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中谷泰,初期の作品について

森本 孝

昭和46年から52年まで務めた東京芸術大学教授を中谷泰が定年退官する際に,大学内の陳列飴において開催された退官記念展のカタログに,野見山暁治は「どう言ったらよいのか,人柄というより仕方がない。中谷先生は,いい加減なことを言おうと,チョンボをしようと,人柄で許される。」と記しているが,事実,中谷泰に接すれば,謙虚で優しく温厚な人物であると誰もが思うに違いない。

初期の風景から静物,そして土の臭いが溢れる「陶土」や「雪景」の作品群へと主題は変還しても,そのなかには一貫した心情と信念が存在している。中谷が興味を示す対象は,働く人,すなわち農民,漁師・漁婦,機織る女,あるいは病む我が子への愛情に満ちた母親であったりする。すべて庶民的な臭いのする群像であるが,画面は何処までも泥臭さとは無縁で,清らかで美しく,人間への愛着は深く,その意味で,中谷の主題は人と土の温もりを追求したものといえるのであろう。

和歌山県有田川の水害地へ出かけ,悲惨な災害状況を目の当たりにした経験を,被災現状を背景として3人の男女を前面に配し,人物と風景との画面構成を調和させた「流田」(昭和28年,第2回平和美術展),あるいは同じ主題で一人の老父を描いた「農民の顔」(昭和29年,第 31回春陽会)の作者が中谷泰であるとは,この画家を目の前にしては,とうてい思い及ばないことであろう。特に「流田」は,それだけ激しい印象を与える作品であり,中谷芸術のなかでこういった作品群は異質な存在となっているが,それは戦争の悲惨な体験から,災害を受けた農民の苦難を,自己の悲劇と感じる作者の共感の表現であって,作品に流れる人間に対する暖かい心情は,他のすべての作品にも共通するものである。

明治42年松阪市に生まれた中谷泰は,昭和4年3月に上京し,川端画学校で石膏デッサンを中心として絵を学び,一時、帰郷して,現在の第一小学校から松阪工業高等学校へ至る風景を描いた「街かど」が,翌年の第8回春陽会展で初入選し,昭和6年春陽会洋画研究所へ研究生として入所,木村荘八(1893−1958)に師事して,以後春陽会を中心に活躍することになる。

戦前期の中谷は,セザンヌ,ゴッホ,ゴーガンなどのヨーロッパの画家たちや,師の木村荘八,萬鉄五郎(1885−1927)ら春陽会の画家をはじめ,1930年協会から独立美術協会結成に向かった作家たち,あるいは同世代の人たちなど,様々な作家の作品を研究しながら,自己独自の表現を模索していた時期であり,春陽会で初入選した「街かど」,「都会風景」(昭和7年,第10回春陽会展),「都会の展望」(昭和9年,第12回春陽会展)など初期の風景画,さらに昭和11年の第14回春陽会で入選した,室内に人物を配した「塑像のある室内」や「画室」では,後期印象況やフォーヴィズム,独立美術協会などの作家から影響を受け,いきいきとした筆触を生かしながら,色彩の美しい調和を追求する作風を示した。また,ビールを飲み交わしながら会話する群集の雰囲気を主題とした「ビヤホール」(昭和10年,第13回春陽会展)では,大正元年フュウザン会の結成,同 4年草土社の創設に参加し,同11年創立された春陽会に会員として迎えられ,以後春陽会の中心的な作家の一人として活躍し,「パンの会」(昭和3年,第5 回春陽会展)などを発表した師の木村荘八の影響をうかがうことができる。

しかし,当時の日本の画家たちのあいだでは,こうした様々な影響を受けながら,誰もが自己の表現に腐心しており,むしろ中谷の場合には,タッチを生かす表現主義的な表現といっても,画面を凝視すればわかるように,一筆描くにも慎重な配意があり,自己の納得なしには一本の線さえ引かないという気魂が存在しているように思われる。直接的な表現様式としての影響というより,木村荘八らから中谷が受け継いだもののなかで,最も重要な点は,ゆるぎない深求心と研ぎ澄まされた造形意識,あるいは作品に向かう姿勢といったものであったに違いない。

