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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 1990 > 森芳雄・〈二人〉以後 陰里鐵郎  森芳雄展図録

森芳雄・〈二人〉以後

陰里鉄郎

森芳雄が作品〈二人〉[Cat.no.12]を発表してから,はや40年が経過した。40年という歳月は,ひとりひとりの人生にとっては,決して短かくはない。作者の森芳雄にとっても,一鑑賞者である筆者にとっても。その決して短かくはない歳月をへても,筆者にとって〈二人〉は忘れ難い作品であり,日本の戦後美術,というときにはいつもその冒頭に想いうかべる作品である。この作品は,今泉篤男が書いているように,「恐らくこの時期の森芳雄の佳作というに止まらず,油絵で描いた日本の裸体画の中で一つの画期的な意味をもつものではないか」,「何よりもこの裸像たちには,単に外面的な形の興味に終わらない封じ込められた魂があり,思想がある。───この裸像の絵には,戦後の鬱悒な声なき慟哭が出ている」,確かにそういう作品であった。1951,52年(昭和26,27)のころから何時までのことであったか,前川国男の戦後最初の建築であった東京新宿の紀伊国屋書店をおとずれた人たちは必ずこの作品を眼にしたはずである。当時の美術青年にとっては,求める書籍を購うと同等の,あるいはそれ以上にこの作品と対面することに歓びのような,魂になにかを感じさせられるものがあったものだった。そこには,巌のような塊の裸像がどっしりとありながら,戦後の多くの人々たちが抱かざるをえなかった絶望感,やりきれないような虚脱感が画面全体に漂っていた。人間の愚かさ,敗戦の惨めさ,そうした感情を揺さぶられる「声なき慟哭」をざわめく図書売場の片隅で聞いていた人たちが多くいたはずである。しかし同時に,「絶望の虚妄なること,希望にあいひとし‥・」といった魯迅の言葉のようにどこか,人間に対する深い信頼,といった作者の奥底にあるヒューマニズムから出てくるかすかな声をも聞いていたような気がする。そう感じていたのは若い世代だけではなかった。作者と同世・繧フある友人は,〈二人〉のなかの男の姿に「まだ戦争の罪過をざんげするような姿勢」をみてとり,また女は「未来に向って飛び立とうとする思いをじっと耐えているように見えた」(難波田龍起)と語っている。

つい先ごろ,筆者は彫刻家の飯田善国と話をしていて,彼が「われわれにとっては,森芳雄という画家は〈二人〉の画家であり,あの北荘画廊の個展の画家なんだ。断じてバラの画家じゃないよ。」というのを聞いた。このように,〈二人〉という作品は,戦後の多くの人たちに,とりわけ青年たちの魂に明確に刻印をおとした作品であったのだ。森芳雄自身の作品展開のうえでは,戦前の〈肱つく女〉(1937)[Cat.no.4]の系譜につながるであろうが,戦中の息苦しい文化状況,戦争末期に銃を持たない一兵卒としての体験,戦後の貧しいみじめな生活の苦痛,そうしたなかで制作することができずにいた森芳雄が,友人山口薫の鼓舞の言葉に励まされながら,ようやく自己の道程を歩みはじめ,誠実に現実と対決するなかから創造した最初の記念的な作品であった。

飯田善国のいう北荘画廊での個展というのは,森の年譜を繰ってみると,〈二人〉の前年,1949年(昭和24)11月のことであったようだ。筆者もこれを観たことをかすかに覚えているが,そのときの作品を想起するはどには記憶していない。その頃の北荘画廊(東京・日本橋,白木屋の前あたりにあった)では続けざまに若い世代にとって魅力的な画家の個展が開催されていて,そのなかの森芳雄展は記録によれば25点余りの出品であったというから遅筆で寡作な森としてはおそらく噴出するように作品が出来た時期であったのであろう。

