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黒田清輝──その人と作品

陰里鐵郎

明治26年(1893)の黒田清輝の登場が明治洋画の展開、ひいては日本の近代絵画の進展に大きな画期をなしたことは疑いない。

つぎのような黒田の弟子たちの言葉は、これらの弟子たちがただ師としての黒田に対していだいた尊敬や愛情からでただけではない歴史的事実を含んでいるといってよいであろう。黒田が久米桂一郎と前後してフランスから帰国した明治20年代後半を回顧して彼らはつぎのように語っている。

「この当時の私の感想は、今から考へてもなほ愉快で、例令へば真暗な野道を辿って居ましたものが、にはかに一道の火光を認めた様なものでありました。」(小林万吾「吾々の十年前」、『光風』1巻2号、明治38年7月号)「黒田先生を画室にお訪ねして、製作を見せて貰つて、全く自分の夢にも見なかつた、天地の境の幕を切つて見せて貰つた様な、嬉しさを感じた。其翌々日に研究所に飛び込んだのである。それは明治27年の秋でした。」(和田英作『天真道場のこと』、『国民美術』1巻9号、大正13年9月)「この両先生御帰朝までの日本に於ける洋画の教へ方は、極めて手ぬるいやり方で、今も稀には店頭などで見受けるあの擦筆画であつた。(略)こんなやり方では手間ばかりとつて少しも本当の絵は出来ないどて、早速仏蘭西から木炭用紙を取り寄せて木炭画を教へて下さつたのである。それから何れの塾もすぐさまその影響を受けて木炭画に変り洋画界は非常な革命と進歩を来したのである。」(白滝幾之助『黒田先生の追憶』、『中央美術』10巻12号、大正13年12月号)

こうした回想はほかにもいくつか挙げることができるが、いずれにして、当時の若い画家たちの多くが、黒田によってもたらされた新しい絵画世界、その視覚と思想とに接して、薄暗い袋小路からようやくぬけでたような解放感にも似た歓びと、漠然と求めていたものが新しく形をなして眼前に現われいでたような清新な感じをいだかされた様子が、これらの文面からも容易に想像される。まさしく黒田は洋画界の新星として登場したのであった。そして強烈な刺激をあたえて洋画界に刷新をもたらし、それがひいては文芸界全般にも影響をおよぼすこととなるのである。後年、黒田は美術行政家、政治家としては並はずれの、世間的にはきわめて高い地位につくことになるが、このことを含めて黒田の帰国後の活躍は、「これが黒田子の生涯を支配した原動力」と正木直彦も書いているように黒田の青春期のフランス留学に胚胎したものに発した成果であった。さきに引用した弟子たちの歓喜や絵画界の革命の源もそこにあったことはいうまでもない。とすれば、われわれはフランス留学時代の若き黒田にこそ注目しなければならないであろう。それは、明治開化期につづく時代のあるひとりの才能ある青年における極めて素直な自己発見、自己形成の軌跡でもある。この時期フランスにきていた外国からの留学生画家たちやそれらの周辺について、また明治初期からの日本の渡欧画家のなかの黒田の位置については、別掲論文にゆずり、ここでは黒田自身に即して記すことにしたい。

(1) 黒田のフランス留学は、明治17年3月から同26年6月まで(1994〜93)のことであった。黒田18歳から27歳のときである。

1880〜90年代のフランスでは、普仏政争に敗北して第二帝政は崩壊し、パリー・コンミューンをへて第三共和政に入っていた時期であり、第二帝政期における産業革命完成のあと、過剰資本の後進国への輸出、・植民地の拡大などを背景にして「よき時代」が始まっていた。パリではエッフェル塔が建てられ、サクレー・クール教会堂がモンマルトルに姿を現わし、美術の分野では、印象派が最後の展覧会(1886)をおえ、新印象派、後期印象派の画家たちの制作が始まっていた時期であった。

