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プラハ国立美術館コレクションとチェコスロバキアの美術

陰里鐵郎  Tetsuro Kagesato

I.

あらためて世界地図をひろげて,チェコスロバキア社会主義共和国,その首都プラハの位置を確かめることから,この稿をはじめねばならないであろう。われわれ極東に位置する国の人間にとって,ごく一部の人びとを除いて,チェコスロバキアは決して身近な国ではない。本展を観るために展覧会を訪れる人びとの中には,チェコスロバキアといえば,音楽愛好者はスメタナやドヴォルジャークの音楽や「プラハの春国際音楽祭」を思い出し,文学好きの人ならば『兵士シュベイクの冒険』の作家ハシェクや,SF長編小説『山椒魚戦争』,ロボット(人造人間)という言葉とともに,劇作『R・U・R』の作者チャペックといった名を思い出すであろう。あるいはリルケ,カフカがプラハ生まれであったことを思い出す人もいるかもしれない。美術では,ごく一般的にはボヘミアン・グラスを思い浮かべるのがせいぜいなのではあるまいか。近年,日本で注目を集めたアール・ヌーヴォーの画家ムハ(ミュシヤ)がプラハ出身であることを知るひとも多くはないに違いない。われわれのヨーロッパとその文化に対していだいている漠然としたイメージは,そのほとんどが西ヨーロッパのそれによって形成されているために,チェコの文化といったとき,明快にはもちろんのこと,漠然とさえそのイメージを描くのが困難で,前述のように,各分野での断片的な事柄が脳裏に明滅するのは筆者だけではないであろう。それゆえに,あらためて世界地図をひろげる仕儀になるのである。それにしても,チェコの地理や歴史について詳述する余地も準備も今ここではないが,チェコが全ヨーロッパのちょうど中央の,しかもその真中に位置していて,ヨーロッパの東西,あるいはヨーロッパと東方世界とのあいだでも,交通,軍事,経済といったさまざまな面で,要衝の地であることを確認すれば,長い歴史のなかで,この国と住民たちが政治的社会的に数多くの苦難に遭遇しなければならなかったことは容易に想像されよう。それはときに悲劇的でさえあった。今のわれわれに近いところでは,1968年の「プラハの春」の動乱がすぐに思い出されるように。しかしもちろんそれだけではない。外来王朝による困難な状況がながくあったことは事実だとしても,また戦乱で国土は荒廃し,もともと資源の豊かな国であるのに経済が衰頽した時期があったとしても,ときに他のヨーロッパ諸国を凌駕する華麗な文化の花をさかせ,展開させていたこともあり,そしてそれを忍耐づよく維持継承してきていることも事実なのだ。チェコ語という自国語をめぐって,チェコの人民たちの苦悩と闘いは,われわれの想像を絶するものがある、もしただの一度でもプラハという都市に足を踏み入れたならば,私自身もそうであったが,この都市が全ヨーロッパの中で屈指の美しい都市,文化の歴史的遺産を豊かにもった都市であることをただちに了解しないわけにはいかないだろう。エルベ川の支流であるブルクブ(モルダウ)川が街の中央を貫流し,丘の上にはプラハ域があり,城内の聖ヴィート教会,イージ教会,シュテルンベルグ宮殿など,後期ゴシック様式からルネサンス,バロック様式の建築があり,市街地を歩いても中世以後の多様な建築様式の建造物に出会う。それらのなかに,アール・ヌーヴォー様式の建物がいきいきと存在していたりするのである。〈黄金のプラハ〉はカレル橋に象徴される中世末期,神聖ローマ帝国の王城の地に捧げられた讃嘆の言葉であったかもしれないが,それを実感させられる。

1980年からこれまでに,プラハ国立美術館所蔵品による展覧会は,三度にわたり日本において開催されている。そのときの展示作品とカタログによって,この美術館の片鱗をわれわれはうかがい知っているが,本カタログのなかの別稿に詳述されているように,チェコにおける美術品のコレクションのたどった悲劇的な運命にもかかわらず,チェコの愛国的な美術愛好家たちや慧眼なコレクターたちによって再編成された現在のこの美術館所蔵の数々によって,ヨーロッパ絵画の500年の歴史をたどる,しかもきわめて質の高い作品によって,それを示しうるということは,〈黄金のプラハ〉の実質が中世末期にとどまらないことを意味しているだろう。それにしても本展の構成には,美術史的にみて,注目すべき三つの問題があり,さらにコレクションの質と量の側面において興味深い二つの問題を含んでいるように思われる。


U.

