長谷寺式の十一面観音立像を本尊とする。

 出品の資財帳は、紀幅約48cmの料紙を10枚継いで、草書風の書体で、堂宇・仏像・仏具・寺田などの状況が記される。巻末近くに記された縁起文によれば、当寺は仁和元年(885)、飯高宿祢諸氏によって創建されたという。子の縁起文に続けて、天暦漆(七)年二月十一日の年紀があり、また巻末に天徳二年十二月十七日の郡判があるところから、本資財帳は、天暦7年に勘録された原資財・?を、天徳2年に再録したものであることが知られる。

 資財の記述は、おおよそ仏堂・本尊・仏具・懇田の順になるが、本尊十一面観音については、高さだけでなく、面長や眉の長さ、目・鼻の大きさなど、各部の寸法が詳しく記され、その存在感の大きさが窺われる。また、資財帳の過半を占める、この寺に施入された寺田の所在と広さの詳細な記載からは、当寺の経済的状況やこの地方の地勢、更には信者の階層など、多くの事柄を知ることができ、本巻は平安中期の長谷信仰の広がりを示す貴重な資料ということができる。
83 ◎勧進状及び忍性上人像 額田部実澄像 
   室町時代 
   桑名市 大福田寺



 大福田寺は、桑名を代表する古寺の一つで、現在は高野山真言宗に属すが、この勧進状の他、仏伝図として有名な「釈迦八相成道図」や、室町期の作とされる「刺繍種子阿弥陀三尊図」、文亀3年(1503)在銘の本尊阿弥陀如来立像など、多くの寺宝を蔵している。

 勧進状の冒頭に記された縁起文によると、当寺は後宇多院の頃、額田部実澄が、大神宮の神託を受け、忍性菩薩から戒を受けて、草創したという。当初は、寺名を福田寺と称したが、足利尊氏から「大」の字を与えられて、現在の寺名になったという。

 当寺は、明応9年(1500)冬、狂賊の放火により伽藍を全焼したが、この伽藍復興に当たった沙門叡(き)の求めに応じて、三条西実隆が清書したのがこの勧進状である。

 筆者の三条西実隆(康正元年・1455―天文6年・1537)は、三条西家の第四代で、歴代天皇の信任厚く、疲弊した皇室経済の復興に当たった他、戦国大名などとも深い関係を結んでいた。彼は学者・能筆家・歌人としても有名で、多くの歌集や著述を記したが、なかでも文明6年(1474)から天文5年(1536)に至る62年間の膨大な日記『実隆公記』は、室町後期の世相を知る上で、貴重な史料となっている。

 この勧進状は、巻末に文亀元年(1501)七月日の年紀を持つが、『実隆公記』によると、実際に書写されたのは、文亀3年(1503)8月8日であるという。依頼主の沙門叡(き)については、生没年も不明であるが、当時の地方と都との文化的交渉の一端を知る上でも、本巻は貴重な資料ということができる。冒頭の実隆の款記3行と5行から成る願文に続いて、当寺の縁起、伽藍焼失の経緯、勧進に応じることの功徳などが、59行にわたって記される。本文は1行12字から13字詰めで記され、書体は、打ち込みの強い、力強く男性的な行書体になる。

 なお、本巻には、当寺開創にかかわる2人の人物の肖像画が附属している。

 その一つは、鎌倉時代の高僧・忍性上人の像である。忍性(1217−1303)は、西大寺の叡尊から受戒し、律宗の布教に努め、建長4年(1252)、関東に下り、北条氏の信頼も得て、鎌倉・極楽寺などを開いた。彼は、また熱心に慈善事業を行い、弘安6年(1283)には、奈良に我国初の癩病舎北山十八間戸を開設した他、大阪・四天王寺や鎌倉・極楽寺などの境内にも悲田院・施薬院などを設けて、貧病者の救済に当たった。忍性は、上記勧進状に当寺の開基の1人として記されているが、彼と当寺がどのような関係にあったのかは明らかでない。

 像は、前に柄香炉などを載せた卓を置き、法衣と袈裟とを着けて、左手に払子を持ち、法被を懸けた曲(ろく)に坐禅する姿で、律宗の僧侶ながら、当時流行した頂相形式によって描かれている。

 また、他の1幅の像主額田部実澄は、忍性とともに、勧進状に当寺の発願者として記される人物であるが、生没年・生涯などは一切明らかでない。現在も桑名市の西部に、平安期以来の古名である額田という地名が残っていることから推察すると、彼はこの地方の在地豪族であった可能性が強い。

 像は、烏帽子をかぶり、右手に笏、左手に数珠を持ち、白い狩衣と水色の指貫とを着けて、畳の上に坐する姿を表す。像の形式は、室町から近世初期頃の貴人の肖像画にならうが、その姿からは神職に近い趣が感じられる。像の上部に大きく余白を設けており、当初は着讃を予定していたらしい。

 両像は、作風も異なり、伝来や、詳しい制作年代は明らかでないが、勧進状とともに、中世の地方寺院における勧進復興の状況を知る上で貴重な資料である。



@勧進状 絵本墨書 巻子装1巻
天地23.9 文亀元年(1501)
 
(左)A忍性上人像 絹本著色
掛幅装1幅 縦128.7 横50.3
(右)B額田部実澄像 絹本著色
掛幅装1幅 縦93.0 横34.8
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