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林義明年譜

石崎勝基(学芸員)編

(本年譜は,林義明画集,林義明米寿記念展図録,林義明遺作展図線各所収の年譜に若干の事項を追加して作成した)。


西暦/和暦 年齢 事                          項
1890/明治23年   8月1日,和歌山県海南市上谷の農家に生まれる。父・安千代,母・房枝の次男。家業は主に果樹園を経営。

*1893/明治26年 久米桂一郎,黒田清輝帰国

*1901/明治34年 大下藤次郎『水彩画之栞』刊行

*1903/明治36年 浅井忠帰国,京都工芸学校教授となる。

*1904/明治37年 青木繁「海の幸」を第9回白馬会展に出品。
1905/明治38年 15 3月,高等小学校卒業。絵と算術を好む。

卒業後二年間和歌山の病院で療養生活を送る。

*1905/明治38年 大下藤次郎『みづゑ』創刊。

*1906/明治39年 大下藤次郎は青梅市で水彩画講習会を開催。
1907/明治40年 17 4月,和歌山県師範学校第一種講習科に入学。
1908/明治41年 18 3月,同科卒業。

4月,師範学校本科第一部に入学。美術クラブに入会,初めて水彩画を知る。

8月,奈良師範学校における夏期水彩画講習会に出席,講師は大下藤次郎。

*1909/明治42年 斎藤与里『日本及び日本人』にセザンヌ等紹介,森鴎外『スバル』に未来派紹介。
1910/明治43年 20 8月,大津市膳所における夏期水彩画講習会に出席,講師は森田亀之助・柳敬助・斎藤与里。始めて油絵の具など一式を求めた。

*1910/明治43年 藤島武二帰国。『白樺』創刊。高村光太郎『スバル』に「緑色の太陽」を発表。
1911/明治44年 21 夏,和歌山市で夏期水彩画講習会が開かれ,森田亀之助・斎藤与里・本間国雄を講師に招く。会員60名,その中に二級下の川口軌外がいた。
1912/明治45年
(大正1年)
22 3月, 師範学校本科卒業。

東京美術学校受験を希望,推薦を願い出るが許されず義務年限二年間小学校勤務を余儀なくされ,3月31日,和歌山県伊都郡高野山尋常高等小学校に就職,本科正教員勤務九給上俸を受ける(1914年4月28日まで)。

*1912/明治45・大正1年 岸田劉生,高村光太郎,斎藤与里,萬鐵五郎らフュウザン会を起こし,第一回展開催。
1914/大正3年 24 4月,東京美術学校図画師範科(現東京芸術大学)に首席で入学,二年間特待生として毎月8円の支給を受ける。洋画を専攻,田辺至の指導を受ける。同校には他に教授として黒田清輝・和田英作・岡田三郎助・藤島武二がいた。在学中最も多く啓発されたのは,矢代幸雄の西洋美術史の講義であったという。

夜間は本郷春木町の岡田三郎助関係の本郷洋画研究所に,級友の松岡正雄とともに二年間通う。一年後中村研一も出席した。

草土社の展覧や二科展の坂本繁二郎の作品に感銘を受けたという。在学中,春・夏・冬の休暇は,外房,伊豆海岸,日光,赤城等へ写生旅行に出る。東京市内の洋画研究所の人々と交遊,日本美術院の川口軌外・保田龍門,また曽宮一念・耳野卯三郎・寺内万次郎等と交わり,村山槐多の存在を知る。二科会の林倭衛とは外房の白浜で写生をともにしたことがよくあった。12月にフランスより帰国した安井曽太郎のアトリエを川口軌外とともに数回訪問する。

*1914/大正3年 二科会創立,第一回展を開く。
1915/大正4年 25 この頃『伊豆大島小景』を制作。

*1915/大正4年 現代之美術社主催第一回美術展(草土社第一回展)に岸田劉生,木村荘八ら出品。
1916/大正5年 26 秋,南紀美術会に入会。下村観山・北沢楽天が顧問で,会長建畠大夢,会員に川端龍子,保田龍門,川口軌外・松見吉彦など20数名がおり,毎年東京・大阪・和歌山などで展覧会を開催,また雑誌『南紀芸術』を発行していた。林は1921年まで6年間同会に所属しており,日本美術院洋画部および太平洋画会に各2回出品した。
1917/大正6年 27 3月,東京美術学校卒業。

4月5日東京府北豊嶋郡池袋私立成蹊中学校に講師として就職,同成蹊実務学校および成蹊女学校講師を兼任する(1919年9月15日まで)。先輩の曽宮一念も同校に勤務していた。

*1917/大正6年 第四回二科会出品の神原泰,東郷青児,萬鐵五郎らの作品に未来派の影響が見られる。
1919/大正8年 29 9月,栃木県立宇都宮中学校に教諭として転勤,七給俸手当七割。宇都宮をはじめ,日光・赤城・那須の山々を写生

