このページではjavascriptを使用しています。JavaScriptが無効なため一部の機能が動作しません。
動作させるためにはJavaScriptを有効にしてください。またはブラウザの機能をご利用ください。

藤島武二年譜

東 俊郎=編・構成

1867年(慶応3)
9月18日,薩摩藩士藤島賢方,たけ子の三男として,鹿児島市池之上町62番地に生まれる。幼名猶熊。

1868−76年(明治1−9)1−9歳
幼少の頃から商才を発揮,小学校の頃北斎漫画や祖父が長崎からもち帰った油絵を模写する。教育施設巡視のため鹿児島を訪れた文部卿田中不二麿のまえで席画を試みたこともある。

1875年 父賢方逝去。

関連事項
1868年1月 王制復古
1868年9月 江戸,東京と改名
1869年 川上冬崖,最初の洋画塾聴香読画館開く
1874年 国沢新九郎帰国し,彰技堂創設
1876年 エ部美術学枚開設

1877年(明治10)10歳
西南戦争勃発。18歳と16歳になる二人の兄が西郷軍に従軍,負傷がもとで二人とも逝去。鹿児島は戦火にみまわれ,武二は愛蔵の絵巻物ひとつかかえて逃げたという。長兄と次兄が亡くなった後は武二が家督をつぐことになる。

関連事項
2月 西南戦争おこる
8月 第1回内国勧業博覧会開催

1882年(明治15)15歳
鹿児島県立鹿児島中学校(藩校造士館の後身)に入学,1884年(明治17)まで在学した。この前後禅僧義堂のもとで老荘についての講話をきく。また四条派の画家平山東岳に日本画を学ぶ。
〈薩摩風景写生画巻〉を描く

関連事項
4月 フォンタネージ,トリノで歿(1818−)
5月 フェノロサが竜池会に招かれて日本画保護を力説,その講演筆記「美術真説」は10月に刊行される
10月 農商務省主催第1回内国絵画共進会で洋風画の出品拒否される

1883年
1月 工部美術学校廃止

1884年(明治17)17歳
この頃書家佐々木松見のすすめで芳洲と号する0西洋画を学ぶために上京する。しかし《工部美術学校を志してきたが,もうなくなっていた。》(藤島武二「思ひ出」)他に適当な画塾もみつからず,神田の英語学校に1年ほど通い,いったん帰郷する。
4月,農商務省主催の第2回内国絵画共進会に日本画〈漁樵問答〉〈南天に鳥〉を出品。

関連事項
2月 黒田渚輝法学研究のため渡仏
4月 第2回内国絵画共進会,洋風画を拒否
12月 曾山幸彦ら美術会を結成,麹町に私立美術学校をつくる

1885年(明治18)18歳
再び上京する。一時沈滞ぎみだった国粋主義がいきおいをもりかえし伝統的な日本画が復興,洋風画が排斥される風潮のなかで,《将来洋画をやるにしても,日本画を学んでいて損ではない》(藤島武二「私の学生時代」)と親戚に説得された藤島は四条円山派の日本画家川端玉章に入門。深川西大工町の三井家別邸に寄寓する玉章のもとへ麹町から通った。玉堂と号する。

関連事項
10月 藤雅三がラフアェル・コランに師事するにあたって黒田が通訳をひきうけ,ここから黒田の洋画への傾倒がはじまる。

1886年(明治19)19歳
11月,日本画研鑽のかたわら神田小川町に開校した東京仏蘭西語学校に入学,1888年(明治21)まで在学した。

関連事項
7月 久米桂一郎渡仏
10月 黒田清輝,久米桂一郎とともにラフアェル・コランに入門

1887年(明治20)20歳
東洋絵画共進会に〈設色美人図〉を出品し,一等褒状をうける。

関連事項
7年 山本芳翠,合田清帰国
11月 デュラン=リュエル画廊でビュヴィス・ド・シャヴアンヌ展
12月 竜池会が日本美術協会と改称

1888年
5月 山本芳翠,合田清が生巧館画学校を設立
10月 松岡寿帰国 東京美術学校創立

1889年(明治22)22歳
6月,青年絵画共進会に〈美人図〉を出品し,褒状をうける。この絵は帝国博物館総長の九鬼隆一が買い上げた。しかし油絵を描きたいという初心はかわらない。《そんな次第で暫く稽古を続けておりましたが,日本画の絵具を指で溶いたり絹を枠に張ったり,上に板を渡して,うつむいて描いたりすることは,私にどうも具合が悪く,矢張り洋画をやって見たい気が止まなかったのです。》(藤島武二「私の学生時代」)

