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主要作品解説(抄)

道田美貴(三重県立美術館学芸員)

2
福原故事

一八九九(明治三十二)年
絹本着色 軸装
一五五・〇×八四・〇
中野市

人物画、特に歴史画を得意とした契月は、その画業において、『平家物語』に着想を得た作品を多く手がけた。本図も、『平家物語』〈福原落〉に取材した作品。木曽義仲入洛の噂を開いた平家一門は、若干六歳の安徳天皇を連れて都落ちする。向かった先は、かつて平清盛が強硬に遷都、造営途中で京へ還幸となった福原の地。三年間放置された旧都福原は苔が道を塞ぎ、秋草が門を閉じ、高楼の台は傾いて苔生していたという。朽ち果てた御簾から秋風が吹き込み、月の光だけが差し込む室内で哀しみにくれる人々を描き出した本作は、芳文に師事して二年、契月が二十歳で手がけた作品。修業期の他作品同様、文学的な内容の視覚化と四条派の修得を目指して取り組んだものである。


3
垓下別離
(がいかべつり)

一九〇二明治三十四)年
絹本着色 軸装
二二六・〇×一四五・〇
第七回新古美術品展
中野市

垓下は、秦を滅ぼした二人の英雄、楚の項羽と漢の劉邦の戦いの舞台。この地で、劉邦は項羽を包囲し、楚国の歌を歌わせた。有名な四面楚歌の故事を生み出すこととなった場面である。自らの劣勢を悟った項羽は、最愛の虞美人に別れの歌を歌い、敵中を突破する。この後、項羽、虞美人ともに自ら命を絶つことになるが、契月は、この二人の永遠の別れを、毅然とした態度で別れを告げる項羽、泣き崩れる虞美人として対照的に捉え、巧みな画面構成で描き出した。本図は、青年画家の登龍門とされる第七回新古美術品展で三等賞銅牌を受賞した、契月初期の代表作である。


4
車匿童子訣別
(しゃのくどうじけつべつ)

一九〇一(明治三十四)年
絹本着色 軸装
一六八・五×一一四・〇
常樂寺

仏伝に取材した作品。釈迦族の王子ゴータマ・シッダルタは、御者・車匿の用意した白馬に跨り出家する。三つの王国を過ぎ、アノーマ河のほとりに到ったとき、シッダルタは父王への別れの言葉を託して、車匿を城へ返そうとした。愛馬はシッダルタとの別離の悲しみに胸が張り裂けて死に、主人と愛馬を失った車匿は悲しみに打ちひしがれつつその場を去ったという。本国では、首をうなだれる美しい白馬と、釈迦が身に着けていた豪著な衣裳を手に悲しみにくれる車匿を表情豊かに表現した。芳文に入門して五年、着実に四条派を会得し、臨場感溢れる大画面を構成する力をつけたことを物語る一点である。


6
寂光院

一九〇二(明治三十五)年
絹本着色 軸装
二一九・五×一四五・〇
第八回新古美術品展
長野県信濃美術館

平家滅亡の後、大原寂光院に隠棲していた平清盛の娘・建礼門院は、お忍びで訪れた後白河法皇に、自らの体験を六道に擬えて語る。それを聴いた法皇はじめ、その場に居合わせたひとびとはみな涙に袖を濡らした、という『平家物語』の終幕〈大原御幸〉を主題に選び、花摘みに出ていた建礼門院と大納言佐局が、法皇の姿をみとめて立ちつくす場面を描き出した。本図は、第八回新古美術品展で二等賞銀牌を得たが、師芳文には、線描の弱さについて厳しく叱責された、と後に契月自身が回想している。芳文の契月に対する期待の大きさと、早くも、契月が独自の描線を意識的に用いていたことをうかがわせるエピソードとして興味深い。


10
悪者の童

一九〇九(明治四十二)年
絹本着色 屏風(六曲二隻)
一五八・〇×三六〇・〇
第三回文展

『平家物語』〈禿童の事〉に取材した作品。「この一門にあらざらん者は、みな人非人たるべし」といわれるほどの栄華をほこつた平清盛は、平家に対する批判を弾圧するため、十五歳前後の童三百人の髪を禿髪に切り揃え、赤い直垂を着せて京中を監視させた。平家を謗る者の家財は没収、身柄を清盛の下へと引き渡すよう命じたのである。京の人々は年若い禿童たちを恐れ、道行く馬車も避けて通るほどだったという。本作では京で傍若無人に振舞う禿童たちと彼らを恐れる人々を、四条派特有の抑揚ある描線と表情豊かな面貌表現でドラマティックに捉えた。以前の作品と比して、四条派の特徴が色濃く表れている点については、芳文の長女アキと結婚し、その後継者となったことが影響しているといえるだろう。菊池家を継ぐ者としての自覚をもって臨んだ本作は、第三回文展に出品、三等賞を受けた。


11
供燈
(くとう)

