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「かすかにわれはすみわたるかも」
−利行が歌人だった頃

東俊郎

己が身の影もとどめず水すまし河の流れを光りてすべる
 人知れずくちも果つべき身一つの今かいとほし涙拭はず

1969(昭和44)年10月、東京上野の不忍池の弁天島にあたらしく長谷川利行の碑がたてられた。その碑文にえらばれたのは利行自作のうた、すなわちここにあげた二首の短歌である。

洋画家長谷川利行の名がその特異な生涯とともにようやくひろまったかとみえる現在も、かれが短歌をつくっていたことを知っているひとは意外にすくないようだし、耳にしたひとがいてもその大部分は字面のうえを風のように素どおりしてゆくだけだろう。ようするに本職はあくまで絵でうたはその余技にすぎないといった風にごくかるくあつかって。ところで長谷川利行をかたるエッセイその他のなかで、うたはそれほどだいじに扱われていない気配だが、この二首ばかりは例外みたいに諸家によってしばしば絶唱であるかのごとく引用されているのは、たぶん知るひとぞ知る利行の一種無惨な足どりにみえかくれする魂の象徴になっている、とみているからだろう。キリストが戴冠した茨のように。それはまちがっていない。利行の絵をよくみたことのあるひとがそのあとで、このふたつのうたを眼にするとき、たしかになにか釣糸のさきの浮きが水中にひかれるような「あたり」をかんじるからである。けれどもそれは茨の冠がキリストをよりキリストにするように、すでにできあがって流布している神話をいっそうつよめはしてもその逆にはならない。詩の真実がもつせかいのゆたかさから身元ふたしかな利行伝説のほうに異議をもうしたて、それに変更をせまるちからはとりあえず凍結されているといってもいいので、それだけ、

人知れずくちも果つべき身一つ

と、おもわず吐いてしまったためいきは、祭文かたりの哀感をただよわせて悲惨と不幸を一身にせおった天才のものがたりに縫い目もみえない自然さでつながるのだが、妄想をつのらせたものがたりにとらわれてしまうことは、かれの短歌それじしんのもつ表現のふかみをになったことばのちからをあっさり無視することになりかねない。うたがもつ本源的な呪文とはまたべつの呪文にとらわれて、自由に利行を生来の天地にあそばせようとすることにとってはむしろ邪魔になる。利行をいっそう利行にするにはどうしたらいいか。もちろん他ではない、かれのうたのせかいは絵のせかいとはまた別のいのちをいきているとかんがえてみることにきまっている。いまできることはその一歩である。つまり手ぶらで利行が詠んだうたのなかにはいってみたい。そしてその材料はないわけではなかった。

長谷川利行は1919(大正8)年に歌集をみずから編んで刊行した。収載された歌はおよそ180首。名づけて『長谷川木葦集』。いま『長谷川利行全文集』でよむことができるが、これをはじめてよんだひとはきっとある種のおどろきの、絶句するまではいかなくても虚をつかれて、ほんとうにこれがあの利行の短歌なのかと狐につままれたような気になってしまう。むしろそうならないと嘘になる。

金ガナイ爲ニ
 金ハ必要ヲ致シマス
 バカ!
 タマラナイ奴輩!
 御免下サイ

といった後年の詩の戯れならモディリアニに酔眼がよくにあうように利行の絵といかにもなじんでかえって逕庭がないのだが、『木葦集』のうたはそうぢやない。そこにいるのはもうひとりの利行、というかぼくらの知らなかった、内省的なこころの濃淡をもてあましながら耳目をとぎすませてせかいに対している繊細で感覚ゆたかな青年なので、のんだくれの乞食画家の片鱗さえもかんじられないととりあえずはいっておこう。

そういうことならあらためて『木葦集』をよみかえすしかないのだが、なんどもゆきつもどりつして、うたのちからをうみだすそのこころのありどころをさぐると、その刻々にかわる千の顔のすぐしたにひろがっている原初のすがたはといえば、どうやらそれは、

まろらかの玉藻の裾をつゝく魚の心にかよふ池のさゝなみ
 桔枝をまじへし蔓ははひからむ溪谷の茨花白く咲けり
 川べりの菰の葉づれに啼きよれる家鴨は水を掻き濁らしつ
 広々と高くしとべる夏鳶山はらさむき小栗栖の里

