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「三重の美術風土を探る」展について

陰里鉄郎

このたび、私たちは「三重の美術風土」を主題とし、継続してこの主題を追求していく最初の試みとして三重県における「古代・中世の宗教と造型」を探ることとした。

周知のように三重県は、近世以前の伊勢、伊賀、志摩、そして紀伊国東部の合体によって成立している。そして現在、行政上の区分などでは、中部圏、東海北陸の一部、東海三県のひとつといったような扱いをうけていることが多い。さらには、ときに近畿圏内にいれられることもある。日本国を東西二分したときには、三重県ははたして東部なのか西部なのか。これもまたときに応じて揺れ動いている。これらのことは、首都や政権のあった場所の変動、経済圏の活動状況や交通体系、文化状況の動きなど多様な要素の複合した歴史の推移のなかで、その都度きめられているように思われる。そこで、三重県は東西の接点、といった言い方がおこなわれたりすることになるが、このたび対象とする時代においては、政治と文化の中心地の周辺、東側また東南の先端に位置した地方であった。もちろん畿内には属しないが、その近辺、すなわち近畿のひとつであった。古代にあっては政治権力と仏教文化の中心であった大和に隣接した国であり、中世にあっても文化の中心地京都はけっして遠い距離ではなかったのである。

大和の政権がいつ確立し、そして王権の氏神から転移していったという伊勢神宮の創祀がいつのことであったかは古代史の専門学者の論議を俟つとして、『日本書紀』に「これ神風の伊勢国は、則ち常世の浪の垂浪帰する国なり。傍国のうまし国なり」とあるように、伊勢地方は古代の大和びとにとっては山の彼方にある海産物の豊富な理想郷、大和びとのアルカデイアであったのだろう。このことは、伊勢を中心とするこの地方の自然と地理条件を端的に示している。ともあれ、伊勢神宮の存在とその後の伊勢神道の成立は、正負両面において三重の美術風土を考えるうえできわめて興味深くかつ重要な問題である。

ここで「美術風土」というとき、「風土」とはなにか、に触れておかねばならないであろう。風土(クリマ)は元来、季節に対応した土地の生命力を意味した語であるというが、大雑把にいえば、各地方、各場所によって異なる地方差、各地における大局的な傾向を表すものを意味している。とはいえ、単に自然環境、あるいは限られた領域の条件だけを意味するものではない。かつて『風土……人間学的考察』(一九三五年刊)を著した和辻哲郎は、この著書のなかで、「我々は〈風土〉において我々自身を、間柄として我々自身を見いだすのである」として、「我々はさらに風土の現象を文芸、美術、宗教、風習等あらゆる人間生活の表現のうちに見いだすことができる。風土が人間の自己了解の仕方である限りそれは当然のこと」という。そして「人間の、すなわち個人的、社会的なる二重性格を持つ人間の、自己了解の運動は、同時に歴史的である。従って歴史を離れた風土もなければ風土を離れた歴史もない。」といっている。

いま私たちの眼前にある問題は、三重の美術風土である。すなわち、美術という文化領域において私たちをつつんでいる全領域としての風土が私たちの問題ということになる。換言すれば、私たちのこの地域における美術のアイデンティティを探ることにある。

このたびの主題に沿った私たちの作品選択は、先史時代の考古資料を除き、歴史時代に入ってからの造型物に限定した。さきに触れた伊勢神宮がすでに存在していたなかに、伝播してきた仏教がこの地でどのような造型表現をもったのか、伊勢信仰とどのように関連したのか、伊勢神道の造型はどうか、といった問題をあらためて検討し、検証しようとの試みである。そして前述のような見地からそれらを歴史的な展開のなかにとらえようとつとめた。

律令制の確立は当然、この地方をより中央政権の地に結びつけ、政権の庇護のもとに隆盛となった仏寺の建立は伊賀、伊勢に及び、三重における仏教美術の出発を告げるが、飛鳥期のものは存在せず、白鳳期以降のものがのこる。近年(せん)仏を出土して話題となった夏見廃寺もそのひとつであるが、以後の仏像類において畿内地域のそれとの関連対比は興味深い問題を提供しよう。当時にあっては空間的には近距離であっても時間的には遠い間柄であったこともあったに相違ないからである。地域差はたえず価値上の落差を生む可能性を秘めている。

さきに触れたようにこの三重地方にとって宗教、ひいては精神的風土と造型にとって重要な問題のひとつは、伊勢神宮と仏教との関係である。この点で神仏習合の思想を示した早期の例として注目されているのが多度神宮寺であるが造型物は残していない。

いったいに神道は自然崇拝や祖先崇拝を基調としているために造型物としての礼拝対象を生むことにはならなかった。偶像崇拝がなかったのである。仏教の影響を受けて神仏矛盾することなく同居する神仏習合の思想が生まれたのち、いわゆる垂迹美術もあらわれることになるが、三重地方には垂迹美術の優品はほとんど存在しない。これは神宮神官が公的には鞏固に古来の信仰形態を墨守してきて仏教文化を拒否してきたことを示しているのだろう。しかし一方、神宮関係者も私的には仏教思想と深くかかわったことが知られている。朝熊山金剛証寺に保管されている経ケ峰経塚出土品(平安時代後期)はそのことをよく示している。これについての詳細は、別掲の論文〈毛利伊知郎)と各作品の解説にゆずることにしたい。

ただ中世に関していえば、禅宗美術にはほとんどみるべきものがないのはどうしてであろう。

また伊勢湾口に浮かぶ神島の入代神社の祭祀遺物はどのような意味をもつものなのか。なお多くの興味ある問題がのこされている。

(かげさと てつろう  三重県立美術館館長)

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