よく知られているように黒田の留学の当初の目的は法律の勉強にあった。しかしやがて絵画に転向し画家として帰国することになる。法律・政治から絵画へ、こうした例は明治前においては必ずしも珍しいことではなく、例えば土佐藩出身で函館戦争にも参加した経験をもつ国沢新九郎、旧幕臣の出で勝海舟の庇護をうけた川村清雄なども同様で、欧米留学中に画家となってそれぞれ帰国している。維新後の青年にとっては国政に参加する政治家志向は一般的な傾向で、黒田もその例外ではなかったのである。ただ黒田の場合、その出自が明治新政権の主柱となった鹿児島島津藩の藩士であり、伯父にあたる元老院議官黒田清綱の後継養子として育てられていて、留学は、将来政官界での活躍と地位を約束されていたも同然であった、と考えてよいであろう。にもかかわらず、黒田はその道を放擲して画家への道程をたどることになった。そのことは、ひとりの人間の自己形成の過程として興味深いのみならず、結果としては日本の近代絵画の運命に深くかかわったという点でいっそう関心事でありうる。黒田は、離日以後、ほとんど絶え間なく祖国の養父母宛に手紙を送りつづけ(1週に2通程度)、幸いなことにそれはその後の日記類とともに『黒田清輝日記』(全四巻、以下『日記」とする)に纏められていて、われわれはこの書簡類によってフランス留学中の若き黒田の動勢をほぼ完全に知ることができ、黒田の画家としての形成過程をたどることができるのである。

パリについた黒田は、まず、語学研修のために私塾に寄宿し、ついで中学(リセ)にはいりギリシャ語、ラテン語などの講議をうけて法律を学ぶ準備をすすめている。因みに、後年、政治・外交などの場で黒田の語学は非常に称讃されたが、それは久米桂一郎も書いているように長期間留学というだけではないこうした基礎的な古典語学の素養があったためであろう。のちに詩人大使クローデルは黒田のフランス語を称讃しているし、また河盛貯蔵氏も黒田の書簡にみられる仮名綴りのフランス語の発音が正確なことを指摘されている(「黒田清輝のパリ便り」、『巴里好日』所収)。

それはともかく、黒田の手紙や日記の文面は、いつも割りに淡々と見聞や出来事が記されていて、感情の起伏や気持の動揺、感傷を語っていることはほとんどない。異国での生活に孤独感や烈しい郷愁がその若い胸のうちになかった筈ではないであろうが、彼はそれを他に訴えることをつよく自制していたのであろう。そうしたなかで黒田は、休日は友人と公園に遊び、フェンシングや水泳に興じているが、おそらく黒田の最もなぐさめとなったものは、絵を書くことであったようである。『日記』を追っていくと、留学半年後のころに、養母が「楽しみになるから持っておゆき」と言って荷物のなかにいれてくれた小さな絵具入れが「よきたのしみ」になることを感謝しており、約1年後には「1週間に3度、1時間ぐらい」は絵を描くことについやしている。そして、父の写真で肖像を描いたり、自画像や珍しい風物を母宛の手紙のなかに描きこんだりしたのであった。

当時パリには、五姓田義松(ごせだよしまつ)、山本芳翠(ほうすい)の二人の洋画家が留学中であったが、黒田は山本と知り合い、しばしば山本の下宿を訪問している。それは、山本が料理をよくし、日本料理を御馳走になることが目的であったが、自然に山本から刺激をうけたことも十分にありえたであろう。山本はまた黒田に画家としての才能をもっとも早く発見し、黒田に画家たるよう慫慂したひとりであったが、黒田の絵画への転向に大きな役割をもったのは、黒田より1年後にやってきた藤雅三(ふじまさぞう)であった。山本、藤ともにパリに来る以前に工部美術学校で学び、藤は工部美術学校の廃校によって洋画研究の場を喪ったがための渡仏であった。のちに黒田は、「私が画家になったのは、半ば藤君の導と云つていた。藤君を知る前には画家にならうと言ふ様な考へはなかつた。藤君がパリーに来られて、藤君の為にコラン先生の所に通弁の意味を以て出入りを仕初めたのが、私の画家になる動機であつた。」(『美術週報』137号、大正6年2月)と語っており、黒田にとって藤との交友の意義が決して小さくはなかったことを認めている。藤との交友は、さらに翌年(明治19年〔1886年〕)夏、日本で藤に指導をうけたことのあつた久米桂一郎の来仏によっていっそう繁くなり、それは「兄弟のやうな交り」(黒田)となっていったのである。

