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児島虎次郎について

陰里鉄郎

児島虎次郎という画家の名は大原美術館と切りはなしては考えられない。日本のみならず東洋世界のなかでもっともっとすぐれたヨーロッパ絵画の蒐集として知られる大原コレクションの成立も、その端緒は、児島虎次郎が最初のヨーロッパ留学時(1908−12)にフランスで識りあったアマン・ジャンの作品『髪』一点を購入したことにあった。第二、第三のヨーロッパ旅行は大原コレクションのための作品購入が主要な仕事であった。そして大原美術館の創設は、終始、児島のよき理解者であり庇護者であった大原孫三郎が、児島の死後、児島へのオマージュとして設立したものであった。現在、私たちは岡山・倉敷の地を訪れ、エル・グレコの『受胎告知』、ロートレック『マルト]夫人の像』、ゴーギャン『かぐわしき大地』、セガンティーニ『アルプスの真昼』、ピサロ『りんご探り』、マティス『画家の娘(マティス嬢の肖像)』といったすぐれたコレクションに接し、驚嘆の想いで幸福なひとときを過す。蒐集はさらに児島と親しかった藤島武二をはじめとする日本近代の洋画家たちの作品へと広げられている。こうした秀抜なコレクションの基礎が、いまから半世紀以上もまえに児島の努力によってつくられたことにあらためて深い敬意の念をいだかずにはいられない。しかし同時に、私たちは児島虎次郎をひとりの画家としてもみてみなければならないのであろう。児島は画家としてもまた日本の近代洋画史のなかに独自の足跡をのこしているからである。

児島虎次郎(1881−1929)は明治37年7月、東京美術学校西洋画科選科を卒業している。入学は明治35年であった。在学期間が二年間であったのは、成績優秀ということで二度にわたり一学年飛び越えて進級したためであった。明治37年の選科卒業の同期生には青木繁、熊谷守一、山下新太郎、和田三造といった連中の名が見出されるが、のちの滞欧期に山下新太郎の交遊を除けば青木、熊谷といった画家たちとの親交はほとんどなかったようである。青木のような天才肌の放縦さをもった連中とは肌合いを異にしていたのであろう。谷中の禅寺の庭にあった納屋に住んで、「木魚の響は吾に不断の活気を与え、読経の声は我に瞑想の時を与ふ」と書き残しているような生活であったという。選科卒業後は研究科に籍をおき、明治40年(1907)3月の東京府勧業博覧会に初めて作品二点を出品発表した。そのなかの一点『なさけの庭』は、岡山市で石井十次が営んでいた岡山孤児院に取材したもので宮内庁に買上げとなり、いま一点の『里の水車』(79番)は大原美術館蔵となり、今回出陳されている。水車小屋のなかで幼児を抱く婦人と若い娘、児島は郷里の岡山県成羽川の流域にこれを取材した。出品総数243点油彩画入選点数69点、『里の水車』は一等賞牌をうけている。薄暗がりに差しこんでいる外光のなかでの素朴な庶民たちの生活感情が、抑制のきいた素直な描写と穏和な色調で表出されている。ひとりの無名の真面目な青年画家の登場であった。

児島の生涯のあいだ、児島を庇護し支援しつづけたのは倉敷紡績会社の経営者大原孫三郎であった声音、児島が大原を識ったのは美術学校入学後の間もない時期であったようである。大原は児島の美術界への登場の成功を祝福し、さらなる進展を期待して児島のヨーロッパ留学を許した。

児島のヨーロッパへの旅立ちは明治41年(1908)1月、フランス到着は3月のことであった。日露戦役後、日本人画家の留学は以前に比較して増加したが、この時期の在欧の画家たちには、児島にとっては師でもあった藤島武二、先輩である白滝幾之助、湯浅一郎、三宅克己、ほぼ同世代の斎藤豊作、山下新太郎、有島生馬、太田喜二郎、梅原竜三郎、安井曽太郎などがいた。

20世紀初頭のこの時期のフランスでは、ゴッホ、ゴーギャン、セザンヌといった後期印象派の評価がなされ、マティスをはじめとするフォーヴィスムの画家たちが登場、ピカソ、ブラックによるキューピスムの出現をみたときであった。日本の留学生画家たちも、黒田清輝と白馬会系のものはラファェル・コラン、太平洋画会系はジャン・ポール・ローランスと明確に二派に分れて勉強するといった日本国内の派閥をパリヘ持ちこんでいた色分けからようやく脱しようとしていた時期であった。東京美術学校で黒田清輝の指導をうけていた児島も、ラファェル・コラン宛の紹介状をもってコランを訪問し、コラン教室へ通いはじめたが、1週間でこれを放棄してしまっている。もはやコランふうの外光主義は日本の若い画家たちをひきつける魅力も刺激する新しさももってはいなかったのであろう。先着の山下新太郎、斎藤豊作もほとんど同じような経緯をもって自由な勉強へとむかうのである。イタリアからフランスヘ移ってきた有島生馬は、セザンヌ回顧展をみてアカデミーの勉強を投げうっている。児島にとっては花の都パリの生活もけっして快適なものではなかったようである。パリ到着から三ヶ月後、児島は、かつて黒田清輝が3年間滞在したパリ郊外、フォンテーヌブローの森の東南端のグレー・シュール・ロアン村へ移っている。フランスへきて約一年後、児島は、「思えば此の頃、都の生活がほとんど無意味である。生活に少しも緊張がない。この干からびた暮らしに自分を任かせるなどはとても忍びない。――今のところベルギー行きが自分には一番よい方法であろう。」と書いている。グレー村滞在中の作品に、ロアン河畔の森を描いたと思われる『岸の森』(80番)、ロアン河にかかる古い石橋を描いた『風景』(81番)がある。これらは留学以前の作品に較べれば、より印象派的な表現にちかづいているといえようか。