一九一〇(明治四十三)年
絹本着色 屏風(二曲一双)
各一六一・〇×一七三・〇
第四回文展
東京国立近代美術館


平清盛は、来世において地獄に沈むか、極楽へ往生するかを案じ、東山の麓に阿弥陀如来の四十八の誓願になぞらえた四十八間の精舎を建て、一間にひとつずつ、四十八個の灯寵をかけた。毎月の大念仏には、平家のみならず他家からも若く美しい女房たちを招き集め、一間に六人、合計二八八人を置き、念仏を唱えさせたという。左隻に燈籠大臣・重盛を、右隻に燈寵に火を点す女房たちを、性別、単複、静動、座立とあらゆる点で対照的に配した。契月が得意とする歴史画でありながら、本作では、抑揚を抑えた細い描線、明るめの色彩、抑制された感情表現など、これまでとは異なる大和絵的な手法が試みられた。のちに契月自身も、「おそらくそれが自分の画風の変わる初まりであつた。」と位置づけているとおり、模索期のはじまりを告げる作品である。


12
鉄漿蜻蛉
(おはぐろとんぼ)

一九一三(大正二)年
絹本着色 屏風(六曲一双)
各一五八・〇×三五九・〇
第七回文展
東京国立近代美術館

葦や蓮の生い茂る池に小舟を浮かべ、唐子が鉄漿蜻蛉の飛ぶ様を眺めている情景を六曲一双の大画面に描く。歴史や故事に取材したこれまでの作品から一転、本作には、現実の蓮池に対する関心を見て取ることができる。この作品の前年より蓮に関心を持ち、巨椋の池で、蓮の花や菓の写生を重ねていたという。一方で、鉄線描といわれる細い描線と淡い色彩を用いて描き出された葦や蓮、画面を引き締める役割を担う鉄漿蜻蛉をリズミカルに配し、装飾的な画面を生み出した。さらに、夢見るような表情を浮かべる唐子を描いたことで、画面には異国的な情緒も加味されることとなった。新たな画風の展開を求めて、写実性と装飾性の統一を目指した本図は、第七回文展出品作である。


15
夕至
(ゆうざれ)

一九一八(大正七)年
絹本着色 額装
二一六・〇×一〇一・五
第十二回文展
京都国立近代美術館

一日の仕事を終えて家路へと急ぐ二人の大原女が主題。色づきはじめた枝垂桜の葉が、女性達にとってより厳しい季節の到来を告げる。新たな画風を求めて模索を続けた大正期の契月は、現実に主題を求め写実を重視した作品を多く手がけているが、本作もその流れに位置する。契月の写生帖には、大原女の着物や頭巾、帯、脚絆、草鞋などを写した頁がのこされており、本作が、契月の細やかな観察に基づくものであることがわかる。この年、契月の師であり養父でもあった芳文が他界、契月は、京都市立絵画専門学校教授に就任するなど慌ただしい状況であったというが、文展審査員に推挙され、短時間で本作を仕上げたという。


24
立女

一九二四(大正十三)年
絹本着色 額装
一五四・五×一七〇・五
第五回帝展
長野県信濃美術館

契月は、約一年間にわたる欧州視察で、最初期ルネサンス期を中心とするイタリアの宗教絵画やエジプト彫刻などに関心を寄せた。欧州遊学で、古典の持つ格調高い美に魅せられた契月は、帰国後、古美術の研究を熱心に重ねている。欧州遊学の成果を世に問うべく臨んだ本作には、奈良正倉院《鳥毛立女屏風》や薬師寺《吉祥天女像》など天平期の作品からの直接的な影響がうかがえる。同時に、二人の女性の配置や姿態、表情、さらには、背景処理などにも欧州視察の成果、特にイタリア宗教絵画学習のあともみえる。西洋絵画と大和絵を融合した独自の画風のはじまりを告げる記念碑的作品と位置づけられよう。


25
経政
(つねまさ)

一九二六(大正十五)年
絹本着色 額装
一八二・〇×一一八・〇
第二回菊池塾展
京都市美術館

経政は平清盛の甥。詩歌管弦に長じ、幼少から仁和寺守覚法親王に仕えていた経政には複数の物語が伝わる。木曾義仲追討の副将として北陸へ向かう途中、琵琶湖に浮かぶ竹生島へ詣でた経政が琵琶の一曲を奉納したところ、感応した明神が経政の袖の上に白龍となり現れたという話、平家都落ちの際、守覚法親王より賜った琵琶青山を、御室の御所に立ち寄り返上した話、そして、経政の死を惜しんだ人々により供養が行われた月明かりの夜、経政があらわれて琵琶を演奏し、再び姿を消したという話。本作は、物語の一場面を劇的に絵画化した明治時代の歴史画とは明らかに一線を画している。契月は、芸術方面にも優れた才能を見せながら悲運の最後を遂げた経政のすべての伝説を咀嚼し、見事に、理想的な人間像へと昇華させた。