〈二人〉の前後の森の個展やその他の展覧会への出品をみていくと,〈二人〉と同じ年(1950)の日本現代美術展〈文部省主催)に〈籠の静物〉があり,翌年(1951)5月には銀座のフォルム画廊で開催された個展に〈母と娘〉などが出品されている。さらに翌年(1952)には第8回サロン・ド・メ展に〈二人〉のほか〈女の像〉(1951)[Cat.no14]を出払 その年の秋に〈冬の海岸〉(1952)[Cat.no15],〈女〉(1953),〈うずくまる〉(1954)とつづいている。これらのこの時期の作品で,筆者の記憶のなかで,新鮮で強烈な印象となってのこっているのはフォルム画廊の個展の作品のいくつかである。筆者の記憶に間違いがなければ〈母と娘〉〈女の像〉などがそれである。〈母と娘〉は,両者が向い合い,顔が触れ合わんばかりに接し合い,両者の外側の輪郭線がなだらかにながれている。母親の頭をおおっているスカーフや,二人の手の線がすべて向い合っている二人の首のところに集中するように描かれていて,全体がつよい緊迫感をおびて求心的な力がはたらいているような画面であった。それは〈二人〉の画面がもつ雰囲気と表情とに共通するものであった。〈女の像〉は,女を正面から描き,顔の中心線で明暗がはっきりと分けられ,左手で髪をもち,右手は胸元まであげられている。画面中央で分けられている明暗の対比はつよく鋭いが,その語調はニュアンスに富むものであった。緑がかった,統一した色調が作者の心理と情感の陰影をよく表わしているように感じられたのであった。そして,髪をもつ左手も,胸のところまであげられている右手も異常に大きく描かれているが決して不自然な感じがしなかったのを覚えている。この大きな手の描き方は小品〈女〉(1952)[Cat.no.16]にも共通してみられる。

明暗を大きく把えて鋭く対比させながらも,その内側では繊細で神経の行きとどいた精妙なニュアンスをもって不必要な誇張を極度に抑制した森の画面は,また知的な構成をもって構築されている。そして色彩も極度に制限され,ときにモノクロームといってよいほどにすくない。〈二人〉がそうであったように,森の人物像,裸像はすこし日焼けしたような茶褐色で,甘ずっぱい匂いを感じさせる健康な肉体をもっている。しかし褐色系だけではなく,〈女の像〉のように緑もまた数は多くはないが“森の色”といってよいであろう。

〈二人〉以後の森の作品で,新たに加わってきたのは,抽象化の傾向であった。もっとも,それは戦前からなかったわけではない。〈肱つく女〉などをみれば明らかだ。1951年(昭和26)ころからヨーロッパ,アメリカの戦後絵画の動向がつたえられてくるにしたがって森芳雄もそれからの刺激を受けとめていたとおもわれる。「私は抽象に興味があった。が,割り切れなくて苛立っていた。」(「森芳雄 自らを語る」)というが,〈女の像〉から〈路上〉(1954)をみれば森が人物像を抽象化しようと試みていることがよくうかがえる。この時期の人物像で,上記のような傾向をみせながらもっとも成功している作品のひとつが〈うずくまる女〉(1953)ではないかと筆者にはおもわれた。この作品は単身像であるが,さきの〈女の像〉と共通した明暗の処理で画面をつくりながら,〈二人〉のもつ大きなモニュメンタルな像となっているようにおもわれたからである。

私は“人間”に一番関心を持つ。かなり自虐的なところが あった青年期から人間に煩わされたり喜ばせて貰ったり, こずかれたりして生きてきた。その生きるということ。それで“人間”を描く     (「森芳雄 自ら語る」)。

