このページではjavascriptを使用しています。JavaScriptが無効なため一部の機能が動作しません。
動作させるためにはJavaScriptを有効にしてください。またはブラウザの機能をご利用ください。

菅江真澄のみた円空

山口泰弘

菅江真澄(すがえますみ)の名を知る人は,民俗学に造詣の深い人や江戸時代の紀行文学に関心を持つ人を除くと現在,かならずしも多くはない。しかし,彼の遺した紀行文の数々は、かの膨大な『日本随筆大成』ですら汲み尽すことのできなかった,それこそ星の数ほど書かれた江戸随筆のなかでも,一際,輝く存在であるといわなければならない。

三河国に生まれた菅江真澄は,30歳を過ぎた天明4年(1784)以降の生涯の大半を東北・北海道地方の漂白の旅に費やした。彼がいかなる動機によってこの漂白を発心したのか,その理由は彼自身に尋ねるほかないのであるが,ひとつには,中古から中世,そして芭蕉にまで連なる,歌枕的異時空間をもとめて人生を漂白する,伝統的な思想の流れが彼にまで及んでいた,とする解釈もあながち不当なものではあるまい。随所に和歌をちりばめた擬古文体は,彼が,紀行あるいは名所遊覧記を遺した中世の歌人・連歌師・隠者の人生観に気脈を通じていたことを示している,とも考えられるからである。しかし,彼の眼は,中世の人の,すでに消えつつあった航跡をただ後追いするだけの回顧趣味には終わっていない。彼の書き残した記録には,当時の地方の民衆の生活,風土を自分の眼でじかに探ろうとする実証精神,鋭く穿つリアスティックな眼が随所に働いているからである。

文政5年(1822),彼はそれまで書きためた紀行類の多くを,当時滞在していた秋田の藩校明徳館に献納した。これが今日いう『真澄遊覧記』の原本である。以下に摘出する円空関係の記載は,この『真澄遊覧記』と,彼が秋田藩の委嘱を受けて藩領の地誌を踏査し,彼の死によって未完の草稿に終わった『月の出羽路』とから拾った資料である。
(なお,掲出資料はすべて『菅江真澄全集』未来社によった。)

真澄は,天明3年(1788)7月6日,南部領から津軽にはいり,青森を経て津軽半島東岸を北上し,13日三廐(三馬屋)から松前へ渡っている。この紀行の記録『そとがはまづたひ』の,7月11日三廐に着いた日の項で円空について触れている。

此浦(三廐浦)やかたに神明のみやどころあり,養信庵といふいほりあり。御廐石のほとりよりのぼりて観世音の堂あり。こは,むかし,越前の国足羽なにがしといふ人の夢に,われと久しくこヽに在り,ねがはくば,みちのおくの三馬屋にいたり島わたりの舟をまもり,浦のまもりとならんと見おどろきて,いそぎこの浦にをくり奉らんとおもヘビ,よるべなければ,すべなう月日をふるに,そのくにうど久末なにがしといふもの津軽にいきて,檜原の杣に宮木伐らせ,おほぶねにつみくとて,ふなでしけると聞て,これにたぐへて,みほとけを奉れば,久末,としごろ宿りつる間丸伊藤五郎兵衛がもとにもりいたりて,しかじかのことありといふ。あるじは,ひんがしのみてらのながれをくみて,ことのりのをしへにはかたぶかで,をりもあらんとて,からうづ(唐櫃)に,ふかくをさめぬ。

三廐浦つまり現在の青森県東津軽郡三廐村の義経寺が,上に記された“観世音の堂”にあたり,ここに円空作といわれる「観音菩薩座像」が伝えられている。同寺に遺された『龍馬山観音縁起』には,源義経が頼朝に追われて北海道に渡るとき,念持仏にしていた観音像を遺していったが,下って寛永年問(1624−44),越前国西川郡符中出身の円空がこの地にきてこの観音像を発見し,霊夢で故事を知り,あらたに観音像を刻み,観音像を胎内仏として納め,草庵を結んで安置した,ことが記されている。真澄も円空に触れ,次のように続けている。