関連事項
2月 東京美術学校が開校
6月 浅井忠,小山正大郎,山本芳翠,松岡寿らによって明治美術会がつくられる
10月 明治美術会第1回展

1890年(明治23)23歳
油絵志望を亡兄の友人沖一誠に相談すると,親友でやはり鹿児島出身の曾山幸彦を紹介してくれ.その画塾へかよう。芝山内の曾山塾にはこの前後岡田三郎助,中沢弘光,矢崎千代二,玉置金司,三宅克己らがいた。曾山が大野家の養子となり麹町永田町に移った後は神田仲猿楽町の中丸精十郎の塾に入るが彼らの工部美術学校式の指導にあきたらない藤島は1888年イタリアから帰国した松岡寿のもとへ直接たのみにいって,弟子をとらないといっていた松岡から特別に教えをうける。

関連事項
4月 第3回内国勧業博覧会,洋風画も展示する
10月 岡倉天心東京美術学校校長となる

1891年(明治24)24歳
この頃,山本芳翠が木版彫刻の合田清とひらいた生巧館(芝区桜田本郷町)の付属画学校へかよう。山本芳翠の指導のもとで,湯浅一郎,丹波林平,白滝幾之助,北蓮蔵,岡部昇丸らが制作にはげんでいた。春,明治美術会第3回展に油彩の処女作〈無惨〉を白滝幾之助の名で出品。《展覧会というものは当時明治美術会というのがあつて,私もそこへ出品したが,自分の展覧会に対する観念は今とはまるきり違っていた。とても今の人のように簡単に出すような勇気はなかった。実に臆病で,そして自分の名を公に出すということが恥しくて,人の名を用いて出した程である。覚えている作品では「無惨」という題のもので,姉妹の少女2人が,花園で,花枝を持って蝶を落しているところを描いた。これなどもたしか私よりは年齢の上で後輩であった白滝君の名を借りて出したものである。》(藤島武二「洋画を学ぷに困難な時代」)この絵は森鴎外の目にとまって,《姉柿妹と覚しき少女2人を花木の間に画き,その輝きかたに双飛の蝶の一羽を折枝にて打落させ,題して無惨といいたるは白滝幾之助氏なり。意匠の上よりは今度の会の第一等とすべし。技芸の上よりもおおむね好き出来なり。人物の態度−わたりには見えたれど,いま些しの心入欲しかりき。背後の樹木は,前景の輪廓渾て正きに似つかわしからで,観者をして多少の憾を懐かしめたり。》(「上野公園の油画彫刻会」)と批評された。8月,明治美術会に入会する。

関連事項
1月 明治美術会の月次会で裸体画問題が討論される
3月 黒田清輝サロンに入選

1892年(明治25)25歳
この頃,母,姉弟とともに牛込矢来町に住む。
3月,明治美術会第4回展に〈福神〉,く上代婦人〉を出品。同展にはフランスから黒田清輝の〈読書〉が送られて話題をよぶ。

関連事項
1月 大野(曾山)幸彦歿(1859−)

1893年(明治26)26歳
4月,検定により尋常師範学校,尋常中学校,高等女学校教員免許状を得る。7月,三重県尋常中学校助教諭となり,津に赴任。
4月,明治美術会第5回展に〈桜狩〉を出品する。アメリカのシカゴで開かれたコロンブス記念万国博覧会に出品するはずだったが,日本側当局の洋風画軽視に憤慨した洋画家たちが出品を拒否したため,やむなくこれにならった。森鴎外は「めざまし草」誌上でこの作品を賞讃,また安田善次郎の買い上げとなる(のち関東大震災で焼失)。生活苦とたたかいながらの制作をふりかえって藤島は,《私は国に老母と兄弟が居ましたが,それ以前から東京へ引きまとめて,牛込に小さい家を建て,そこに住って居りました。僅かばかりの遺産でやっていましたので,その頃は貧乏の極に達し,シカゴに出す絵を描く時など,かなり苦しみました。二畳の玄関の隣りの三畳の屋根を打抜いて,硝子をはめて明りを採り,そこにモデルを置いて次の八畳に百号のカンバスを置いて描きました。書生時代には誰でもそんなことを経験するのですが,今の人から見れば想像も出来ぬ不自由さでした。》(藤島武二「私の学生時代」)といっている。

