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高村光雲−その二面性

毛利伊知郎

はじめに

高村光雲の作品と生涯を日本の美術史にどのように位置づけるか、光雲をめぐる問題の多くはここに集約される。事実、私たちは明確な「高村光雲像」を未だ持っていないのである。

別頁の安達論文では、今もなお「芸術家・光雲」と「技術者(職人)・光雲」という相異なる二つの見方があること、伝えられる光雲の制作活動が、作家の個性、個人制作を重視する今日一般的な芸術観からは理解し難い側面を持っていること、このことが光雲理解を困難にしていることなどが紹介されている。

結論を急ぐのは控えなければならないが、本稿では光雲についてのこれまでの言説に検討を加え、展覧会準備の過程での作品調査によりながら、筆者なりの光雲像について述べることとしたい。


一 光雲に関する言説

本展にも出品されている同時期の他の彫刻家たちと比較して、私たちは光雲に関する文字資料と彼の作品資料をかなり多く持っている。研究材料は豊富といえる状況にある。それにもかかわらず、前述のように確たる光雲像が得られない。考えてみれば不可思議なことである。

先ず文字資料であるが、光雲自身による回想の他、長子・光太郎、三男・豊周によるもの、門弟たちによるものなどをあげることができる。主要なものを点検しておこう。

高村光雲といえば、先ず『光雲懐古談』である。昭和四年(一九二九)に初版が刊行された本書は、刊行当初から版を重ねる売れ行きを見せたが、その後も書名に一部変更が加えられながら、現在に至るまで四度にわたって復刻され、多くの人々によって読みつがれてきた(別頁文献目録参照)。

この書は大正十一年(一九二二)一一月一九日の夜から毎週日曜日の夜に、幸田露伴に小説を学んだこともある田村松魚(一八七四〜一九四八)が長男・光太郎とともに光雲から聞いた昔ばなしをまとめたもので、幕末から明治にかけての大きな変革期を生きた光雲の生涯、彼の周囲の人々のこと、社会の様子等々がほぼ年次を追って記されている。

この回顧談を開くとき、私たちは江戸時代的なものを色濃く残しながらも変化していく東京の様子、近世と近代とが混交した不思議な世界に接して懐旧の情を強く感じると同時に、変革期を生き抜いた光雲の息づかいを感じ取りながら、談話を読み進める内に光雲の生涯を追体験し、江戸からの光線に照らされながらも、文明開化社会にたくましく立ち向かった光雲像を持つことになる。

しかし、古稀を迎えた光雲の話がすべて事実であったとは考え難い。光雲自身の記憶違いもあろうし、筆録した田村や原稿を推敲した光雲自身によって脚色が加えられた可能性も皆無ではなかろう。また、田村によれば、静かな雰囲気が壊れるという理由から、光太郎と田村以外の人物が聞き取りに同席することを光雲は絶対に許可しなかったという。うがった見方をすれば、複雑な思いを互いに抱いていた光雲・光太郎親子が向かい合う場で、光太郎に対する光雲の教育的配慮、あるいはある種の牽制が談話の端々に加えられた可能性も想定できよう。そこまで言えなくとも、光太郎が同席していることを光雲が全く意識しなかったということはあり得ないだろう。

『光雲懐古談』が持つこのような性格を考慮するならば、安達氏も指摘するように、歴史史料としての取扱には慎重を期さねばならない。私たちがより確かな光雲像を得るためには、光雲自身の談話から一度離れてみることも手続きとして必要ではないかと思われる。

次に、光雲周辺の人々ー特に高村光太郎と豊周による光雲評を見ることにしよう。

光太郎が父光雲をどのように見ていたかは、たびたび引用される随筆「父との関係」(昭和二九年)と「回想録」(昭和二〇年一月、談話筆記)の他、「近代日本の作品」中の《老猿》解説文(昭和二六年執筆)、「父・光雲作の仏像」(昭和一一年)など比較的晩年に記された文章や、随筆「出さずにしまった手紙の一束」(明治四三年)、詩「父の顔」(明治四四年)など光太郎二〇代の著作などを通じて窺うことができる。