留学して満2年をへて黒田は、養父宛につぎのような便りを送っている。

「西洋ノ法律ニ達シタレバトテ私如キ漢学ノ力ナキモノハ書ヲ著述スル事ハ勿論西洋書ヲ翻訳スル事サヘモ無覚束候 又通常ノ笑談デサヘモ口もづれて思ニ任セザル私こ御座候得ば代言人ト為リテ能弁ノ名ヲ得ンナドノ事ハ難キ事ニ御座候 右ノ如ク色々ト相考ヘ申候ニ法律専門ニ国益ニナル程ノ事ヲ為サンハ余程六ヶ敷被存候 依而今般天性ノ好ム処ニ基キ断然画学修業ト決心仕候(略)又画学ハ他ノ学問ト異ひ何年学ベハ卒業スルト云事ハ無之年ノ長短ハ只其人ノ天才ニ依ル事ニ御座候 私一度決心致シ候上ハ一心ニ勉強可仕候 其決果ノ好悪ハ只天ニ御座候」(明治19年5月21日付)

この「依而今般天性ノ好ム処二基キ……」と、「其決果ノ好悪ハ只天ニ御座候」というくだりには、ある種の感動を誘うものがある。これに先立って黒田はこの年の正月に、山本、藤、それに日仏の美術交流や国際的な画商として知られている林忠正らによって絵画の勉強をすすめられているが、それらの慫慂があったとしても、若き黒田の自己省察、それに基づく自己発見としてこの書簡は興味深いのである。黒田は、この書簡を記した翌日には、すでに藤の関係で知っていたラファエル・コランを訪ねて入門し、コランの指示によって早速にルーヴル美術館で彫刻の素描をはじめたのであった。そして同年秋には久米との共同生活に入り、コランの教室のあったアカデミー・コラロッシに通いはじめて本格的なデッサンの勉強に入ったのであった。それでも黒田は、「画ニ志シ法律ヲ学プトハ甚ダ以テ迂濶ナル仕方ニ御座候得共学力ナキ時ハ画学ニ達シ候トモ先ツ悪口すれば画カキノ職人たるに過きず、 之レ通常画家ガ人ニ軽ゼラルル所以ト奉存候故ニ此ノ三ケ年間ハ法律ヲ学ビ一通リノ人間と相成候て而後力ヲ画ニ尽さんと存候」(明治19年11月19日付)
と書いているように、一方での法律勉強を放棄してはいない。なんという冷静さであろう。自己の天性に気づき、その才能の開発に向いながらも黒田は、それに憑かれたり、淫したりすることを拒否していたようだ。この狂気を排する平衡感覚とも云える感覚もまた黒田は生涯もちつづけていったようである。しかしそれでもなお絵画の魅力は黒田を吸引してやまなかった。最初の自己発見を告げた書簡から約1年後に黒田はつぎのように書いている。

「私始メハ画学ノ如キハ只賤シキモノトのみ存じ日本ニテ細田氏に従而稽古致シ候時モ中途ニテ打ち止メ申候之レト申モ日本ニ在リシ時ハ(日本書生ノ風トシテ)只一度ハ政治社会ニ名ヲ挙ケンコトヲトのみ望み参議のみガ人間ナル様ナ感覚ヲ有シ候故ニ御座候 併シ能々相考ヘ候ニ画家ト雖トモ何ニモ賤シキ事ハナク其極上手ト云処迄ヤリ付クレバ矢張大臣ニナリタルニ異ナラズ(略)又当地ニテ法律博士ヲ得テ帰リクル日本人モ巳ニ二三人有リト承り候得共画学共進会ニテ賞状ヲ得タル日本人一人モ無之依テ私事専ラ力ヲ画家ニ尽シ実の画カキト云迄ニ至リ候得ば只一身ノ為のみなざる且国家の為ナランカト奉存候 併シ此ノ画家ハ法律ナドト異リ何年ニテ卒業するなどと申事ハ無御座候 三四年モ学ビ一通リノカヲ得タル後ハ只天然物ヲ師として研究シ上手なるもへたで一生ヲ終ルモ皆天命二御座條」(明治20年4月8日付)

