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3 かたちの行先

形ということばを使う場合、通例、何らかの境界によってくぎられた、求心的なまとまりをなすものを思いうかべると考えてよいだろう。ところで、形に境界がつきものだとすれば、その内側だけで形が成立するわけではなく、むしろ、外側との関係によって、形の性格も左右されるはずだ。境界のあり方次第で、あたかも外側が存在しない堅固なもののようにふるまうこともあれば、逆に、内と外が強く拮抗しあったり、あるいは外側からの何らかの働きかけに応じて、たえず変化していく可能性を宿す場合もあるかもしれない。
たとえば−

ザイラーの《無題(7点)》(cat.no.3−7)では、中央に配された小さな形は、紙の大きさによって圧力を受け、その反応として、自らを幾何学的に保ちつつ、それぞれさまざまな方向に分岐しようとしている。個々の反応のちがいは、色のちがいとも呼応するだろう。

小清水漸の《作業台−水鏡−》(cat.no.3−5)は、ありふれたテーブルの形をしている。しかしそこにうがたれたくぼみにたたえられた水は、形なき形といえるかもしれない。空気中に蒸発してしまっても、それは水には変わりないのだから。そして水面とテーブルの上面が同じ高さにあるとすれば、テーブルと水は同じものの二つの相なのではないだろうか。
 若林奮の《中に犬2》(cat.no.3−4)もやはりテーブル状をなしているが、ここでは、鉄の板が鉄の板のまま、上下に細胞分裂したかのように、自動車と内臓だかさなぎめいた何かという、対照的な、それでいて同根の形に分化する。

元永定正の《作品》(cat.no.3−3)と清水九兵衝の《FIGURE−B》(cat.no.3−6)はともに、男根中心主義的と形容できそうな形をしめしている。しかしそれらは、この形容がひきずる支配の欲望を必ずしも強く感じさせはしないのではないだろうか。元永の場合は形と地双方の色、すなわち黄と白の明るさ、対比の小ささおよび柔らかい曲線がもたらす表情によって、清水の場合、形が部屋の角という位置に応じることによって、形たちは、おのが外側と共棲しようとする。

カルマチャリャの《チンダーマスターカ・ヤントラ》(cat.no.3−8)とエッシャーの《秩序とカオス》(cat.no.3−2)はいずれも、正方形の画面をなしている。前者は規則正しく分割され、後者では中央の形とその周囲が不協和音を奏でると、その表情は対照的だが、それぞれ固定しきることなく、生成なり崩壊という、時間軸上での動きを宿している点に、共通項を見てとることができよう。

そしてこの点で、エッシャーの《メタモルフォーシスU》(cat.no.3−1)は〈転形〉ないし〈変身〉という題名どおり、横長の画面を進むにつれ、形たちはその姿をたえまなく移行させていく。ここではまた、まず目に入る形だけでなく、その形を支える地が、形とまったく等価であることが物語られている。

これらはもとより、形とその外側−空間であれ時間であれ−との関係のありようについての、ほんの数例にすぎない。他の作品、さらに、世界をみたすあらゆる形は、境界によってくぎられることで逆に、さまざまなゆらぎや動き、裂け目をはらんでいるはずだ。

(石崎勝基)

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