というような「写生」に徹したうたにもっともわかりやすくあらわれているといえないだろうか。どこまでもなだらかな口調で静かに事象にみいり、空想はできるかぎりしりぞけてみたものをみたと声ひくくかたる。うたうひとの影はかぎりなく背景にしりぞいて、さいごは気配だけをのこして自然のできごとがそのこころのかわりになっている。こころと自然とのあいだでみわけがつかない。これは日本の和歌、あえて古今といわず万葉でさえそうであるうたの伝統にけっして無縁でないどころかはるかにそれに呼応する。『木葦集』のかたちはそういう意志なき意志によって一貫し統一されているのはたしかなのだが、もちろんすでにあるものを器用にまねただけだというにはもうすこしべつの空気がかんじられる。しかしそれをいうためにはもうすこし接線をひかなければならない。するとつぎにこういううたがくる。

麥生よりまひ上りつゝしばらくは啼かぬ雲雀の姿をみたり
 川の瀬に掬ひ網もち若鮎ののぼるまちつゝせゝらぎをきく
 山庭の山茶花いく日ちりつくし蕾はこもるみどり葉を剪る
 冬ざれのみぞれしとゞにふる夕ベ大椋はなれしつぐみをみたり

抒情はことばのなめらかさにまかせてそのこころはできるかぎり景色にことよせながら、あたかも嘱目をただそのとおりに記述しているだけだというふりをしてみせているが、それがたんなる写実ではないことを、ささやかに「みた」「きく」「きる」という動詞で暗示する。ほんとうは「わたし」がいないとこの風景は成立しない。たとえば実朝の、

箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄る見ゆ

がそうであるように。実朝の「よせる波」は利行の「雲雀」や「せせらぎ」になっていて、どちらも詠むひとと詠まれる対象はほとんどみわけがつかないし、つかなくていい位相でうたが成立している。けれどそこからがすこしちがう。微粒子のように散華している「わたし」がもっと拡散して万葉ぶりのうたのすがたにとけてゆきそうな実朝とは逆に、無限遠点のほうから風景をこえて幻の身体がいまここにあつまろうとするうごきが利行のほうにはあるのだ。死んだふりをしてみせていた感情はもうすこしでたちあがろうとしている。

温かき春日おほらにすみよどむさやかの時を経過してゆく
 儚げに脆きものうきあきらめか小草の花は蕾もちたり
 丈長き草原ふかくやはらかにかげりゆくときわれのおもゝち
 つくばへば廣き斜面に降りて來し小鳥と遊ぶ心地こそすれ

「さやかの時を経過してゆく」は、「さやかの時が経過する」と「経過してゆく時はさやかであれ」との、つまり外界の時間と身体をながれる意識が同調した喩としての時間をあらわしている。たとえば万葉集巻十四の「信濃なる須賀の荒野にほととぎす鳴く聲きけば時すぎにけり」でさえも純粋な写実ではなくて多分に記号的であったように、ほかのうたもおなじで自然のうらに人事があり人事のかたちに似せた自然が、きわめて周到にえらびとられているのをその詠みぶりにみてとることはたやすいだろうし、それならもう一歩すすめれば、

己が身の影もとどめず水すまし河の流れを光りてすべる

がうまれてきた場にたやすくたどりつくのであって、その屈折や断絶や逆流にたくみに棹さしてなだらかに統御がおこっている場所で利行はまた、

命いま黙し足へりふりそゝぐ日だまりの丘草は葉を生む
 魂にとぢこもりつつ落涙す松山の庭鴉啼き過ぐ

などとうたうところまでゆくのである。そしてもうここからはそんなに遠くへゆかない。うたうための大地はさだまった。だからここでひとまずふりかえって、利行がよんだうたのすがたを大観してみるなら、いまざっとあげた20にたらぬ吟詠にあらわれているかれの魂の不変のありかは、おぼろげにであってもいいあてることができそうだ。