児島がベルギーのガン市へ赴いたのは1909年(明治42)7月であった。ガン市といえばフランドル派初期の巨匠ファン・アイクの祭壇画『神秘の小羊』(サン・バヴォン寺)を想い出すが、児島を迎えたのは東京美術学校の後輩、太田喜二郎であった。児島のベルギー滞在は初めニヶ月ほどの予定であったが、結局は帰国するまでの3年以上のときをここで過すことになっていた。中世以来の静謐なこの古都の環境が大都市の喧騒を嫌った児島に適していたのであろう。児島はこのガン市を根據地としてドイツ、イギリス、オランダなどへの小旅行を試み、また太田喜二郎が通っていたガン市立美術学校長ジャン・ジョゼフ・デルヴァン(Jean Joseph Delvin 53−1921)のすすめで同校に通い、帰国の前年の1912年4月にこれを卒業している。その間に二度にわたりパリのソシエテ・ナショナル・デ・ボザールのサロンに出品、入選をはたしている。その一回目の1910年春の出品作が『和服を看た少女』であった。これに先だって描かれているのが『ベコニアの畠』で、ガン市に着いて間もない時期のものである。『凝視』(82番)『ベコニアの畠』(83番)、そして『和服をきた少女』(86番)とつづくこの時期の児島の画面は急速に進展し変貌したようである。それは、いわばベルギー印象派ともいうべき画家たち、すぐれた教育者であったと思われるデルヴァン、それにエミール・クラウスといった画家との接触によってはたされたのであろう。とりわけエミール・クラウス(Emile Claus 1848−1924)はベルギーの近代絵画においては重要な画家であり、児島、さらに太田喜二郎の作品を考える場合にその形成にはたした影響は小さくはなかったと思われる。クラウスについて、児島の記すところでは「一村夫と何の異なるところなく、朴拙なる風貌」であったが「氏の光と色の研究はなかなかにして限りなし。」という。クラウスは1880年代末に色調を分割した描法によってベルギー絵画界にセンセーションをおこしており、輝くような光とその透明感の表現によってベルギー絵画に印象派的変革をもたらしていたのである。

デルヴァンは、児島にヨーロッパ各地の美術について正確な知識を授けたようで、それは各地への小旅行に役立ち、また親しかったアマン・ジャンを児島に紹介したのもデルヴァンであった。アマン・ジャン(Edmond Fnanc(,)ois Aman−Jean 1860−1936)とデルヴァンとは作風のうえでも親しいものであったのではないかと想像されるが、印象派の影響をうけた甘美な色調の作風で、スーラの友人でもあったアマン・ジャンはソシエテ・ナショナル・デ・ボザールの有力な出品者であった。児島に対しては誠実で親切な対応をみせたようで、以後は、蒐集のときにもアマン・ジャンの助力をうけている。

児島は大正元年(1912)11月、4年7ケ月の留学をおえて帰国した。帰国後の児島は、かつて製作した『なさけの庭』の孤児院を経営していた石井十次の長女と結婚、中央画壇からは距離をおいたかたちで郷里に住み、作品の発表もパリのサロンに出品したほかにはほとんどなかった。多くの留学した洋画家が経験した帰国後のスランプを彼もまた経験していたようである。

大正8年(1919)夏、児島は再度のヨーロッパ旅行へ出発している。パリは第一次世界大戦直後で未だその余燼はくすぶっていたようである。その年の末から翌年初めスペインに旅行、須田国太郎と会した。このときの作品が『アルハンプラ宮殿』(96番)『ジプシー地下寺院』(95番)である。そしてこの年のサロンに日本より持ちきたった作品4点を出品(『朝顔』2点、『朝鮮の少女』『支那の芝居』)、うち『朝鮮の少女』 1点はフランス政府の買上げとなりリュクサンブール美術館蔵となった。

制作、出品もさることながら、この滞欧時に児島はヨーロッパ絵画の蒐集を本気で考え、そのことを日本の大原孫三郎へつよく要請して許可をとりつけた。このとき、デルヴァンやクラウス、アマン・ジャンの作品とともにモネーの『睡蓮』、マティスの『画家の娘』を購入したのである。そして帰国後の倉敷における泰西名画による大原コレクション展の反響の大きさがつづく児島の大正11年(1922)の再々渡欧となり、コレクションの拡大充実へとつながっていった。第三回滞欧は9ヶ月間であったが、このときにエル・グレコ『受胎告知』をはじめセガンティーニ、ゴーギャン、シャヴァンヌの作品などを買いつけている。

大正15年(1926)、児島は推薦の資格で初めて第7回帝展に出品、翌年、翌々年と審査員、元委員として出品した。『憩』(93番)は昭和3年第9回帝展に『寓憩』と題して出品された作品である。『早春(七面鳥)』(100番)『紺衣の女』(98番)は大正12年の聖徳太子奉讃展に出品されている。最晩年は聖徳記念絵画館(明治記念絵画館)の壁画製作に没頭し疲労を重ねてついに死にいたっている。晩年、帝展に対しては若干の批判をいだいていたようであるが、それは絵画芸術の動向といった面に対してではなく、児島の真摯な性格に発していたようである。児島の絵画は、第一次渡欧以後は終始、ベルギー印象派に学んだもののうえにあったといえよう。同じヨーロッパのなかでもフランス系が主流であったなかではそれが児島の個性とつよくつながっていたことをもあってやはり特異なものであったといってよい。

(三重県立美術館館長)

本稿執筆には、児島直平著『児島虎次郎略伝』(児島虎次郎伝記編纂室発行、昭和42年11月刊)を参照した。引用文はすべて同書による。

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