関連事項
4月 明治美術会第5回展でシスレー,ギョーマンなど印象派の風景画がはじめて紹介される
5月 黒田清輝サロン・ナショナルに入選
6月 久米桂一郎帰国
7月 黒田清輝帰国

1894年
7月 高橋由一歿(1828−)
    日漕戦争がおこる
10月 明治美術会第6回展に黒田は〈朝妝〉をはじめとする作品を発表
    生巧館画学校が黒田と久米に依託され天真道場と改称

1895年(明治28)28歳
4月,京都で開催された第4回内国勧業博覧会に〈御裳濯川図〉を出品,褒状をうける。
10月,明治芙術会第7回展に〈少女〉〈一竿風月〉〈風景〉を出品。

関連事項
4月 第4回内国勧業博覧会に黒田清輝が出品した裸体画〈朝妝〉がスキャンダルをひきおこす
11月 中丸精十郎歿(1841−)

1896年(明治29)29歳
6月,黒田清輝,久米桂一郎,岩村透,和田英作,山本芳翠が中心になって白馬会を創立,藤島も会員となる。7月,東京美術学校に西洋画科が新設されることになり,そのスタッフの人選を任されていた黒田は藤島の起用を決意して津中学と交渉,中学校側は難色を示したが,時の東京美術学校校長岡倉天心が三重県知事にかけあって実現,8月,東京美術学校西洋画科助教授に任命される。この間の事情について黒田は,《藤島君は日本の洋画家の中で,一番古く私の知ってる人です。それは私の仏蘭西に居た時分に,藤島君が手紙をよこしたことがあった。それで私は帰る前から手紙で知合になって居た。私とは同郷の人でもあり,年齢も略ぼ同じで,私より藤島君の万が一つ下です。帰ってから,何処かで遇ったことがあったが,それは覚えて居ない。其後28,9年頃私が頻りに京都へ往復した頃に,藤島君が三重県の中学校の教師をして居たのを訪ねたことがあった。29年に美術学校に新に洋画科が設けられるに就て,内命を受けた時に,助教授が要るので,私の知っている人の内では,藤島君が一番洋画が巧まかったから,三重の中学から転任して貰った。》(坂井犀水「藤島武二氏〈現今の大家・15〉」)と語っている。藤島の本格的な活動がここから始まることになる。《私が本当に洋画を研究したのは美術学校助教授に就職してからである。教務を為すの傍ら黒田君の懇切な薫陶を受けた。》(坂井犀水「藤島武二氏く現今の大家・15〉」)
10月,白馬会第1回展に水彩画〈春の小川〉〈四条河原の夏〉〈稲こき〉〈茂林初秋〉〈海辺に至る路〉〈郊外日暮〉〈鴨川晩景〉〈山径晩秋〉〈桃花の春〉〈伊勢塔世川〉を出品。

1897年(明治30)30歳
3月,第10回尋常師範学校,尋常中学校,高等女学校教員検定委員となる。
10月,白馬会第2回展に〈池畔納涼〉〈道遥〉〈雨後暮色〉〈肖像〉く林間秋暉〉〈凍れる巷〉〈読書〉〈雪の暮〉〈畑〉を出品。

関連事項
5月 岡田三郎助初の洋画研究留学生として渡仏

1898年(明治31)31歳
10月,白馬会第3回展に〈浜辺の朝〉〈池畔〉〈貝拾い〉〈海辺の春風〉〈逗子の浜辺〉〈網小屋〉〈浜辺〉〈海辺の微雨〉を出品。

関連事項
3月 岡倉天心東京美術学校校長を辞職 橋本雅邦・横山大観ら7名もこれにならう
4月 黒田清輝,浅井忠東京美術学校教授となる
7月 岡倉天心ら日本美術院をつくる 7月開院式
10月 ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ歿(1824−)

1899年(明治32)32歳
たか子と結婚。
10月,白馬会第4回展に〈夕空〉〈雨〉〈花〉〈習作〉〈路〉〈馬〉〈江〉〈晴〉〈風景〉〈花〉〈風景〉〈浜辺〉く風景〉〈夕映〉を出品。

関連事項
3月 白馬会絵画研究所が溜池に設けられる
12月 原田直次郎歿(1863−)