としへて足羽がもとより出たりける円空といふすけ(出家),島わたりとてすぎやうし来りて,これも夢をしるべに,みちのくの国にいたれば三廐の港につきて,そのほとけのおわしませる宿ともしらで伊藤がもとに泊まりて,この浦にさることやあらん,いづこならん。あるじこたへて,わが家にこそあなれ。こは,ゆくりなうらちなるかなとよろこび,猶たふとく,われ御堂を建んと。此法師かくて,三廐の上なる磯山をひらきて,そのみほとけをおかん。この観世音は源九郎義経のきみ,かぶとにをさめて,そのたヽかひに,しかまのかち(飾摩の搗布)をえ給ふのとこのましませし,一寸二分の,しろがねの,みかたしろなりけり。それに,足羽がもとへのもんじやう(文章),花押あるをそへたり。円空みづから観音の像を斧もてつくり,しろがねのみかたしろは木のみかたしろのむねにこめて,そのもんじやうに,円空法師,ありつるゆへをかきそへて伊藤がもとにいま猶あれど,いたくひめて,この浦人すらゆめしりたるものあらねど,ある法師のこ、にとしをへて,なりつびたるとて,そのあるじが,このほうしにのみみそかに見せしとて,かのほうしの人にかたりていふ。いとふるめける紙のあつあつとしたるにかいて,義経とあり。又円空法師が書そへたるかみは新しけれど,ところどころしみのはみて,文字のさだかなざるものもありきと。

義経渡航伝説にまつわり,胎内仏として納められた観音小像は,現在失われているが,『龍馬山縁起』と真澄が,言い及んでいる円空の出自をともに越前としていることには注意がそそられよう。現在私たちが円空と呼んでいる行脚僧は,円空自身が記した「貫前神社旧蔵大般若経」奥書によって美濃国の出身であることが知られていて,この記述とのあいだに齟齬(そご)がみられる。当時,円空を称する行脚僧が複数存在したとする解釈もある。
 この観音像を開帳したところ,天変地異が起こったという。

その円空が作れる観世音を,一とせ,みとばりひらいて人にをがませ奉れば,風雨しきりにして海あれ,ひかり,かんどけしたれば,此たヽりやと,いそぎとざしてより,いまは住僧のほか,さらに拝み奉りし人もあらじとかたり,春の末は三宝鳥もかならずきなく,もともたふときところなど浦人に話りたり。

三廐で円空仏を見た3日後,つまり天明8年(1788)7月14日に真澄は北海道へ渡った。以後,寛政4年(1792)まで松前を拠点にして蝦夷地の踏査を試みている。

寛政元年(1789)4月20日真澄は松前を発ち,渡島半島を西岸沿いに道をとり,太田権現への旅を行っている。『えみしのさえき』によると,4月30日久遠に着くとここからは海路,「いよいよ風ふき波こヾしうたちて,のりたる人々はふねのくまぐまにうちまろばし,命あるこヽちもせざりける」という荒海を越えて,太田へと向かっている。荒磯から岩面をよじ登って山の中程に至ったとき,真澄は一体の立木仏を目にしている。

みちのかたはらなりける木の根を,斧のあたるにまかせてつくりなせるぼさち(菩薩)に,きぬうちきせ手向たるも,おかしうたふとく,

と,円空のものかどうかには触れていないが,これを描いた絵を添えている。権現の詞へは鉄鎖をたよりに岩崖をよじ登らなければならない。

斧作りの仏,堂のうちにいと多くたヽせ給ふは,淡海(近江)の国の円空といふほうしのこもりて,をこなひのいとまに,あらゆる仏を造りをさめ,──略──又岩のうつぽありけるにも,円空が作れる仏のみかたしろあり。

真澄の見た円空仏はしかし,現在はまったく失われている。
 太田権現からの帰途,江差に向かう途次の5月17日,真澄はもう一体の円空仏を見ている。

雨ははれれど,こヽらの山川あふれながれて,行かひものなければ,ひるまばかり,童をいざなひてあたり見あるりくに,黒岩といふいはやあるに,円空ほうしが作る地蔵大士の像あり。眼やむ人は,よねてもここにまうづれば,そのしるしをうとぞ。