と森は語っている。森芳雄は,確かに飽きることなく人間を,人物像を描いている。それはいまもなお続いているが,〈二人〉以後でひとつの段階を迎えたのは1956年(昭和31)ではなかったか。この年の森は〈人物〉(第2回現代日本美術展)と〈画家と家族〉[Cat.no.22](第20回自由美術展)を発表している。前者は母子像で,後者は題名通りの四人の家族像である。この2作品がそのまえの〈路上〉などと異なるところは,直線を使った明暗の区分や構成がほとんど消えて具象的な形態が円みをおびて復活していることである。いずれも体の向きや顔の向きが,少しずつ異っていてそれが画面の動勢を形成している。森芳雄の画面ではこの動勢がまた重要な要素となっていて,いつも静と動とが均衡をとりながら画面に絶妙な働きをつくりだしており,それが森自身がいうところの「ある瞬間の動作を永遠のフォルムの中に入れ」ようとしている試みであるのであろう。そしてそこには,根底に人間的感情,ヒューマニズムから発するところの清潔な叙情が抑えに抑えてもなお止むをえずでてきているかのように漂っている。それにそこに幸福感さえ漂っているのである。

この直後の1957年(昭和32)に〈山〉[Cat.no.29],翌年に〈崖〉(1958)[Cat.no.32]という風景画を森は描いている。過去に風景画がまったくなかったわけではなく,〈冬の海岸〉(1952)のような作品があるが,〈山〉〈崖〉という作品の出現は一見,唐突にみえないこともない。とくに〈崖〉は異様な風景画といっていいかもしれない。ほとんど空はなく,一面灌木の緑と随所に岩壁がむきだしになって描かれている。景観として美しいものはなにひとつないといってよいような画面である。この画面の異様さはどこからきたものか。

森芳雄は多くを語らないが,この1957年に森は耐え難いほどの不幸に見舞われたのであった。大学受験のために浪人中であった19歳の息子が,ひとり丹沢でロック・クライミングの最中にあやまって墜落死したのである。親しい友人でもあった今泉篤男は哀惜の情をこめてつぎのように書いている。

その事故の現場に駆けつけた画家は,凝然とその場にたちすくみ,息子が懸命に攀じ登ろうとした断崖を見上げていたであろう。墜落した崖の下は,ごろごろした石の間を清冽な水が流れていた。森は後始末をすませると,アトリエに籠もってやる方ない悲しみに傷ついた心をただ画布に打ちつけるだけだっただろう。彼は心に刻まれたあの山を,あの崖を,あの流れの石を描くことより他に何の息子への鎮魂のすべも知らないのである。それらの絵を描いている時間は,彼が愛児と共に岩壁に喘いでいる時間であった。重傷を負って最後の息をひきとろうとする瞬間に息子の浸っていた谷川の水であり,その流れには,死の瞬間にちらりと息子の眼をかすめたかもしれない青空も映っている。石は血の色に染まっている(『森芳雄の人と作品』)。

これに附け加える言葉はなにもない。今泉の友人への思いのこもった言辞は読む人の心を打ってやまないが,森の画面もまた,異様と書いたが,いつものようにつよく感情を抑制した表現となっているが故にいっそう深い思いが表わされているようにおもわれてならない。

この時期になると,森の周辺もすこし多忙さをましてきているようで,所属する美術団体の展覧会出品のほかに,画廊が企画組織したグループの展覧会が数をましてきている。しかし,そうしたなかでも森の傷心はすぐには消えることはなかった。〈人々と煙突〉(1959),〈静・動〉(1960)[Cat.no.35,36]といった作品の画面の背後には,そのいやしがたい悲しみが潜んでいるようにおもわれる。それはさらに,ずっとあとの〈ある知らせ〉(1971)[Cat.no.68]の作品にまでみることができる。

1962年(昭和37)春,鎌倉の神奈川県立近代美術館で,麻生三郎・森芳雄二人展が開催され,初期からの作品から59 点が出品された。おそらく森にとっては最初の回顧展風の展覧会であったとおもわれる。そして同年,森は,戦後になって最初のヨーロッパ旅行に出発している。