14世紀末から15世紀初頭にかけて,ヨーロッパ全域にわたって共通した美術様式が認められ,それを国際ゴシック様式と呼んでいることは周知である。1320年代にイタリアのジヨットにはじまった空間や立体感を暗示し,人間的な感情表現さえともなった絵画表現が,アルプスを超えて,北ヨーロッパヘ伝播するような国際的な交流は,ローマ教皇庁が南フランスのアヴィニョンに移されていたことからさらに広がり,そこにシエナ派のシモーネ・マルティーニが赴いて仕事をしたことから,アヴィニョンからヨーロッパの各地へシエナ派ふうの様式が伝えられたというのが通説であるが,アヴィニョン経由のみならず複数の地点で開花した芸術様式でもあった。アヴィニヨンに並んで,神聖ローマ皇帝に選ばれたカレル1世(カルル4世,在位1364−78)の首都プラハも,もっとも主要な中心地となったのである。チェコの美術史のなかで最も興味深く,また本展で最初の注目される点はこのチェコ・ゴシック絵画にある。カールシュタイン城内の礼拝堂の祭壇画に関与したのは,イタリア人トマソ・ダ・モデナ(Tomaso da Modena)であり,彼につづく画家がテオドリカスであった。テオドリカスの『聖ヒエロニムス』をはじめ,この時期の祭壇画の数点を親しく観ることができるのを,私は幸運だと考えている。しかもチェコ,とくにプラハにおいては,15世紀初頭はフス派戦争の時期である。ドイツ系のルクセンブルク王朝のカレル1世によるボヘミアの繁栄はドイツ化の増大でもあった。そのなかでチェコ語で説教し,教会批判を繰り返えし免罪符の販売を攻撃したフス(Jan Hus 1370ころ−1415)は,最後は焚刑に処せられている。フスの思想とその行動はマルティン・ルターにはじまる宗教改革の先駆であり,フス主義は以後,近代までチェコの民族運動における精神的支柱となっている。チェコ・ゴシックは国際様式であると同時に,チェコの民族様式でもある側面をみることができるであろう。

つぎに注目されるのは,チェコ・バロック絵画である。バロックに先行するのはマニエリスムであることはいうまでもない。チェコの場合,マニエリスムはハプスブルク家のルドルフ2世(在位1576−1612)の治下において驚くべき収集と制作がなされていた。君主としては暗愚であったといわれるルドルフ2世は,学芸を愛し,1576年から30年間プラハ城に住んで,ミラノ生まれのアルチンボルト,アントワープ生まれのシュプランヘル,ハンス・フォン・アーヘンなどを招いて,宮廷での祝祭や装飾にあたらせていて,プラハは北方マニエリスムの一大拠点となっていた。またルドルフ2世はデューラーをはじめとするドイツ・ルネッサンスの画家,フランドルのブリューゲルなどの作品の収集にも力をそそいでいる。彼のコレクションのその後の運命については別稿に詳しいが,チェコのフス主義の貴族たちの勢力は,1620年のビーラー・ホーラの戦いに破れて以後30年戦争をへて,チェコにおいてはプロテスタントは排除されて,カトリック化がすすんでいる。この17世紀末に,プラハにはバロック建築が数多く現われる。チェコ側からみれば,以後19世紀までハプスブルク帝国の支配下に屈辱的な生活をしいられ,とりわけ17世紀から18世紀にかけては政治的には暗黒の時代といわねばならないが,誇りたかいチェコのバロックの画家たちは,ひるむことなく秀れた作品をのこしているのである。カレル・シュクレータにはじまるチェコ・バロックは,ヨーロッパ・バロック全体からみれば,後期バロックに属しようが,その優美で魅惑にとんだ作品に接してみると,その画面に魅了されると同時に本来,芸術は戦乱や動乱のなかでも消滅しないし,圧政のもとにあっても沈黙するものではないことを,あらためて知らされるのである。

今回の展覧会でそっくり欠落しているのは,チェコの19世紀絵画である。さしものバロック絵画も終焉は避けがたかった。いったいチェコ美術は,基本的にはイタリアやドイツ,そしてフランドルといったヨーロッパの他の地域からの影響を享受して形成,展開されてきたことは否定できないが,いつもつねに地方主義に落ちいってはいない独自性を保持してきたが,19世紀だけは異なっているように見受けられる。現在,プラハ国立美術館のチェコ19世紀部門は,プラハの都心部に近い旧アネジュスキー修道院に収蔵展示されている。それはそれとして充実したコレクションと見受けられた。19世紀前半は歴史画で,後半のアントーニン・マーネス(Antonin Ma(')nes)やヨゼフ・マーネス(Josef Ma(')nes),アントーニン・ヒトュスイ(Antonin Chittussi)などの画面が私の記憶にのこっている。ヨーロッパの諸国と同様に,同時期におけるフランス絵画の優位は動かすことはできないであろう。そこでフランスの絵画が本展でもこの時代を代表することになるが,ドラクロワ〈「キオス島の虐殺」の右下部分習作〉,クールベ〈「セーヌ河岸の娘たち」の部分習作〉など興味深い作品があり,さらにセザンヌの〈エクス附近の家〉,ゴーギャンの〈逃亡〉といったそれぞれの画家にとっても重要な作品が出品されている。印象派の作品についてはいうに及ばないであろう。

さてもうひとつの注目すべき問題は20世紀美術であるが,それについては後述することにしたい。


V.