光雲の長男として生まれた光太郎にとって、子どもの頃から木彫の修練を続け、父と同じ彫刻の道に進むことは当然のことであった。東京美術学校を卒業後、雑誌『ステュディオ』でロダンの《考える人》を見て衝撃を受け、両親の支援で渡米してニューヨークで両親を懐かしんで涙した光太郎であったが、人間として芸術家として様々な体験を積んだパリ滞在を経て帰国した後には、「親と子は実際講和の出来ない戦闘を続けなければならない」と書き記し、父と同じ道に進んだが故に、光雲に対して複雑な思いを抱くようになった。

そうした光太郎による光雲評には、光雲が体現していた前近代的在り方への意識的な抵抗が基調として流れている。高村規氏が伝えるように、日常生活では友好的な親子であり続けた光雲と光太郎ではあったが、父光雲の彫刻家としての在り方は、「彫刻家」高村光太郎の理想からはほど遠いものであった。

高村光太郎が見る光雲は、「結局父光雲は一個の、徳川末期明治初期にかけての典型的な職人であつた。いはゆる〈木彫師(きぼりし)〉であった。もつと狭くいへば〈佛師屋(ぶしや)〉であつた」(「父との関係」)ということになる。また、美術史上の光雲は「明治初期の衰退期に彫刻の技術面(傍点)に於ける本質を、父の職人気質が頑固に守り通して、どうやらその絶滅を防いだことになる。彫刻の技術上の本質については無意識のうちに父は傳統の橋となった」という。さらに、光太郎は「父の作品には大したものはなかつた。すべて職人的、佛師屋的で、又江戸的であつた」と述べ、芸術家たる自身の対極に父光雲があったことを言葉を変えて幾度も述べている。

光雲の「鬼っ子」「不肖の子」を自認しながら、それでも言葉に尽くせぬ愛情を受けてきた光太郎によるこうした見解は、両人の様々な葛藤の後、光雲がこの世を去って一〇年以上の歳月が流れた晩年に記された一種の総括であった。

光太郎は父光雲に対する深い尊敬と愛情を内に秘めながらも、一方で父の在り方を受け入れることができないという複雑な思いを抱いていたと弟豊周は記しているが、そうした他人には窺い知れない背景と光太郎が芸術家の個性を何よりも重視する近代的芸術観の体現者であったことを考慮すれば、光雲に対する彼の評価や見方をそのまま鵜呑みにすることは危険を伴うというべきであろう。

一方、光雲の三男で金工家の豊周はどのような光雲評を残しているだろうか。豊周による光雲に関する著述には、光雲生存中に記された随筆「披風亭雑筆 III」(昭和七年)もあるが、その多くは光雲没後のものである。

それら豊周が記す光雲評は、光太郎のそれとはいささか趣を異にし、近代的な意味で創作衝動、芸術意欲とは無縁の境地にある光雲の手仕事に対する賛辞が素直に表明され、光太郎の生き方に象徴される近代的な芸術観、創造の在り方が必ずしも総てではないとの見解が示されている。それと同時に、豊周と光太郎は日常生活では仲の良い兄弟であったというが、一方で親不孝を続ける兄光太郎に対する複雑な思いが豊周にあったことも、彼の光太郎論の端々から窺うことができる。

そうした豊周は、兄光太郎の生き方とともに、父光雲の制作と作品の特質を冷静に見つめる眼をあわせ持っていた。三男として生まれたために家業を嗣ぐことなく、父の勧めもあって金工の道に進み、しかも「伝統」に「個性」を盛り込み、いかに創造的な作品を制作するかに多くの作家たちが腐心した大正期の工芸界に身を置いた豊周の生涯を考慮すれば、彼の光雲評が兄光太郎のそれと異なるのも当然のことだろう。