ことばの枝はるちからを無理にたわめてかたちにしたその不自然さをもてあそぶのでも、ながれるみかけだけが抒情に似たひとりよがりを紡ぎつづけるのでもない。その体温は外界に接触するところではひくくて運動性を欠くが、すこしふかいところは温もりにみちてときおり突風がふきあれることがある。またべつにいうとそこにひろがっているのは天才的な非日常のひらめきなどとはあまり縁のない、しずかで、そして俗から一歩身をひいてひきこもる日常を日常と甘んじたトポスである。つよい刺戟になれてしまって舌の荒れた現代人にとって、こういう起伏ゆるやかに淡々とすぎてゆく暮しをなぞったせかいは、景気よくみえをきらない役者の演技とおなじで、おとなしすぎてものたりないとみられるおそれがある。ほんとうはすこしちがう。むしろなにもおこらないとみえるところに利行短歌のいのちがあるとかんがえてみること、それがだいじだ。

晝の蚊をたたきつぶせば血のにじむわが掌に葉のくらさ

未熟さということをいちおうわきにおけば、この一首にしてもほんとうはみかけほど単純ではない。麦の穂が風にゆれるラストシーンが圧倒的な小津安二郎の映画のように、あかるい表面すれすれのところに深淵がくちをひろげ、こちらからすこし手をかすだけでそこに犇めいているいくつもの物語がたちどころにすがたをあらわす。不感無覚をよそおうところ或いは身をやつそうとするぎこちないしぐさのなかに、おのづからなる歌人の残心余情がにじんでいるとはいえないか。一種諦念にも倦怠にも似た空々たる影でその天地をつつめばいいんだとするいっぽうで、それを底からはねかえす視線もまたおなじつよさで息づいている。余生を気どってみはしてもすててすてえぬもの。だからその叙景文のリズムはただのその風景にはぜったいに収斂してゆかないのだ。

青葉かげてりの朝日は輝きてみるからによく麥は熟れたり
 一羽の鴉啼きゆく木梢岩が根にしづるゝ水の在處をみいづ
 かゞよへる池のさゝなみ藻のくゆり生ふも生はぬも色ふりにけり
 枯樅の明るき林冬されば外の面まともに澄み透りたり

だいたいにおいてこんな調べで『木葦集』ができあがっているといっていいが、それですむわけではない。心情の説明はできるだけ避けたがっている、そんな劇なき劇が微風になびいている風景を気がるに散歩していると、ぶっきらぼうに投げだされた、おそろしく調子のちがうちからにぶつかることになる。

確信が出來ないのです確信することはおそろしい固執だからです
 やさしい自分のため自分自身のために努力を惜しみません

古代的なせかいに突然現代人があらわれたようなこの破調はいったいなんなのか。謎めいたくりごとのようにも又なにごとかを拒みつつする決意のようにもみえて、どこかぼくらの知らなかった利行へつれていかれそうな木下闇のむこうの微光にさそわれる。

ここで一息いれよう。そしてそのあとで、いままでの虫の眼でみた大地から歴史の空に舞いあがって鳥瞰してみようというわけだが、なぜというまでもない、つぎのような素朴な問いにこたえてみたいからでもある。あの長谷川利行がなぜ、短歌なのか。どういう風に短歌が利行を訪れたのだろうか。それが知りたいのだが、ここで鳥の眼をかりるとそこにはひとつはっきりした理由があることがみえてくる。つまりかれが青春をいきた明治3、40年代はなにより短歌にとっての黄金時代だったという風に。利行が生まれたのは1891年、すなわち明治24年である。佐佐木信綱は1872年、与謝野鉄幹は1873年、青山霞村は1874年、金子薫園と尾上柴舟と島木赤彦は1876年、窪田空穂は1877年、与謝野(鳳)晶子は1878年、長塚節は1879年、斎藤茂吉は1882年、前田夕暮は1883年、若山牧水と北原白秋は1885年、石川啄木と木下利玄と古泉千樫と吉井勇は1886年、中村憲吉は1889年にと、短歌といえば誰とぼくでさえ名をあげられる歌人はそろいも揃ってこの時期に生まれていて、だから佐佐木信網が歌誌『心の花』を創刊した1898年あたりを手はじめにしてつぎつぎに和歌の革新運動がひろがっていったので、おおげさにいうと利行はその渦中でそだったといっていいくらいである。