27
敦盛
(あつもり)

一九二七(昭和二)年
絹本着色 額装
一九八・〇×八六・〇
第三回菊池塾展
京都市美術館

前述の経政同様、芸術に長じ、悲運の最期を遂げた平敦盛を描いた作品。一ノ谷の戦いにおいて騎馬で船に逃れようとしていた敦盛は、敵将を討とうと躍起になっていた熊谷次郎直実に呼び止められ、引き返す。我が子と歳のかわらぬ美しい若者をみて躊躇する直実に、自らの首をとるよう促し潔く散った敦盛は、笛の名手として知られ、祖父が鳥羽院より賜った小枝という笛を愛蔵していたという。本画中の敦盛が手にするのは笛ではなく写経していたことを暗示させる経典。自らの運命を静かに受け入れる敦盛の凛とした透明感のある美しさが、流麗な描線で描出される。『平家物語』に語られる無常観を、悲運の最期を遂げた敦盛の美しい姿を通して表現した第三回菊池塾出品作。


28
南波照間
(はいはてろま)

一九二八(昭和三)年
絹本着色 額装
一二四・〇×一七六・〇
第九回帝展
京都市美術館

南波照間とは、琉球八重山諸島に伝わる古謡に歌われる理想郷。重税に苦しむひとびとが目指した伝説の島だという。この年沖縄へ渡った契月は、この民謡を聴き、本作の着想を得た。沖縄特有のまとめ髪に、民族衣装、頭上に荷を乗せて運ぶ女性、南国を想起させるハイビスカスなど、沖縄風俗に対する関心が色濃く表れている。しかし、遠くを見つめる女性たちの静かな眼差しや、欧州絵画の影響が色濃く表れた遠景の表現は、本図が単に沖縄の風俗を描くことのみを目的としていないことを物語っている。沖縄を象徴的に捉えようと試みた本作は、第九回帝展に出品され話題を呼んだ。


29


一九二八(昭和三)年
絹本着色 軸装
六〇・五×五七・五
第四回菊池塾展
長野県信濃美術館

ふくよかな女性の上半身を前景に大きく配し、遠景に写実的に捉えられた農村風景が描かれる。女性にみられる立体表現や背景処理からは欧州絵画の影響をみることができる。本図は第四回菊池塾展の出品作。自らが率いたこの塾展は、塾生の作品発表の場であるが、契月自身にとっても最も重要な研究発表の場となっていた。《経政》《敦盛》《桜》《朱唇》《少女》《友禅の少女》など、その時々の問題意識を大いに反映した出品作の数々は、後に契月の画業を代表する作品と位置づけられるにいたっている。本図は、立体感の表出という問題意識をもって臨んでいることが明らかな、実験的色合いの濃い作品といえよう。


40
朱唇
(しゅしん)

一九三一(昭和六)年
絹本着色 額装
一一二・五×八八・二
第七回菊池塾展
京都国立近代美術館

タイトル通り、赤い口紅を引いた若い女性が微笑を浮かべている。その衣装は落ち着いた配色でありながら、黒い帯と黒髪が画面に緊張感を与え、唇の朱色は華やぎを添える。鷹羽模様が大胆に散らされた桃山風の衣装を身に纏ったこの若い女性は、桃山時代の女性肖像画を彷彿とさせるが、本作は特定の人物を描いたものではない。時代をはるか遡り、桃山時代の風俗を借りて若い女性の時代を超えた理想美を描き出した作品である。本作は無名の未婚女性を主題としたものだが、二年後には、同じく既婚女性の普遍的な理想美を追求した《涅歯》が制作された。


41
少女

一九三二(昭和七)年
絹本着色 額装
一一八・五×一四五・五
第八回菊池塾展
京都市美術館


42
友禅の少女

一九三三(昭和八)年
絹本着色 額装
一五二・〇×八八・〇
第九回菊池塾展
京都市美術館


46
散策

一九三四(昭和九)年
絹本着色 額装
一七三・〇×一七三・五
第十五回帝展
京都市美術館

《少女》《友禅の少女》《散策》はいずれも、同時代の若い女性を主題とした作品である。契月が、同時代女性を描いた作例は、この三作品と、一九三四(昭和九)年、大礼記念京都美術館美術展出品作《生暖》(韓国国立中央博物館所蔵)が確認できるのみである。契月は、同時代人物を手がけない理由を、「古代の人物の村象をかりて私の思想なり感じなり美しさを出さうとしてゐる」と語っているが、同時代女性を描いているとはいえ、これらの作品が、現代風俗への関心のみを示すものでないことは明らかである。歴史人物の姿を通して、理想的な人間像の表出を試みたのと同様、契月が、同時代女性の姿を通して普遍的な理想の女性、理想の美に挑んだことは、描かれた名もない少女らの意思的な眼差しが物語る。近代的感覚溢れるこれらの女性像は、契月作品の頂点の一角をなしているといっても過言ではないだろう。


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