そしてこれに続く日付(4月28日付)の書簡で、「私是非共此ノ画学ヲ以テ一身ヲ立んと存候」といい、冬にたおて単衣1枚で過すような貧乏になっても悔いなく、「一心に画学ヲ学プ心得に御座候間左様御承知被下度候」と半ば一万的に宣言している。このころの黒田は、その前年の11月から大学に通って法律学の講議をうけたりしており、人並以上に勤勉に行動しているが、精神的には法律と絵画の両極のあいだで大きく動揺していたようである。こうしたときに黒田は滞仏中の哲学者井上哲次郎と出会い、「志ハ画ニ在レドモ精神上の学力ナキ故ニ一時法律ヲ学ブト云フガ如キハ最モ誤」、「其故ハ、画ナルモノハ一ノ職業ニ非ズ学問中其最モ高尚ナルモノ」、「法律ノ如キハ俗吏ノ業」と説かれ、二兎を追うのは時間の無駄であることを指摘され、井上の説に感じいるところ深いものがあった様子で、この年10月に法律勉強を完全に放棄し、絵画一筋の生活に入るのである。

これら一連の書簡によってたどってきた黒田の絵画開眼の歩みは、一見、担々と平静であるが、それだけに自然で、真面目な自己凝視によって発見した自己の才能への開眼であり、成長していくひとりの明治青年の思想の軌跡であり、それが日本の「近代洋画の父」とよばれることになった指導者の誕生であったのである。

(2) その後のフランスにおける黒田の絵画形成──人間形成をも含めて──のなかで、黒田に影響を与えた画家は、誰よりも師であったラフアェル・コランであり、黒田の青春の感情と芸術をはぐくんだ場所は、グレーという鄙びた寒村であった。

ラフアェ・求Eコラン(1850〜1916年〉は、はじめブーグロー、ついでカバネルのアトリエで学び、1875年のサロンで画壇にデビューした画家で、1889年、94年とパリ、アントワープの万国博で大賞を受賞しているが、黒田も父宛の書簡のなかで、「当地ニテ随分評番(ママ)ヨキ画家」と記しているように、当時、パリ画壇では一般的な評価をえていた画家であった。19世紀後半のフランス・アカデミズム絵画のいわば正統に属するが、時代はもはや印象派の勝利の時期にさしかかっており、コランも、友人であったバスティアン・ルパージュの影響をうけて外光描写をとりいれた作風となっていた。

黒田がコランを知ったのは、黒田自身の回想記によれば、藤雅三がコランの作品「フロレアル(花月)」(1886年作)を見て感服し、入門したが、フランス語が不自由であったために通訳を黒田に依頼したことに始まっている。その時期が何時で、黒田自身がコランに指導を願いでた明治19年5月までにコランとどの程度の接触をもっていたのか、また黒田自身はその当時コランの作品に対してどのような評価をいだいていたのか、これらのことになると全くといってよいほど分明ではない。このことは少しく気にかかる点で、すなわち、藤が選んだ師を黒田もそのまま師としたという極めて消極的な選択であったきらいがある。しかしこの出会いが、画家黒田のその後の展開を決定づけ、ひいては日本の近代洋画の進展をも決定づける運命的な出会いとなったのである。コランは黒田の才能を愛し、アカデミーは別として、個人的には全く無償で指導したのであった。黒田も、生涯、コランを師として敬愛し、作風のうえでも、例えば黒田晩年の作品「花野」にみられるように、コランの影響はあとあとまで大きく跡をとでめている。アカデミー・コラロッシにおける木炭デッサンの勉強をひととおり終えた黒田は、オランダ旅行でレンブラントの作品などを模写したあと、明治23年(1990年)7月からグレー村に住みついている。グレー・シュール・ロアンは、フォンテーヌブローの森の東南端にあって、やがてセーヌに合流するロアン河に面した小農村であるが、黒田がこの地を最初に訪れたのな明治21年5月のことであった。アメリカ人、イギリス人などの画家が多くここを訪れていて、黒田もその静穏な風景が気に入り、以後しばしば訪れたのであったが、「当仏国ニ之レゾト中程の景色ハ無御候得共矢張田舎ハ何国も同シ田舎ニテ甚ダ面白事ニ御座候 右グレにて久し振ニ蛙の声を聞き左の通り例のごまかし歌を作り申候 御一笑被下度候蛙なく声を聞つつまとろめは 夢は遙に故郷の空」(明治21年6月8日付、父宛)と書いている。この「之レゾト中程の景色ハ無御座候」というあたりには日本の旧い風景観になお縛られている感じがないでもないが、その後の黒田の行動からみれば、おそらく黒田がフランスのなかでは最も愛した場所がこのグレー村であったことは間違いない。黒田は明治23年(1890年)7月から帰国の前年(明治25年)末までここに住みつくことになるが、それは、グレー村の風物をこよなく好んだだけではなく、ここでモデルとしてひとりの少女を得たことによってでもあった。この地で黒田は滞仏時代の代表的な作品「読書」(1891年作)、「婦人像(厨房)」(1892年作)などを、この少女をモデルとして制作したのである。