そしてその運動のいっぽうの極は『明星』に拠ってたつ浪漫主義であり、もうひとつの極はその浪漫派をあまりに相聞をうたうのに急すぎるとみてそれに異議をとなえた叙景歌の提唱だった。いうまでもなく、この叙景歌の提唱にはさらに江戸にさかのぼって、賀茂真淵あたりにはじまる万葉集へもどれというおおきなうねりが伏流しているわけで、それと西洋近代のリアリズムのハイブリッドからくるあらたな屈折がうみだす魅力がそのいのちになっている。1902(明治35)年尾上柴舟とともに『叙景詩』を刊行した金子薫園が、

さしわたる葉越しの夕日ちからなし枇杷の花ちるやぶかげの道

と詠んだとき利行は11歳だったし、窪田空穂が明星風にあきたらずにもっと自然主義によりそいたい若い歌人たちにむけたその『まひる野』のなかで、

さまよひて黎明行けば木下闇なほわが路のあるにも似たる

とうたったのはその3年後にすぎない。これらの清新なうたの息吹に利行がリアルタイムで接していたかどうかはさきのこととして、かれが和歌山の耐久中学時代に友人たちと同人誌を回覧して、さかんに短歌をつくるようになるのはそれからほんの数年後ということに注意したい。1908(明治41)年には『明星』と『馬酔木』が廃刊し『アララギ』が登場するが、これは小説における自然主義の優勢をうけて短歌が正岡子規の夢をのせた叙景歌のほうへといっそうかたむくだろうことを象徴している事件だった。傑作でなく月並みなうたになればなるほどこんな時代の共同幻想の痕をはっきりしめしている。

ひよどりの朝鳴く山の栗の木の梢しづかに雲のさわたる
 枯菰に水は動かず底淺の泥明かあかと日あたりにけり

たとえば長塚節や島木赤彦をちょっとのぞいただけでみつかるこんなうたが利行になじんだ視線に親しくみえるのは、かれらの万葉ぶりにすこしく斧正をくわえただけで利行とみわけがつかなくなりそうなある空気がそこにあるからではないか。近くからはともかく、離れてみればその目鼻立ちがどことなく似ている。もちろん長塚節や島木赤彦の歌風をどれだけひねってもその核のところでは利行にゆきつかない。けっきょくかれが耕そうとしているのは『馬酔木』や『アララギ』のそれとはやっぱり別の乾坤だということになっている。

利行がどういう短歌雑誌や歌集をよんでいたか、また当時の結社とどんな交渉があったかはわかっていない。だからかれがだれにどんな手ほどきをうけたか、だれに私淑したかはこっちで想像するしかないわけだが、さてどうだろうか。与謝野晶子の『みだれ髪』なんかはあんなに一世を風靡したのだから一読していないはずはないとしても、『明星』の詠風はさいごのところで利行のうたごころとはなじまなかったとかんがえるのが自然ではないか。するともうこのへんからは、あやういイメージを無理にでもこねあげてゆくしかないとして、おもいきっていうと、かれの素養は古今新古というより、玉葉集風雅集に範をとった冷泉流の歌学に無意識裡に棹さすようであり、その写実の近世的変形を根にもちつつ、すでに引用した『叙景詩』を共同で世におくった尾上柴舟と金子薫園の感性圏につながっているんぢゃないか。金子薫園の

鳥かげの窓にうつろふ小春日を木の實こぼるる音しづかなり

とか、尾上柴舟の、

晝深し山のくづれの一筋の強く流れて谷は寂しき

のおもかげは、濃くあさく、たしかに利行にかよっている。いまとなっては利行にやや古色をつけているその部分に。

山影の畑に伏せたる龍の鶏ひとりしづかに晝を啼くなり
.ときはぎのさびしき木かげ日に乾く土の匂ひの夏の午後かな

つまり自我の足跡のうえに落葉をちらせて、さらに花月でぜんたいをととのえる。歌人の身体がそのまま自然に変身している。この2人にくらべれば石川啄木も若山牧水も、作歌のうえでそんなに決定的な影響をあたえているようにはどうしてもみえない。たとえ牧水が『別離』で詠った、