1900年(明治33)33歳
4月,パリ万国樽覧会に〈池畔〉を出品。9月,白馬会第5回展に〈浴後〉〈風景〉〈菜の花〉〈椿の花〉〈桃の花〉などを出品。〈菜の花〉は好評で,《例えば藤島武二氏の浴後と題する裸体画の如き,確に邦人の手に成れる此の種の画に於て,殆ど一成功なりと称すべく,(中略)其他同氏作品風景,菜の花等場内第一位を占む。》(「帝国文学」)と称讃された。雑誌「明星」の合評で上田敏もこの作を「傑作」とし,さらに〈浴後〉について,《「浴後」,あれは裸体画では随分巧く出来たと思う,日本では裸体画は是迄沢山ない,尤も胸まで位の写生は幾らもありました。(中略)何しろ表情と云う所に重きを置いて居るから,今日の裸体画は甚だ複雑なもので,厳しく言えば実感の起る位まで筆を着けて居るようにも思える。然るに以上の見地で藤島君の画を見ると是れは裸体の実に大変意を用いられた方で,十分浴後の情を現わして居ると思う。道徳の点より言えば,今日の如き裸体画は弊ありと謂えば,随分謂い得られると思う。絵画が段々文学に近づき,其影響を受けて昔は肉色輪廓等を貴んで居ったが,近頃では自然主義写実主義の詩文小説戯曲などに関係を持て来ました勢ゆえ,厳しく社会道徳の上から見れば,今日の裸体画なるものは弊害があるに違いない。併し藤島君が函かれた画でそう云う感の少しも起らないのは余程表情よりも色線美に多く注意したせいである。》と語っている。

関連事項
3月 和田英作渡仏 アカデミー・コラロッシのラファェル・コラン教室に入る
4月 雑誌「明星」創刊
5月 バリの美術学校で「日本の巨匠展」が開かれる
    黒田清輝渡仏

1901年(明治34)34歳
2月,一条成美の死後,かわって雑誌「明星」表紙を担当,6年ほど継続する。表紙のほか,カットや挿絵を描く。《「明星」の挿画や表紙もこの時代に頻りに作られており,35年の第二明星の表紙には1900年頃の仏蘭西で一時流行したムッシャ式図案の感化が示されもしたが,(一条成美も同様ムッシャの追随者であった)藤島は間もなくそれを脱却して彼独自のものに推移した。彼の作品に於ける新味と或文学的のにおいとは当時の文学者仲間に多くの共鳴者を見出した。与謝野寛,晶子共著の「毒草」の表紙と挿画とは傑作の方であったが,パステルを以てした原図を彫る伊上凡骨の骨折も相当なものであった。》(石井柏亭「画壇是非」)10月,白馬会第6回展に〈造花〉のほか風景画6点を出品。

関連事項
3月 荻原守衛渡米
6月 中村不折渡仏 ラファェル・コランに師事するが,やがてアカデミー・ジュリアンに移ってジャン・ポール・ローランスに学ぶ。

1902年(明治35)35歳
長男幸一生まれる。
9月,白馬会第7回展に〈天平時代の婦人図〉(のち〈天平の面影〉と改題),〈雨後〉〈松〉〈泊舟〉のほか石版画〈花菖蒲〉〈ミューズ〉〈菊,萩,撫子花〉〈花下少女〉を出品。

関連事項
1月 明治美術会を解体 かわって太平洋画会が誕生 岡田三郎助帰国
5月 ラファェル・コラン美術学校教授となる アカデミー・ド・ラ・グランド・ショーミエール創設
8月 浅井忠帰国

1903年(明治36)36歳
長女由利子生まれる。
9月,白馬会第8回展に〈諧音〉を出品。上田敏は雑誌「精華」に健筆をふるって称揚,《又同氏の作品に於て多とすべきは,粗大なる思想,例えば平凡なる歌に現われた詩趣,又は浅薄なる宗教思想,或は露骨なる忠孝愛国等の観念を描くことなく,即ち画題に於て画を作る拙劣の手段を用いずに,眼前の人望を犠牲にしても,真の画家たる立脚地より,画を以てせずんば現わし難き思想を人格化して,斯る趣味ある作を成されたことである。》と後年の藤島をすでに予想している。同誌にはまた蒲原有明も一文をよせている。《藤島武二氏は去秋「天平の面影」を出して声名世に布く。その姉妹作とも見るべき「諧音」の一図,またわれ等が讃嘆措かざるところなり。裸身の女,膝上に阮咸を載せ,右手を転軫に措きて絃を整へ,左手にこれを弾き試みんとす。この画の最も好きあたりは楽器をまさぐる繊手にあり。清秀の面また言う可からず。豹皮器(ママ)什花卉の装飾に至るまで一筆苟もせざるは氏が特長たり。》