マリア・ビヨー、黒田がモデルとしたこの少女について、黒田は、「としハまだ十九か二十ぐらいだそうですがせいのたかいことまことにふしぎにてほんとうののっぽでございますわたしハようやくそのおんなのかたのたかさぐらい……(略)にっぽんにでもいったらそれこそみせものにでもなるだろうとぞんじますよ」(明治23年7月12日、母宛)と書いている。そうして黒田は、マリアの姉の所有であった小さな納屋ふうの小屋を借りうけて住むことになったのである。 このマリアに関して最近明らかにされたことを若干紹介しておこう。それは、これまでの黒田に関する研究のなかではこの少女の名前の綴りさえ知られていなかったが、平川祐弘氏の調査によって彼女に関する多くが明らかにされた(「黒田清輝のモデル、マリア」、『文学界』35巻5号、昭和56年5月号)。平川氏の調査によれば、Maria Billaultと綴り、1870年11月24日生れ、1960年12月27日に90歳でル・トレポールの養老院で残したという。1882年当時、マリアの父ユージェーヌの職業は豚肉屋(シヤルキユチエ)と記載されているとのことで、黒田の友人たちが「豚屋の娘」呼んでいるのと合致する。黒田とマリアの関係については、友人たちの回想はさまざまであるが、久米桂一郎は、「単に作業上の便宜のためであったか、或は愛の生活であったかといふ問題――僕は無論その確答を与へるに躊躇しない」と言い、その「愛の生活には快美よりも寧ろ苦痛が多かったことと思はざるを得ない。しかし芸術上の収穫が豊かであったから、これは確かに黒田の生涯の最も重要な時期である」と書いてある。だが、その「愛の生活」の内容がどういうものであったかということに関しては「今だに分らないから生涯それが分らない」といい、和田英作はプラトニックな関係であったことを主張している。いずれにしても、当時、ド・ラマルチーヌの恋愛詩の愛読者であった黒田の青春の思い出が、このグレーの地で、この少女との間にあったことは疑いない。そしてあとで少し触れるように、このことが黒田の後半生の生活に大きな影をおとしているのではないか、という疑いも否定できないであろう。

ここで,グレー時代の黒田の作品に触れねばならないであろう。この期の最初の作品が「読書」である。ホテルの一室でマリアをモデルとして描かれたこの画面は、鎧戸をとおしてさしこむ柔かい光が読書する少女をつつみこんでいる。少女の上衣の赤と、周囲の緑、スカートの青との色彩対比が光の雰囲気描写にとけこんで調和のある落着きをもち、少女の姿態の表面で微妙に反映する光が的確に表現されており、黒田がコランに学んだ外光描写がよく示されている。これにつづくグレーでの制作「婦人図(厨房)」は、農家の勝手口らしきところで椅子に坐している同じマリアの像である。「読書」に比すれば、色彩は青系の色調で統一されていて効果は地味であるが、それだけにフランス農民の生活の臭いを感じさせる画面となっている。おそらく黒田の生涯のなかでこれほど生活を感じさせる作品は他に「ブレハの少女」以外にはないであろう。「婦人図(厨房)」制作直前の旅行先のブレハ島で描かれた「ブレハの少女」は、もちろんモデルを異にするが、黒田が珍しく狂人じみた赤毛の少女に託して画面に感情を赤裸にみせたような作品であった。こうした経過から想像すれば、明治24年(1891年)の夏から翌年にかけての時期が、黒田の青春と作家的感情が一体となって最も高揚した第一の時期ではなかったかと思われる。