少年のゆめのころもはぬがれたりまこと男のかなしみに入る

という、まるで『木葦集』のぜんたいをぴったりいいあてたかのような歌をじっさいに利行が知っていたとしてもである。かれらのうたにはそれをうたう口吻がすけてみえ、せっかちな気負いや失意さえかがやいてみえるのはその若さをうたがいのない絶対としてみずからを戴冠しているからで、それほど利行からとおいものはなくて、かれの歌には若さをも相対的とみる「かえりの眼」が「ゆきの眼」をみかえしている気配がいつもただよっている。げんにある自分より一歩しりぞいたところに身をおくことを好み、しかもそのときの身ぶりにじゅうぶん意識的な、ひとを騙したり騙されたりすることを拒否する視線とととりあえずはいっておくことにする自他の等身大へよせる愛情のようなものこそ生涯にわたるいのちだったけはいである。愛情ということばが利行ににあわないとすればむしろ倫理というほうがよかった。そこでもしそうだとするなら、利行にすくなからぬ影響をあたえたひとはというと、さきにあげた尾上柴舟や金子薫園よりもっとふさわしいのは窪田空穂だったかもしれない。というより、これはべつべつの影響で、いっぽうが感性にうったえたとすれば、もういっぽうはうたの肉をうちがわから支えるその骨をつくることにかかわるという風に。窪田の『まひる野』が刊行されたのは利行14歳のときだとはすでにいったが、15歳のときには歌集『明暗』が、そして21歳のときには『空穂歌集』が出版されている。しばらく小説に精力をそそいでいた空穂が、

我が重きこころのうえによろこびのまぼろしなして燕飛べるも
 椿の木ひそかに金にきらめきてわれと揺れをり秋の暮れ方

をのせた『濁れる川』で短歌に復帰したのは、利行の『木葦集』発行の4年まえにすぎない。そしてその1年まえには『国民文学』を創刊している窪田の存在は、花鳥風月をうたうだけでは飽き足らないひとにとってきっと無視できなかったはずである。もちろんそれだけではなにをいったことにもならないし、では佐佐木信綱は前田夕暮は北原白秋はどうなんだといわれそうだ。だいいち利行はのこした文章のなかでひとことも窪田に言及していないのだが、なんとなく気になってならないのは、あらためて、

野に棄てん棄てて烏につつかせん尊くもあらぬわれの心ぞ

などのうたをよむと自然にそれを利行にかさねあわせたくなるときである。

西行の「さまざまに花咲きたりとみし野邊のおなじ色にも霜かれにけり」は幸田露伴以外ほとんどだれもとりあげないが、ぼくはいい歌だとひそかにおもいつづけてきた。このばあいいいというのは、たとえば西行のよさにとわれた斎藤茂吉が「単純でゐて、なにがなし好いとことろがあり、すらすら行つてゐて微かながら弾力性のあるところのものである。」とかたったのに似ているかもしれない。そして西行との格のちがいに眼をつむると利行短歌があたえてくれるぜんたいの印象もほぼそんなところにおちつく。なんといっても刺戟に欠けるから、利行に関心がなければあっさり月並みと切りすてられそうだ。けっして下手ではないけれど、それにしても個性がないなどといわれるだろうことも予想がつく。

そのまなこ數千の星にかざられてわが眼を眩ず君見たまへば
 むごたらしき破壞をわれはまちのぞむ美しき物見る度毎に
 金のせき紫のせきする病われにとりつき離れざりけり

これは村山槐多の短歌である。槐多は利行におくれること5年でおなじ京都にうまれているから、ほぼ同時代人とよんでいいだろう。ともにその絵を天才とよばれるこのふたりの、短歌のあつかいぶりはしかしまったくちがっている。槐多は自然にながれる生理にさからってもみずからのせかいのほうに歌の身体を歪めるのだが、そのかたちの堰をきって過剰なこころがあふれるところに、すでにかれだけの固有の魂がやどっていて、短歌ではないとしてもまちがいなくそれを詩にしている。

こういった、こいつにはかなわないという根生のちからの感覚は利行にはない、というか、もしあったとしてもあらかじめ巧みに処理されている。ようするに槐多が素人だという意味で利行は素人ではないし、子規ほども貫之が下手なうたよみだと感じていないだろう。うたがたどってきた歴史にはとりあえず従順にという姿勢で集中的に腕をみがいた時期がたぶんあったと想像したほうがたしかだろう。そうでなければ、つぎのような歌群、