茶褐色を主体とした画面に散りばめられた緑,あるいは白といった色彩が美しく,堅固な画面構成で,人物は描かれていない凍りつくような場面でありながらも,重苦しい雰囲気とは縁遠く,むしろ人の気配さえしそうな「陶土」「雪どけ」といった工場やその周辺を描いた昭和30年頃以降の作品によって,中谷泰は一般的には知られているが,戦後から昭和30年前後の頃まで,身の廻りの静物を主題に,自己の表現を納得行くまで追求した一連の作品群を改めて見直す必要を感じる。これらの作品は強い印象を与えるものではないが,静物画のもつ意味を語りかけてくるようで,魅了する何かがある。

中谷泰は「技法ノート 油絵(3)静物画の場合」(美術手帖59 昭和27年8月号)のなかで,シャルダン(1699−1779)について「その時代の人々の生活を愛し,その中に溶け込んで,その一つ一つを描いているからなのでしょう。シャルダンの静物画の素材に扱われているものは,どれもこれも,人々が日頃無雑作に,しかも,そのどれ一つ欠けても困ると云ったように,使い慣されて来たものばかりです。その様な人々の極くありふれた身近なものを扱って,あの様に立派な芸術に迄高めたと云う事は,これ又大変な新しい考え方に違いなかったと思われます。」と述べ,セザンヌ(1839−1906)の果たした役割については「空間の中にはっきりと物体のしめる位置とか,物と物との構成とか,つまり画面と云う事がより大きな意義をもって来た事だと思います。」とし,ブラック(1882−1963)については「線とか色とか面とかの,画面の構成が重大な意義をもっております。そしてブラックの画面は装飾的な美しさで私たちを喜ばせます。」と述べた後,「歴史的事件を扱った人物画や,風景画からみますと,静物画で人々の崇高な意志を表現する事はなかなかむつかしい事です。しかし,それだからと云って,静物画が個人の趣味の世界に,その範囲を止めていいとは誰も断言出来ないでしょう。矢張りその画家が人々とともに生き,人々を愛し,人々から愛された生活記録であってほしいものだと私は思います。」と結んでいる。

これらのシャルダン,セザンヌ,ブラックに対する所見は,中谷泰自身が静物画を描く理念であるように思えてくる。静物画といっても,画家自身の生活や関心と関わりの深いもので,色彩も形態も面白くて,いつまでも飽きないものを対象に選び,限りなく厳しい造形感覚に基づき対象物が配置され,作者の生命感,思索などを込めて崇高な意志を試み,追求され尽くして,画家独自の表現となる必要があり,結果として画家の生活記録となるべきであると述べ,事実,中谷泰はこの作画姿勢を保ちながら静物画を描いてきたのであろう。画面によく登場してくる水注,ワイングラス,魚,無花果,布,レモン,蜜柑,机などは作者の長時間にわたる厳選な選択を受け選ばれた対象に違いない。画家の鋭い造形思考によって違った形態や色彩を獲得して描かれることもあるが,描かれる度に画家の愛着は衰えることなく,むしろ親しみの度合を増しながら,造形理念の変遷の記録として,一つ一つの作品は意味を維持しているのであろう。緑を主とする同系色の画面に,輝くように冴えた黄色でアクセントのように蜜柑が配された「えんどう」(昭和24年頃),背景に漁港が登場する「船唄」(昭和24年),色面の調和を見せる「赤い布の静物」(昭和25年)など,同じ時期の作品で,しかも机,水注,レモンといった同じ対象物が描かれていても,全く違った形態に表現されているのは,画家の造形思考が異なることを明確に物語っている。それは作品ごとに造形的な課題を自らに課し,その試練を乗り越えてきた中谷の歴史でもある。

「やっと自分で探しあてたものを丹念に積みあげてゆく,ただそれだけのことをやってきたに過ぎないが,無駄の多い道のりだった。」(退官記念展カタログ)と作者自身は回想しているが,この文章を読むと,中谷が静物画と取り組んだ時期を振り返っているような気がしてならないのである。

(もりもと・たかし 三重県立美術館学芸員)

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