光雲と光太郎という対極的な存在双方に対する豊周の見解は、ある意味で穏当なものである。しかし、注意すべきはそれがあくまでも肉親としての見方であるということだ。豊周は、随筆「父の代作」(昭和三二年)の中で、肖像彫刻の依頼があると光太郎が父光雲の代作を行っていたことを述べ、光雲の肖像彫刻は「下職」として光太郎が原型を制作し、それを光雲が木彫に彫出したもので、光太郎が生活費を得られるように、光雲の配慮でそうしたことが為されたと紹介している。豊周は、そうした一種の共同制作を一人の独立した創作家としてではなく、肉親として見ており、その芸術上の意味については何ら言及していない。

このように、豊周の光雲評は、光太郎のそれとは異なるとはいえ、あくまでも肉親としてなされたものであることは注意する必要があろう。そして、そこには兄光太郎に対する豊周の揺れ動く心も投影されているという背景があることも考慮しなければならない。

現在私たちの前にある光雲についての言説は、その多くが光雲本人、あるいは光太郎・豊周という実子によるものである。もちろん、多くの事実がそうした文章から得られることも否定できないが、そこには肉親であるが故の一種のフィルターがかかっていることも同時に考慮すべきで、歴史史料としての取扱には注意を要すると思われる。


二 実作品の検討

では、光雲の実作品からはどのような光雲の姿が見えてくるのだろうか。今回の展覧会は初の本格的な光雲展ということを念頭に、作品を精選することよりも、可能な限り多くの作品を出品することを基本方針とした。その結果、明治期を代表する彫刻として伝統的な木彫技法と西洋風の写実表現とが絡み合い、新しい彫刻創造にかける光雲の創作意欲が漲った作品として評価が定まった観のある《老猿》のような作品とともに、現代的な眼で見ると、必ずしも芸術的価値を認めがたい作品も含まれることとなった。そうした大きな振幅を持つ光雲作品を芸術的な立体造形作品として通覧すると、その出来映えに大きな落差があることは否定できないだろう。現在、私たちが光雲を評価しようとする際、こうしたことが大きな問題となるのも事実である。

その主題も、光雲が新たに開拓したといわれる近代的な動物彫刻の他、仏教彫刻、古典や歴史に登場する人物像、同時代人の肖像彫刻、吉祥的な主題の彫刻、神輿の荘厳や獅子頭など祭礼関係の彫刻、欄間や鏡縁など室内装飾彫刻等々、今日的な意味での彫刻家の仕事の領域を越えて多岐にわたっている。こうした光雲作品に見られる主題の多様性を私たちはどのように考えたらよいのだろうか。

また、こうした光雲作品の多様性は、時間的な展開として跡づけることが可能なのか、あるいは同時期に併存したのかという大きな課題もある。光雲木彫の制作年代決定は、光雲による刻銘や箱書があるものは、基本的にそれらに基づいている。しかし、高村規氏によると、作品の制作時期と箱書とが同時になされなかった場合もあるので、注意が必要である。さらに、光雲工房での共同制作、門弟関与の問題を避けることができないことはいうまでもない。

本図録に掲載される九〇点の光雲作品を通覧すると、観音像に代表される仏教彫刻は初期から晩年まで生涯を通して造像されていたこと、光雲が開拓したと言われる近代的な動物彫刻は絶対数が少なく、大正末年以降にはほとんどないこと、古典や歴史上の人物を主題にした作品は大正期以降多くなること等が一つの傾向として窺えるだろう。

光雲の作品は、その全てが注文制作であったが、光雲の名声が上がるにつれて、吉祥的な主題の彫刻や現世利益的な観音など仏教彫刻の制作が増加していった可能性は考えられるだろう。

また、動物彫刻の絶対数が少なく、しかも晩年にほとんど制作されなくなったのは、西洋的な写実表現を研究して、江戸時代以前の動物彫刻とは異なる、実物写生に基づく新しい世界を自ら開拓した光雲にしてみれば、この主題の作品に門弟たちの手が大きく入ることに心理的な抵抗があったのかもしれないし、また制作依頼に追われて、題材となる動物を見つけ出して飼育し、時間をかけて写生を行う暇がなかったのかもしれない。