木洩日の窓掛ちかき我れの顔卓をへだてて家婦といそしむ
 子を抱きものいふわれの唇に幼な手をやりむづかりてやまず
 木のかげにさやぐうすらの葉わたりゆ君の心を入るゝ餘地なし

などは、うたのせかいのリアリティへゆくてまえで思わず現実にひきもどされ、むしろ実際の生活を伝記作家にさぐられてもおかしくないはずだった。それほど仮構と現実はここでひとしいちからでひきあっている。つまりうたのなかみをそのまま現実とみなして、30歳までほとんど謎にちかい利行の暮らしを復元しようとすると、じっさい利行には妻や子があって家庭をいとなんでいたという伝説がいかにもほんとうらしくみえてくるということがある。けれどそこのところでかれは虚実をとりまぜ、だいじなところほど曖昧に韜晦していて、いったんはじめた追跡がやがて不安のなかにきえそうになるとしたら、もちろんそれこそ詞花言葉をもてあそぶ力量のたしかな証しといいかえしたほうがいい。

そこであらためてことばだけをたよりに、うたそれ自身にわけいったときの風光をおおきくつかむことが必要になってくる。いったい、利行のうたの時間がかなりゆっくりと上句から下句にむかってながれてゆくのとくらべると、こころの時間のほうはかすかな濁りをみせつついつでもとまっていいというぐあいだ。なにかから逃げてきた通行のここがゆきどまりという、いっけん閑適ののどかさと表裏一体に意にかなわない暮しを無為とみる声なきためいきがどこからかきこえてきそうだ。

しづもりのかすかに音にはいづるらしき笹のしのはら目白來て啼く
 つくばへば廣き斜面に降りて來し小鳥と遊ぶ心地こそすれ

さしあたってすることは鳥のこえに耳をすませたりその姿を眼でおうことくらいしかない、というこころの位相が表現されている。すでにして無為である。そしてこんな無為のありようがかれの詩心によって花鳥風月に転換されるとききまって春の愁いのような倦怠感でとりまかれる仕掛けになっている。だからここで、

ゆく春やおもたき琵琶の抱心

をうたう蕪村をおもいだすのはさほど不自然ではないし、それならもうひとつ、これは香川景樹の、

はかなくて木にも草にもいはれぬは心の底の思ひなりけり

など、もっと素直に利行のこころにゆきつける歌だといっていいかもしれない。かたるにかたれないもの。かたちのさだまらない思いをじれったがるかのように待ちあぐんだ鳥がとびたち山茶花が散ってゆき、そしてそれを「さやかの時を経過してゆく」とみる自分がいる。この視線によって空気はかすかに濃淡を生じ、利行のこころの明暗によりそったうたはゆるやかに起伏しながらさらなる翳を手にいれることになった。そう、こころみに「明暗」ということばでひっかかってくる歌をあげてみるといい。するとそれがすくなからぬ量になることに気づかずにはいない。

晝の蚊をたたきつぶせば血のにじむわが掌に葉のくらさ

がすでにそうだった。一首の意識は「くらさ」へむかって収斂してゆきながら、くらさはくらさに溺れることがない。まわりのせかいはひらかれたままで、だからそのくらさが載っている掌の残像のあかるさをかえって保証している。明るさの暗さ、くらさのあかるさ。あかるいはくらい、暗いは明るい。そんな相補的感性ならいくつでもあげられよう。

葉の水谷深からずくもり日の心明るく今日もすごせり
 藪かげに苺をつめるをぐらさの光ささねど道はかよへり
 深藪の一隅く光たり木陰しづもる裏戸しめたり
 木の根をば打交へたる森の藪節毎出でし笹の明るさ
 枯枝をまじへし曼ははひからむ溪谷の茨花白く咲くけり
 奥山によりそひてみゆ山の家の小さくは光る窓の硝子戸
 眼なれたる淋しさをもつ草の葉の夕べとなれば村に灯ともる

ところでもしこの利行的明暗にいちばんちかい感覚の色はということになれば、なによりふさわしいのは青色である。けっして色彩的とはいえないかれの短歌のなかで青にかぎって「く光り」「葉かげ」「きわくら葉「葉の水」「葉風」「葉のくらさ」「葉山」などなど、村山槐多が乱発した赤とおなじくらいくりかえしてつかっている。つまりそれは対象の色ということをはるかにこえて心理の色だった。