このときのヨーロッパ旅行は5ケ月にわたるものであった。森は,戦前の若い時期にフランス滞在の経験があり,そのときのフレスコ画発見の体験が以後の森の絵画のひとつの性格,湿潤さのない乾いたマティエールの形成,今泉篤男の言葉をかりていえば,陽向に焼いた少年の皮膚のような温かさと匂いのある乾いたマティエール,その基となっており,また森の知性もこのころのヨーロッパ的素養に培われている。それゆえに,この戦後の最初の渡欧は,森自身によれば,「戦時中からの挨みたいなものを洗いたい」と思っての外遊であった。エジプト,ギリシャ,フランス,スペインを巡遊して帰国している。この外遊から生まれた作品はすくなくなく,〈街角-カイロにて〉(1963)[Cat.no.44],〈シャンチリーの城〉(1962)[Cat.no.41],〈小路-巴里〉(1963)[Cat.no.43],〈アクロポリス〉(1963)[Cat.no.45],〈ギリシャの想い出〉〈柱〉〈広場-イタリア〉(1963)[Cat.no.46],〈観覧席と草〉(1964)[Cat.no.51]などが帰国後の2年間ほどのあいだに描かれたのであった。これらの作品から,森芳雄のヨーロッパの古典古代への関心や,〈街角-カイロにて〉に明らかなように,これまでみてきたような人物像,群像表現とは別の,たとえばカンピリの絵画につながる系列の作品があることがわかる。これも根底においては戦前の滞欧時の初期にルネッサンス絵画,フレスコ壁画からの感動に発しているものであったろう。

以後,森芳雄は,知的な好奇心にかられている若者のように,国外,国内旅行を繰返しおこなっている。列挙すればつぎのようである。

 1965年-中国  1969年-ソ連,フランス,スイス  1971年-インド  1972年-モンゴル,シルク・ロード  1973年-イタリア  1974年-フランス  1978年-北フランス  1980年-トルコ

旅行のつど,森芳雄の知的な関心をすこしづつ満足させられていったに違いないが,画家としての関心が中心であることはいうまでもない。洞窟壁画や墳墓の壁画などを絶えず比較しながら自己の糧としていたようてある。

この間に,いくつかの身辺の変化があったことにも触れねばならないであろう。1965年(昭和40),森は,永く所属していた美術団体の自由美術協会から離れ,新たに主体美術協会の設立に参加,以後,主体展を主要な作品発表の場としてきた。また,1976年(昭和51)のころから眼疾を煩い,いく分の視力の低下のもとに仕事しなければならなくなったことなどである。

作品発表の主要な場となった主体展には,以前からの人物像,母子像,群像表現の作品の発表がつづけられている。それらのなかでは,〈砂浜にて〉(1971),〈空しき祈願〉(1972)[Cat.no.70],〈広場の一隅〉(1973),〈女性たち〉(1975)[Cat.no.75]といった作品があり,それらは,一時期の抽象化の傾向から脱して形態的には具象性をとりもどしてきているが,動勢感がよりつよく,激しくなってきている。

前述したいくつかの旅行の成果としての作品をあげるとすれば,〈朝輝故宮〉〈樓門〉(1966)[Cat.no.57]といった森の風景画のなかでも秀れた作品があり,また〈アフガニスタンの布〉(1972)〈路上の人〉(同)のような写実性をつよくおびてきている作品も生まれている。

かつて今泉篤男は,「森芳雄とそのモティーフとの関係は,彼の実生活から離れたものはない」と書いているが,連綿と続いてきている人物像,群像の画面も森芳雄の初期からの中心的な主題の展開で,森にとっては生涯の,永遠の主題であり,終わることはないであろう主題であり,モティーフである。それは,青少年期から近親の人たちの死や不幸を経験し,のちには最愛のものをうしなった森の断ちがたい人間への親和の感情と思想から生成してきており,それはそのままの視点から社会の現実,世界の現実にも向けられていた。風景や静物に対しても基本的には当然,同じ思想と視点によって捉えられている。それゆえに,森のモティーフはすべて素朴で,健康で,退廃味をおびたことがない。色彩もまたそのモティーフの内容に必要な限りでその内容と共鳴する簡潔で清澄なものでなければならなかったのである。

(三重県立美術館長)

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