プラハ国立美術館のチェコ以外の国のコレクションの中で,特筆されるべきグループは二つにとどまらないかもしれない。本展ではドイツ絵画は少数であるが,デューラーやホルバインのすぐれた作品〈たとえばデューラーの〈ロザリオの祝祭〉〉があることはよく知られているし,スペイン絵画も数はすくないとしても,本展のグレコの作品がよく示しているように,質的には高い内容のコレクションである。イタリア絵画は本展には出品できなかったベルナルド・ダッデイのトゥリプティス(三幅対)祭壇画や,ベネッツオ・ゴッツオーリやマンテーニア〈聖母子像〉や,ピエトロ・ロレンツェテイ,パルマ・ルイ・プロンティーノなどがあり,それに本展出品作品をも併せて考えれば,およその見当がつけられるであろう。以上のようではあるが,それにしても特筆されてよいことのひとつは,ネーデルラント,フランドルの16,17世紀絵画類のコレクションである。

美術館の内部を一巡するだけで,これだけの質・量ともにすぐれたネーデルラント,フランドル絵画がどうして収集されえたのか,15世紀後半からネーデルラントがハプスブルク家の所領となったことはあったとしても,驚嘆を禁じえない。プラハ国立美術館の収蔵品は王家をそっくり引き継いだもので成りたった訳ではなく,早い時代から国内の城館や聖堂,修道院また個人に所有されていた作品も数多いようである。本展覧会ではヨース・ファン・クレーフェの〈東方三博士の礼拝〉(三幅対祭壇画)からはじまって,コルネリス・エンゲルブレヒツの祭壇画,ルーペンス,ヨルダーンス,ヴァン・ダイクと続き,ついでオランダ画派のヤン・ファン・ホイエン,ヤコブ・ファン・ロイスダールの風景画があり,ダヴィット・テニールス(子),オスターデ,ヤン・ステーンなどとなっている。ヘールトヘン・トゥット・シンス・ヤンスの祭壇画やレンブラント,フランス・ハルス,さらにはブリューゲルの有名な〈刈り入れ〉といった作品を紹介できないことは残念ではあるが,出品作品だけでも,ネーデルラント絵画における各分野,祭壇画,肖像画,風景画,風俗画の作品を網羅し,現実感覚に富んだ,市民の人間感情豊かなこの北欧の地方の絵画的特質を享受し,鑑賞するには充分であろう。

もうひとつの特記したいコレクションは,ピカソの作品を中心とするキュビスムのコレクションである。量的にはイタリアやネーデルラント絵画のコレクションと比較する訳にはいかないが,質的には分析的キュビスムに関しては,秀逸なコレクションといってよいであろう。ピカソの作品の本展への出品は〈アルルカン〉と〈箱,カップ,林檎とグラス〉の二点であるが,コレクションは1907年の〈自画像〉〈女の胸部〉や1911年の〈ギターを弾く闘牛士〉などがある。ブラック,ドランの作品を含めて,これらキュビスムのコレクションの多くの作品は,チェコの美術史学者ヴインツェンツ・クラマージュ博士が1911−13年にパリで購入した個人コレクションの作品であり,後年,美術館へ寄贈されたものであるという。このキュビスムのコレクションは,クリムトやエゴン・シーレ,ココシュカといった文化風土的には共通するウィーンの画家たちの作品のコレクションに匹敵するというより,それ以上のものであるように私には見受けられた。

プラハの街で私は幸運にも,観劇の機会を二度もつことができた。ひとつはパントマイムであり,もうひとつは映像と音楽とパントマイムを綜合したショーであったが,いずれもが現代社会の問題,たとえば宗教,老人問題,性風俗といった問題を鋭く諷刺したもので,表現には随所にシュール・レアリスム的な手法が採用されていて,私はそれに驚いた。ここでは,かつてのアヴァンギャルドがなんの異和感もなく清新に生きつづけているように感じられてならなかった。それも単に手法や技術だけが生かされているのではなく,思想と精神に溶けこんで生きているように感じられたのである。20世紀美術においてこのようであるように,過去のチェコの美術もそうであったのだろうと想像したのであった。

三重県立美術館館長  Director of Mie Prefectural Art Museum

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