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表書院

金比羅大権現に奉仕する別当金光院の客殿として、万治年間(1658〜1661)に建立されたと伝えられる金刀比羅宮表書院。金光院第10代別当宥存(1739〜1787)の発意で、6室ある部屋のうち、南側の「鶴の間」「虎の間」「七賢の間」、そして、西北に位置する「山水の間」障壁画が、円山応挙(1733〜1795)によって制作された。

応挙は、中国画や西洋画の技法を採り入れた平明で斬新な「写生画」によって従来の絵画観を一変させたといわれる画家で、個性豊かな画師を続々と輩出した江戸時代後半期の京都画壇における中心的存在であった。このことは、京で刊行された文化人名録『平安人物志』画家の部筆頭に、応挙の名が記されていることからも明らかであろう。

天明7年(1787)、応挙は、表書院障壁画の制作を開始するが、翌年、天明の大火による画室消失などにより制作を中断、亡くなる前年の寛政6年(1794)に制作を再開し、すべての障壁画を完成させた。各室の画題は、花鳥、走獣、人物、山水と多岐にわたっており、それらは格式、用途の異なる部屋を装飾する障壁画として独立する一方、4室が有機的に結びつくよう構成されている。これらは、応挙の代表的障壁画作品として高い評価を得、いずれも重要文化財に指定されている。

のこる表書院北側第2室の「富士一の間」「富士二の間」には、明治35年(1902)、土佐派に学んだ日本画家・邨田丹陵(1872〜1940)が、《富士山図》《富士巻狩図》を展開している。さらに、表書院玄関奥には、金刀比羅宮と関わりの深い森派の画家、森寛斎(1814〜1894)が描いた《檜樹鷲図》が現在に伝わる。

(道田美貴)

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