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〈四〉美の浄土

1945(昭和20)年12月、かつて学習院高等科で英語を学んだ鈴木大拙を鎌倉に訪れた柳宗悦は、鈴木の『日本的霊性』ほかの著書を贈られ、その中に取り上げられた妙好人に関心を寄せるようになる。そして3年後の1948(昭和23)年11月、鳥取の吉田璋也を訪れた際に、因幡の妙好人源左のゆかりの地を訪れ、かつての木喰上人の研究を思わせるように、集中的に妙好人研究が開始され、1950(昭和25)年9月には『妙好人因幡の源左』(衣笠一省共編)が刊行された。柳は浄土思想、他力道の鮮やかな顕現を妙好人の存在のうちに見出したのである。

因幡の源左に出会う数カ月前には、『大無量壽経』の阿弥陀如来の四十八の悲願の1つ、第四願の「無有好醜の願」に、それまでの民藝論の根底となるべき一節を見出し、それに基づいて『美の法門』、『無有好醜の願』などを執筆している。

かつて禅宗に引かれていた柳は、次第に浄土教系の仏教、なかでも一遍上人に引かれ始めており、「南無阿弥陀仏」という六字名号に集約される一遍上人の信仰について思索を展開している。こうして様々な角度から、民藝論、工藝論と、仏教における他力道の教えをより深い次元で結びつけようと試み、それは「仏教美学」という全く独自の領域の確立へと向かっていった。

この時期、柳の蒐集も同時にいっそう宗教色の濃いものに傾いている。特に熱心に蒐集されたのは、一遍上人ら浄土教系の各宗派の祖師たちの真筆による六字名号などである。また「阿弥陀四十八光仏」に代表される仏画や仏教版画も熱心に蒐集された。

一方、工藝のなかでも特に力を注いできた柳のやきものへの関心は、最晩年、丹波焼、なかでも「灰被(はいかづき)」と呼ばれる自然釉のものに集約されていく。さらに、美の領域と宗教の関係を探り続けてきた柳の仕事は、「茶」において綜合される。1958(昭和33)年10 月に刊行された『茶の改革』で、柳は自らを「茶の道の新しい継承者」と位置づけている。柳によれば、茶は禅宗と縁が深いばかりでなく、本来の茶器における他力性という点で、自力道と他力道が実は一つであることを示す重要な世界であった。『工藝の道』以来、初期の茶人たちを自らの「眼」の先駆者と柳は見なしてきたが、戦後の柳にとって、茶は禅宗を背景にもつ点において、美と宗教の関係を論じる上で別の重要な意味をもつようになっていった。1955(昭和 30)年12月には日本民藝館において最初の茶会を開催し、文章を通じて既成の茶道を枇判するばかりでなく、自らの理念に沿った茶を実践するに至っている。 入退院を繰り返し、病気に悩まされながらも、最晩にいたるまで、柳は思索を繰り返し、『南無阿弥陀佛』や『美の浄土』など、数々の著作を論理的な言葉で書き続けている。と同時に、物への箱書きを頼まれたのをきっかけに書き始めた『物偈(ぶづげ・ものうた)』と『心偈(しんげ・こころうた』は、柳によれば「心の遍歴(宗教的眞理への思索)の覚え書き」のようなものであったが、柳の文章表現における新しい段階を示している。柳はこれらの言葉を自らの筆でも書いたが、その書体には、柳が「生粋の和本」と位置づけた「和讃」の文字の影響も指摘される。

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