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奥書院

金光院院主の私的空間である奥書院は、万治年間(1658〜1661)の創建とされる。明和元年(1764)、伊藤若冲(1716〜1800)が、上段の間《花丸図》、二の間《山水図》、三の間《杜若図》、広間《垂柳図》を揮毫した。当時、奥書院を生活の場としていた金光院別当宥存は、少年時代に京で若冲に師事したと伝えられ、若冲への障壁画発注も、宥存と若冲との繋がりによるものと推察されている。若冲は、狩野派、宋元明の中国画、そして、直接自然を学ぶことによって独自の画風を確立した京都の画家で、現在も「奇想の画家」として人気を博している。上段の間に描かれた《花丸図》は、対象となる花々を凝視し、その細部まで克明に写し取りながら、最終的には、主観性の強い特有の画面に再構成するという若冲画の特色が遺憾なく発揮された作品であるといえよう。

若冲の制作から80年を経た天保15年(1844)、襖の劣化が進み、上段の間《花丸図》をのぞく障壁画をすべて撤去、岸岱(1785〜1865)により新たな障壁画が制作された。岸岱は、岸派の祖岸駒を父にもつ京都画壇の画家。奥書院襖絵は、岸派二代目として大きな勢力を築いた岸岱の代表作として評価される。現在は、若冲の手になる上段の間《花丸図》、若冲の画題を継承しつつ岸岱が担当した二の間《菖蒲の間》《水辺花鳥図》《群蝶図》《沢潟図》、広間《柳の間》《水辺柳樹白鷺図》《岩石図》がのこるが、いずれも通常は非公開である。

岸岱の揮毫の折に取り外された若冲障壁画のうち、《垂柳図》は、昭和初期まで愛媛県宅善寺の書院を飾っていたとされる。そして、その一部と考えられる《飛燕図断片》が愛媛県四国中央市の定蓮寺に伝えられていることが判明、今回、幸運にも初の公開が叶った。

(道田美貴)

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