コランに入門してから5年、絵画だけにしぼられた生活を始めてから4年の歳月しかへていないが、黒田の成長は久米もいうようにその「天才は実に順調で素直に発達」したのであった。

黒田は、「もう二三年滞在することができれば」という思いを残しながら明治26年(1893年)の夏、アメリカを経由して帰国した。先に帰国していた山本芳翠は、「黒田が帰って来る。そうしたら日本の洋画を本物になるだろう」と語っていたという。

黒田の帰国は、それでは、日本の洋画にどのような変革をもたらしたのか。

(3) 帰国した黒田・久米は、明治美術会展に作品を発表し、画塾天真道場を開いた(明治27年)が、世評は、黒田とその周辺に集まった若い画家たちをさして新派と呼び、従来の画家たちを旧派とした。またその画面にみられた色調から新派を紫派、旧派を脂(やに)派とも呼称した。新派とは何か。黒田は、「景色なら景色の形を記(ママ)するのが旧派、新派と云ふ方は先づ其景色を見て起る感じを書く」と語り、自然からうけた感じ、自然の変化をとらえて描くものと説明している。これは基本的には印象派の態度といってもよいだろうが、やがてそれは「外光派」と呼びならわされてくることになった。久米によれば、「我々の留学時代此時分はアンプレッショニストの勃興した時代であるが、其主張する所は兎も角制作としては余り感服したものは少なかった。――コランの教を受けた僕等に取ては、今少し穏かで柔かな調子のある風景画を狙ったものもんである。」(「風景画に就て」大正2年)ということである。ここには、落差を大きくもった場合の文化の受容においては、受容する例の段階によって受容の範囲や性格が規定されてくることがよく示されている。

それにしても黒田らの作風は、国粋主義的な反動期のなかで日本的な歴史的画題、硬直した写実の袋小路に陥っていた当時の日本洋画において、風景画といえば神社仏閣の風景や名所絵の系譜から抜けだせずにいた状況やその風景感情に対しては、十分に新鮮であり、衝撃的であった。この新旧の対立をくっきりと示したのが明治28年秋の第七回明治美術会展であり、多少の経緯ののち、新派は、翌年、黒田を中心として新しく白馬会を結成することになったのである。黒田はそこで、「昔語り(下画)」の連作、「智・感・情」、「避暑」(現在の「湖畔」)、「昔語り」といった作品をつぎつぎと発表しているが、それらが黒田の周辺の若い画家たちに及ぽした影響は小さくなかった。例を「昔語り」にとってみていくとしよう。

黒田は帰国した直後に京都へ旅行している。それは、青年期をフランスで過した黒田にとって、最初の日本の伝統文化との接触であった訳であるが、それは黒田にまさに異国のもののように映り、ときに当惑し、ときに感動するといった日本発見の機会であった。ピエール・ロティの著作などを思い出したのであろうか日本の女性は「小さな奇麗な鳥」のように彼の目に映じている。こうしたエキゾティックな感覚で感得された黒田の日本文化体験が、修学してきた絵画表現と結びついたところで「舞妓」が描かれ、「昔語り」が発想され、その下画連作がつくられている。「昔語り」は、一夕、久米とともに訪れた古寺で僧侶の語る月並な解説から、「まるで昔の時代が其儘出て来るやうな心地がした」ことに着想をえている。ここに、先にあげた「感じ」を描くのとは別の、もう一つの西欧絵画の考え方が含まれていた。それは、大構図の制作、単なる情景描写ではなく造型的な骨格・構図を備えて、抽象的な主題・思想を表現するといった黒田らの言葉で言えば「理想画」というものの考え方である。「昔語り」はこうした発想が渾然となって描かれることになったが、下画連作は、登場人物個々の風俗画の域にとどまってしまった。しかしこの現代風俗的画面こそが、風景画においては、志賀重昂の著作『日本風景論』の出現に代表される風景観・自然観の近代的転換に対応したように、明治市民が封建的束縛からようやく抜けでようとして明るい太陽の下にその姿を現わしたような清新さをもって迎えられたのであった。和田英作「渡頭の夕暮」、白滝幾之助「稽古」、小林万吾「門付け」といった明治風俗画の傑作がつづいて生てれてくるのも当然のことであったといえよう。