また、木彫の技術と表現に着目して、複数の作例がある仁王像、観音立像、翁舞、壽老舞などを見ると、「光雲」刻銘や光雲自身の箱書など真作である条件が揃っていても、同一作家の手になるとは思えないほどの大きな差異が認められる場合がある。

光雲が、光太郎や門弟たちの生活費を得る目的で、また善光寺の仁王像など大作造像の場合に、工房制作や代作を行っていたことは、豊周の文章にも紹介されている。光太郎が伝えるところによると、門弟が光雲に無断で光雲作として世に出した作品もあるという。そのようなことがあっても、大らかな性格の光雲は、作品の善し悪しは歴史が判断するだろうと大様に構えていたという。

光雲にはこのように制作された作品の方がむしろ多く、最初から最後まで光雲一人の手になった作品は、光太郎によれば「一生涯かかつて五十點位なものであらう」(「回想録」)という。このような制作の実態を知った上で、光雲作品が示す表現や技術上の差異を見て、私たちはどのようなことがいえるのだろうか。

現在となっては、多くの場合光雲個人の作品と門弟たちの手が加わっている作品とを厳密に区別するのは非常に困難である。本展出品作の中にも、明らかに光雲門人の手が入っていると思われる作品も見受けられるが、それらも光雲の刻銘と箱書を有しているのである。

光雲の刻銘、あるいは箱書には、「高村光雲」と「高邨光雲」の二例がある。「村」と「邨」とがどのように使い分けられていたのか、現時点では断定できないが、「邨」は個人制作の作品、「村」は門弟の手が加わった作品である可能性もあるという(高村規氏の示教)。光雲の作風展開を検討する上でも、刻銘・箱書の検討は、今後の研究課題となろう。

江戸時代以前には、彫刻だけでなく絵画等でもこうしたことは当然のこととして、研究者は個人制作と工房制作との峻別に研究者は精力を注ぐのだが、作家個人の存在が確立したいわゆる近代作家と光雲を位置づけて研究しようとすると、工房制作・共同制作の問題の前で大きな違和感を私たちは感ぜざるをえない。

しかし、前近代的な世界で生まれ育ち、前近代的な職人であることを否定しなかったと同時に、近代的な作家でもあろうとしたのが高村光雲ではなかったかと筆者には思われる。光雲自身の中に「前近代」と「近代」とが分かち難く存在していると考えられるのである。

個人の創造を第一義に反抗を続けた長男光太郎に晩年まで並々ならぬ愛情を注ぎ続け、また西洋彫刻の制作法を木彫に取り入れようとした門人米原雲海らにも寛容な態度をとり続けたという光雲のありようからは、西洋画の写実表現を彫刻にも取り入れようとして実物写生に励み、また工部美術学校で行われていた西洋彫刻を憧れた光雲、米原雲海らとともに善光寺山門の丈六仁王像を共同制作した駒込吉祥寺境内の工場にモダンなデザイン椅子を持ち込んだ近代人高村光雲の姿が浮かび上がってくる。

一方で、門弟たちの生活を支えるために毎日注文仕事をこなす光雲、パリから帰国した光太郎に銅像会社設立を持ちかける光雲、肖像彫刻の原型を光太郎に制作させる光雲、門弟との合作に「光雲刻之」の銘を入れる光雲、これらは前近代的な世界を生きる光雲の姿である。

このどちらか一方のみが光雲の実像ではない。相矛盾して見える二面性をあわせ持った存在、それが高村光雲という人物ではないだろうか。このことを私たちは一度素直に受け入れた上で、大きな振幅を見せる光雲銘の作品を改めて見直すことが必要ではないだろうか。

(もうり・いちろう 三重県立美術館学芸員)

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