ぬれ葉厚き浮きのたゞよふ藻草の上ささなみの透く初夏のくもり日

いっぽうこの明暗は無色のその無をかいくぐって一種透明性のほうへもむかってゆくので、それなら青は青でも輝く透明な青の領域にはなしはひろがるということになるかもしれない。ようするに明暗、光、青、水、透明とういうこになぜかこだわっている利行のすがたに朧気にみえてくるわけで、冒頭にあげた、

己が身の影もとどめず水すまし河の流れを光てすべる

はここまできてやっと、伝説のあつい雲の切間から利行の素顔をちらりとぼくらにみせてくれるのだ。微細な観察へと生をせばめて追いつめてゆく視線を、ふとはずした瞬間の放心のうちに河のながれは透体脱落して単なる哀感ではなくなる。そういうことなら利行のうたごころははっきりと、

やまかげの岩間をつたふ苔水のかすかにわれはすみわたるかも

をうたう良寛にかよっている。せかいにふれる五感はほぼそのままにしておいて身体を虚のほうへできるかぎりひっぱってゆこうとしているからだ。いいかえれば、じぶんをすでに死んだものとしてあつかおうとする感覚だといえよう。

さて、もうこのへんでおしまいにしたいが、さいごにもうひとつだけ、『木葦集』集中で異形をはなつ連作のことにふれておこう。連作というが本当はどうか、ぼくがかってにそう呼んでいるだけだがたしかにそこだけ一種不思議な空気がながれている結界なのだ。

農業地の上で雲雀の啼く幸福さ
 「かよふ息があたたかです」中空に啼いて居乍ら雲雀は糞をする
 胸をふくらかしていよいよお天道様感謝致しとう御座います
 確信ができないのです確信することはおそろしい固執だからです
 麥の中で雲雀は眠つた、朝は早くから空にのぼつた
 荒れた畑に麥の香の五月となりぬ、雲雀は啼けり
 初夏の雲雀の聲をきいて居る、麥の畑に農婦は休む
 赤いゆとりのあるお天道様、中空で雲雀は啼きます
 野原より廣いと思ひます、中空で今日も雲雀は啼いた
 鳥かげですつて、麥畑の丘で雲雀の聲をききました
 やさしい自分のため自分自身のために努力を惜しみません
 人の跫音は短いけれども鍬のひびきは長いと雲雀はかこちました

ここで利行がいちはやい口語自由律短歌をこころみていることも、のちのちの前田夕暮との交友とあわせて興味をひかれるところだが、いまだいじなのはそのことではない。一息でいいきるしかないスケッチにスケッチをかさねあわせたところに宮沢賢治の童話にも似た物語性が姿をあらわそうとしていることのほうなので、もっと端的にいうなら、ぼくがいま気にしているのはこのものがたりを虚の中心となって飛んでいる「雲雀」というささやかな一語なのである。

たとえば雲雀の歌といえば上田敏訳『海潮音』の例のブラウニング、

揚雲雀なのりいで、
 娘牛枝に這ひ、

をまづ思いだすだろうか。そしてその連想にさそわれるかのように浮んでくるのは大伴家持の、

うらうらに照れる春日にひばりあがり情悲しもひとりしおもへば

だろう。万葉びとが遅々とした春日にさそわれておもわずうたった生の憂愁は近代人の感覚ともみごとに照応するようだが、いったい万葉以来の千年間うづもれていた感のあるこのうたを、いささか近代にひきつけすぎたとはいえあらためて身ぢかなせかいとして親しく世におくりだしてくれたのは『万葉集選』の窪田空穂だった、というのは自著『万葉集』における大岡信である。あきらかに1915(大正4)年発行のこの書と利行の『木葦集』刊行の1919(大正8)年とはほとんど時差がないことになって、すると、たぶん利行は空穂をよんでいたのだと想像するのは、すこしほんとうにちかづくわけで、この妄想があたっていてほしいという気にぼくはなっている。

(ひがし・しゅんろう・三重県立美術館学芸員)

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