(4) 黒田がもたらした衝撃で最も烈しかったものに裸体画がある。黒田は、パリを去る直前に「Le Lever(起床)」(のちに「朝妝(ちょうしょう)」)と題する大作を措き、サロンに発表して好評をえた。その作品が明治28年(1895年)の京都における内国勧業博覧会に出品されるに及んで、いわゆる裸体画事件がひきおこされたのである。多くの世論は裸体画を風俗壊乱の見地から攻撃したが、このとき黒田は日本における裸体画に対する偏見に挑戦し、対抗した。この時点では、出目からくる黒田の背景の助けもあって一時的な妥協のなかて黒田の勝利に帰したが、問題はその後に継続された。それにしても「朝妝」に関する裸体画事件は、ある文化圏に異質の文化が持い込まれたときの衝突の顕著のな例のように思われる。

こうした社会的事件にまで発展した「朝妝」事件のあと、黒田は「智・感・情」を発表した。この作品は抽象的な主題を、人体――幾何学的な構造をもつ創造的な形体としての――に託して構想し、表現しようとしたもので、ここにも、西欧的文化の正統を移植しようとした黒田の意図と姿勢がよくうかがえる。

この作品は、先の「朝妝」がフランス時代の制作で西洋婦人をモデルとした裸体像であったのに対して、明治の女性としてはいくぶん理想化されたプロポーションをもつ日本女性の裸体像であり、日本女性をモデルとした裸体画としては、公然と発表展示された最初の作品であった。それだけでもこの作品はある程度の歴史的な意義をもつが、図像解釈学的な見地から見れば、この作品はさらに興味あるさまざまの問題を提供してくれる。智・感・情という主題の組合せはなにか。いかなる思想的内容をもち、それはどこから導きだされたのか。そして何故このような図像をとったのか。黒田は、ヨーロッパ的思想に基づいて、その上にこのような図像や三点組合せの形式をとったのか。すなわち、あるいは三美神が彼の念頭にあったのか。それとも東洋・日本の思想から出発し、そして三尊形式にかりてこれを描いたのか、といった問題である。いまなおこれらの問題は完全には解きあかされてはいない。近年の研究によれば、黒田はフランス絵画界の理想主義、印象主義、写実主義の三派の象徴として「智・感・情」を設定したとの黒田自身の談話記事からの解釈が提出されている(三論英夫「黒田清輝筆『智・感・情』をめぐって」美術研究328号)。

右のようなことは、すべてではないが黒田が当時の洋画界にもたらした変革や衝撃の例であり、白馬会がその変革の主要な舞台であった。

黒田や白馬会の果した役割に触れて、のちに高村高太郎はつぎのように書いたことがある。

「新しい日本の芸術界は始め洋画の方面から新味を注入されて、それが文学界に覚醒を与へる動機となるやうに見えた。黒田・久米・岩村(透)等白馬会の先輩諸氏が帰朝した頃、我国の芸術界のうちで最も進歩したサアクルはと尋ねたら、疑ひもなくこの一団の人々であったのだ。──処が其当時の欧州最新の傾向たる印象主義を提(ひつさ)げて美術界に臨んだ白馬会は、途中でその主義が緩み出して、当初の如く旗幟(きし)が鮮明でなくなって了(しま)った。」(「フランスから帰って」明治43年6月)