寛政3年(1791)5月24日,真澄は,有珠岳をめざして踏査を試みている。いよいよ有珠岳に登る日,すなわち6月10日,洞爺湖を舟で進み,やがて仲島にとりつく。

舟を鳥居立小嶼によせて小坂をのぽりて,二間斗の堂のあるに戸おし明て入ば,円空の作れる仏二躯あり。一躯は石臼にすゑたり。──略──堂のかたはらに,木賊多く茂りたる中に小祠ありて,これにも円空法師の作る仏三はしらあり。そのそびらに,「内浦の嶽に必百年の後あらはれ給ふ」と書,又「のぼりべつゆのごんげん」,いまひとはしらには,「しりべつのたけごんげん」と彫りたり。

ここで真澄の見た像は,松浦武四郎の『東蝦夷日誌』二編の中でも触れられている。現在,この洞爺湖仲島にある観音堂には,寛文6年という円空初期の造像銘のある観音菩薩座像が安置されている。

4年あまりの北海道滞在を終え,寛政4年(1792)10月7日,真澄は下北半島の奥戸に上陸し,年末まで下北で過している。下北で最初の紀行,『まきのふゆがれ』に,ごく短いが,11月1日に恐山円通寺で見た円空仏を書き留めている。

観音の御堂にまうで,伽羅陀山にたぐえし山の麓なる御堂に入ば,ほうし蹲りてかねうちならし,しはがれたる声をうちあげて,そもそも此みやまは慈覚円仁大師のひらき給ひて,本尊の地蔵ぼさちを作給ひ,一字一石のほくゑ経をかいて,つかにこめ給ひしとて今に在り。はた恵心の仏も,なかごろの円空のつくりたるぶちぼさちもある也。

円通寺には現在2体の観音菩薩像が伝えられている。

『月の出羽路仙北郡』は,これまでに採録した紀行と異なり,真澄が秋田藩の委嘱を受けて藩領を踏査してまとめた地誌であり,最晩年の文政9年(1826)5月下句に起筆され,没する同12年5月までの3年間に編まれた。郡内駒場邑には十王堂という堂宇があり,鉈作りの木像が安置されていた。

○十王堂一宇あり  別当駒場山正覚院。此堂に木像十三躯あり。みながらソ作り也。なかむかしに,田の中よりゆくりなう掘り出したるといへり。其形釈ノ円空が制造し小斧細工にことならざる木像也。円空師に両人あり,料理に鯉魚を百日つくりてその臠刀もて髪を薙はらひ,袖を墨に染て名を円空といふ出家あり。また仏工の円空が事は畸人伝(伴蒿蹊『近世畸人伝』)にも見えたり。まさに此円空が作ならむかと思はれたり。円空松前に渡り,東ノ浦,臼,安婦多の山々,また多臼万弊が嶽なンどの仏を割り,西浦は,太田の山には木の伐株を立ながら仏に作りたるあり。円空が時代をまちまちに云ひてさだかならず。此仏像○秦広王○初江王○宗帝王○五官王○閻魔王○変成王○大山王○平等王○都市王○五道転輪王,また○五道冥官,倶生神,此二神は閻王の左右の脇士也。また奪衣婆あり。世にいふ葬頭川の婆也。また男を県衣王といふ。また仏説地蔵菩薩発心因縁十王経といふあり。あやしき事ども多かれど,此経の画形像に,此掘り出デし木像にやゝ似たり。円空が作といふ事つばからに知るべく証拠もあらねど,其十王の古物六七体(も)シて此奥に挙る也。

円空を称する行脚憎が複数存在したことに,ここで触れている。また,太田権現で見た立木仏をここではっきりと円空に擬しているのが注目される。真澄が,十王堂の木像を円空に擬している点はしかし,かならずしも首肯できない。なぜなら,真澄自身が描き添えている模写図は,この木像の様式が円空仏の一般的な様式とかなり異なっていたことを示しているからである。

菅江真澄にとって円空は,すでに1世紀を隔てる過去の存在であった。そして,真澄の遺した記録は,私たちが円空に求める美術的関心を,期待するほど満たしてはくれない。真澄のリアリスティックな眼はやはり民俗に生きる円空に注がれた眼であったと言っていいかもしれない。円空仏のもつオブジェとしての魅力に感性をよびさまされるまでにはまだ,時日を必要としたのである。

(やまぐち やすひろ 三重県立美術館学芸員)

ページのトップへ戻る