*1919/大正8年 村山槐多,関根正二没。山本鼎,自由画教育運動を提唱する。
1920/大正9年 30 9月20日,三重県立津中学校(1948年より三重県立津高等学校と改称)に教諭として転勤,六給俸。かねてあこがれていた暖かい南紀潮岬や志摩の海が描きたくなったからだという。以後37年間津市を根拠に画業と教員の生活が始まる(津高勤務は1955年3月31日までの35年間,退職後も同校で非常勤講師を2年間勤めた)。生徒を野外に連れ出す写生を美術教育に導入したという。直接の関係は不明ながら,前年に始まる山本鼎の自由画教育運動に呼応するものということができる。

またこの頃林義明を中心に,津中学校の卒業生を交えて草陽社が結成され,第一回草陽社洋画展覧会が津市商工会譲所で開かれる。
1921/大正10年 31 この年から1924年までの間に津美術協会,三重県学校美術協会の会長を歴任する。
1924/大正13年 34 高橋千代(22)歳と結婚。

以後,終戦前後の激しい数年をのぞいて,教職の休暇の八,九割は南勢各地,志摩の海岸,奈良県境の山村などで作画に没頭,正月も自宅で迎えることはまれであったという。

*1924/大正13年 黒田清輝,中村彝没。
1925/大正14年 35 第一回個展を津市商工会議所にて開く,数十点を出品。

*1927/昭和2年 萬鐵五郎没。
1928/昭和3年 38 第二回個展を旧松菱百貨店で開く,数十点を出品。

*1928/昭和3年 佐伯祐三パリで没。
1939/昭和14年 49 第二次世界大戦中,三重県翼賛美術協会の洋画部幹事をつとめる。

*1941/昭和16年 松本竣介,「生きている画家」を『みづゑ』に発表。
1947/昭和22年 57 三重県美術展覧会の発足にあたってその創設委員となり,以後同展運営委員,同審査員をつとめる。第一回展は1948年4月開催。

*1951年/昭和26年 サロン・ド・メ東京展。
1952/昭和27年 64 11月3日,三重県教育委員会より三重県教育功労者賞を受け表彰される。

*1954/昭和29年 具体美術協会結成。
1955/昭和30年 65 1月に第三回個展を三重県立博物館で開く,74点を出品。

3月31日,津高等学校を退職,4月1日より同校で非常勤講師をつとめる。

11月3日,日本社会教育協会より感謝状を受ける。

*1956/昭和31年 世界・今日の美術展(日本橋高島屋)でアンフォルメル紹介。
1957/昭和32年 67 3月31日,津高等学校非常勤講師を辞職。その後,年二・三ケ月は写生旅行に出かける。潮岬,和深,美老津などの南紀の風景,美杉村太郎生からの大洞山 石那原附近などの数多くの作品を制作する。

*1964/昭和39年 読売アンデパンダン展廃止。
1966/昭和41年 76 津市美術展の発足にあたってその創設委員となり,以後同展運営委員,同審査員をつとめる。また津のチャーチル会の指導員をつとめる。
1967/昭和42年 77 1月に林義明喜寿記念展を三重県文化会館で開催,71点を出品。

7月,林義明画集刊行後援会制作による林義明画集を刊行。
1968/昭和43年 78 5月,三重県芸術文化協会の創設にあたって,その結成準備委員となり,以後同常任委員をつとめる。

11月23日,長年の三重県美術教育向上への貢献により,三重県民功労賞を受ける。
1971/昭和46年 81 11月3日,勲五等(そう)光旭日章を受ける。
1972/昭和47年 82 7月,林義明水彩素描展を三重画廊で開催,「半田川畔」などを出品。
1973/昭和48年  83 この頃より歩行に困難を生じ60年間続いた野外の写生が不可能となった。その後は専ら以前の作品を見たり後輩の絵を批評したりしたという。
1976/昭和51年 86 5月23日,三重県芸術文化協会顧問をつとめる。
1977/昭和52年 87 1月,林義明米寿記念展を三重県文化会館にて芸術文化協会主催により開催,油彩56点,水彩素描及び水墨6点を出品。
1978/昭和53年   5月18日,津市西古河町の自宅で心不全のため88年の生涯を閉じる。

同日,従五位に叙せられ,木杯一組台付を賜与される。
1981/昭和56年   8月,林義明遺作展を,第一会場石水会館,第二会場石水会館大ホール(以上油彩92点出品),第三会場三重画廊(水彩素描及び水墨45点出品)にて開催。
1988/昭和63年   6月,三重県立美術館県民ギャラリーで没後10年記念・林義明展を開催。
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