文学界などに及んだ影響について詳述することはできないが、この「進歩したサアクル」の中心人物が黒田であったし、厳密にみたとしても黒田が再度渡欧した明治33年(1900年)の時点では、黒田の尖鋭さとそのサークルの進歩的性格は十分持続されていたと思われる。そして変革も本質的にはその頃に完了していると考えてよいであろう。

(5) この帰国から明治30年代前半期が滞仏前後の時期につづく第二の高揚期にあったと思われるが、黒田の個人的生活はどうであったろうか。久米は、帰国後しばらくの間の黒田の生活ははとんど「放浪生活」に近いものであったと記している。先に触れた京都旅行のあとにもしばしば京都、畿内と旅行しているし、東京にあっても放浪に近い生活であったようである。合田(ごうだ)清の伝えるところによれば、日清戦争に『ル・モンド』の通信員としての従軍は「非常な決心で行った。──事によると死ぬかもしれぬと云う考え」であったとのことで、「自分はあんな家に居ても不愉快だから」ということがその原因であった。旧薩摩藩士の養父清綱と黒田とのあいだにさまざまのことで大きな開きがあったろうことは想像に難くない。期待に反し、ボヘミアン風の画家となって帰国した息子に、子爵として権威ある立場をとり、封建的秩序を崩そうとしない父との軋轢は、相当に深刻であったに相違ない。久米もしばしば書いているように、「湖畔」の婦人、照子が事実上の夫人であったとしても、黒田はついに社会的に公認された意味での家庭をつくっていない。帰国して黒田は一度正式に結婚したが、それは短期間で解消された。その婦人は「外では立派な婦人」たりうる人であったが、黒田にとっては堪え難い伴侶であつたようである。友人たちは「豚屋の娘(マリア・ビヨーのこと)くらいでなければ駄目」だったと語っているが、グレー滞在時のマリアが黒田の内部に生きつづけていたか否かは、よくは分からない。ただ、友人のひとりは、1900年に黒田が再渡仏したとき、「あの女が巴里で黒田のアトリエの中で泣いて居た。」と証言している。どこか森鴎外の小説『普請中』の場面を連想させる挿話である。それはともかく、鴎外の言う「定見なくして」渡仏しフランスで自己形成をはたした黒田にとって、日本的な家族制度と家庭生活は容易にとけ込み難いものであったのであろう。それとの格闘と洋画界変革の時期とは重なっている。その時期がまた黒田の精神の高揚期でもあった。

画家としての実質的な黒田の役割は、再渡仏のとき、あるいは少し広げても文展開設(明治40年〔1907年〕の頃に終ったといってよい。

しかし、後半期の黒田の作声は前半期の改新性はうしなわれたとしても、円熟した芳醇な叙情をもって他の追随を許さない世界をつくりあげている。新しい世代の代表者のひとり高村光太郎はつぎのように書いている「氏(黒田)の芸術に対する理解は割合に簡単であるが、その情緒は至醇である。(中略)自然の見方も鋭く強くもないが要領を得ている」(明治44年文展評)。『鉄砲百合』(1909)『木苺』(1912)『赤小豆の簸分』(1918)といった作品が光太郎の言葉をうなずかせる作例であろう。黒田は、画家であることをやめた訳ではないが、かつて愛読したド・ラマルチーヌがそうであったように、美術行政家、政治家としての活躍が目立ってくる。文展審査員、東京美術学校教授、女子学習院講師、宮内省御用掛、貴族院議員、国民美術協会会頭、帝国美術院院長など、多忙を極める生活をおくることになる。そして加藤友三郎内閣(大正11年11月〜12年8月)のときには、文部大臣候補にさえあげられるほど、政治家としても有能さを発揮している。これらの基礎もまたフランス留学時代につくられた法律知識や語学、西欧的教養にあったことは正木直彦の指摘するとおりであろう。しかし同時に、黒田が生来、素質として政治家的性質、明敏性を備えた調和の感覚といったものをもっていたことも事実である。それ故に、あるいはその分だけ芸術家に特有の偏執性や狂気を欠いていたといってもよいかも知れない。しかし、またそれ故に、「日本近代洋画の父」ともいわれるほどの多面的な役割を果しえたのかも知れない。

(三重県立美術館長)

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