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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 1989 > 唐津 毛利伊知郎 古伊賀と桃山の陶芸展図録

唐津

1592年から98年(文禄元年から慶長3年)に至る豊臣秀吉による朝鮮半島への出兵,いわゆる文禄・慶長の役(朝鮮半島側では壬辰・丁酉倭乱)は,双方に多くの被害を出したが,この戦いによって数万人に及ぶ数多くの人々が半島から強制的に我が国に連行された。

それら強制連行された人々の中に含まれていた陶工たちが自らの生活のために,あるいは諸大名の自娯あるいは殖産政策と関係して九州各地で製作するようになったのが,唐津や上野,高取などの諸窯である。

まず,唐津焼とは,現在の佐賀県西部から長崎県北部にかけての広い地域に散在する百あまりの窯で焼かれた陶器の総称であり,唐津港が製品の集積地であったことからこの名が起こったという。

唐津焼の起源については異説があり,桃山時代開窯説が有力であるが,室町時代に草創を遡らせる意見もある。数多い窯のうち,最も時代的に遡るとされるのは,東松浦郡北波多村の岸岳山麓に散在する窯で,文禄・慶長の役以前に既にこの唐津焼が製作され始めていたらしいことは,壱岐島の聖母神社所蔵の天正20年(1592)在銘の褐釉壷から推測されているが,現存する唐津焼の多くが盛んに製造されるようになったのは,文禄・慶長の役以後,朝鮮半島の陶工たちがこの地方に釆てからのことで,その最盛期は慶応一元和年間(1596-1624)頃と考えられている。

各地の窯跡の調査は,唐津焼全体として生産量が最も多かったのは賓,鉢,皿などの日用雑器で,茶器の生産はむしろ少なかったことを示しているというが,桃山から江戸初期の唐津焼で,最も評価が高いのは,茶碗,水指,花生などに代表される茶器類である。それらは,朝鮮半島の李朝陶器に通じる作風のものの他,織部に代表される美濃焼に似た作風のものも見られるなど,そこには桃山時代という時代の特性と朝鮮半島出身の陶工が主要な担い手であったという唐津焼の事情が複雑に交じりあった,変化に富んだ様相を見ることができる。

桃山時代の唐津焼の茶器のことは,慶長7・8年(1602・3)頃から古田織部関係の茶会記に散見する。織部自身が文禄元年(1592)から翌年にかけて名護屋城に滞在するなど,この地方との関係を保っていたこともあって,この時期の唐津焼の度盛には,織部あるいは織部を通しての美濃焼からの影響も関係していると考えられている。

唐津焼は,窯の数が非常に多いために,その系統も多くに分かれ,作風も,無地唐津,斑唐津,絵唐津,彫唐津,彫絵唐津,朝鮮唐津,青唐津,瀬戸唐津,三島唐津,刷毛目唐津など様々な作風の作品を見ることができる。各窯は,基本的な技術面では共通するところもあるが,器形や装飾文様などにはそれぞれ特色を持っている。しかし,複雑な要素も多くあるため,製作技術および作風から焼成された窯を特定するのが困難な作品も少なくない。

本展出品の唐津は,絵唐津の作品を中心としている。絵唐津とは,土灰紬あるいは長石釉をかけた上に鉄絵具で様々な文様を描いた唐津焼を指している。

出品作のうち,No.2-74「絵唐津芦文壺」は,絵唐津の壺を代表する作品の一つ。轆轤により成形された器の表面に鉄絵具により芦と唐草とを描いている。この手の壺は他にもよく似た作例が現存し(出光美術館蔵),本作と全く同じ大きさと文様の壺の陶片が伊万里市大川内町にのこる市ノ瀬高麗神窯跡から発見されており,ほぼ製作地を特定することができる作品でもある。

また,No.2-79「絵唐津松樹文大皿」は,口径40cm余りの大形の皿で,絵唐津の代表的な作品としてよく知られている。表面一杯に幹を湾曲させた松の大木を鉄絵で描き出し,下辺に木賊のような文様を表している。この作と同じ松樹文の皿の断片は,伊万里市大川内町の焼山窯や甕屋の谷窯跡から発見されており,伊万里市東部の一帯の窯でこの手の作品が製作されていたと考えられる。

No.2-78「彫絵唐津茶碗」は,数少ない彫絵唐津茶碗の中でも著名な作品。彫絵唐津とは,箆による彫文様を施して,そこを鉄絵具で埋めて焼成した作風のものを指す。この茶碗は,膜が張り,口縁部を指によって五角に歪ませている。胴の部分には,×印数個を大らかな箆使いで表し,そこを鉄絵具で埋めている。なお,高台は二重高台で,高台部分を除いた全面に長石釉がかかっている。

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