関連事項
6月 京都洋画研究所が聖護院町につくられる
7月 和田英作帰国

1904年(明治37)37歳
7月頃,本郷区駒込曙町13番地のアトリエに藤島洋画研究所を設ける。有島生馬,高村光太郎,岡本一平,田中良,安宅安五郎がここに学ぶ。
9月,白馬会第9回展に〈蝶〉〈朝〉〈夕〉〈婦人肖像〉を出品。

関連事項
2月 日露戦争がおこる
5月 太平洋画会研究所がつくられる

1905年(明治38)38歳
この頃曙町の画塾は白馬会駒込研究所となる。9月,文部省から絵画研究のため4年間フランス,イタリアへ留学を命ぜられる。11月,日零戦争後初の欧州航路の船便で出発,年末にパリに着く。
9月,白馬会創立10周年記念展に旧作〈天平の面影〉を出品。

自筆文献・談話
「問はるゝまゝに」(光風,5月)
関連事項
3月 中村不折帰国
4月 山下新太郎渡仏
5月 有島生馬渡伊 白馬会が雑誌「光風」を創刊
9月 日雰講和条約

1906年(明治39)39歳
パリに住む。私立の画学校アカデミー・ド・ラ・グランド・ショーミエールに入学するとともに,国立美術学校の専科(本科は外国人をとらなかった)に入ってフェルナン・コルモンの教えを受ける。《私はパリでは美術学校へ入学した。私の以前に山下君がいたので,そんな経路からコルモン氏のアトリエについた。その他にもさすがに「アトリエの市場(マーケット)」であるパリだけに,研究所も多く,グランド・ショーミエール,コラロッシー氏等の研究所へも傍ら通うことができた。学校の夏季休暇は,その期間だけの臨時研究所があって,同じく美校教授であったアンベール氏がモンマルトルの方にいて,直接外光の下で,触目の自然を描くことをも学んだ。当時フランス画壇の景況といえばサロンなどで,専ら全国的な感激をよび起していた人々は,アルベール・ベナール,セリーヌ,アマン・ジャン,シャルル・コッテ,ルシュアン・シモン,アンリ・マルタン,など画壇の中心勢力として嘱目されていた。当時モネもいれば,ルノアールも生存し,ドガもいた。それらはチュイルリー以外で崇敬渇仰の的ともなり,将来を恐れられた新進有為の人々と日されていた。》(藤島武二「足跡を辿りて」)黒田清輝から紹介されたラフアェル・コランには,その画風を嫌って結局一度も会わずじまいに終った。《私どもの先輩黒田清輝,岡田三郎助,和田英作君などの恩師で,よき薫育を与えたコラン氏も当時なお健在であったが,フランス画壇の中心圏を離れていた形で,余り昔日のような活動はなかった。出発に際して黒田君から「是非会って見給え,いい人だから」と紹介の言葉をうけていたが,私は氏の画的傾向を余り尊ばなかったので,とうとう最後まで行き会うこともせず,有島,山下の両君はたしか教えをうけていたようにも記憶するが,私にはその機会も失われていた。》(藤島武二「足跡を辿りて」)

関連事項
2月 高村光太郎欧米留学に出発
10月 セザンヌ歿(1839−)
    荻原守衛アカデミー・ジュリアンに入る
11月 山本芳翠歿(1850−)
12月 鹿子木孟郎・斎藤与里ローランスに師事
    斉藤豊作コランに師事

1907年(明治40)4q歳
バリ在留,湯浅一郎,武石弘三郎らとベルギー,オランダ,ドイツ,イギリスを巡り,美術館を訪れる。この湯浅のほか,当時パリに留学中の美術家には,山下新太郎,斎藤与里,安井曽太郎,荻原守衛,高村光太郎らがいた。

関連事項
4月 安井曾太郎・津田青楓渡仏アカデミー・ジュリアンでローランスに学ぶ
10月 第1回文部省美術展覧会(文展)がひらかれる
12月 浅井忠歿(1856−)

1908年(明治41)41歳
1月,フランスからイタリアヘ移り,ローマに住む。1905年からローマのフランス・アカデミー院長の要職にあるエミール・オーギュストカロリュス=デュランの指導をうける。コルモンからカロリュス=デュランあての紹介状をもらっていた。《私が欧州に参らぬ前には夢幻的のギュスタヴ・モロー,古典的のビュヴィス・ド・シャヴァンヌ等の芸術に深く興味を持っているカロリュス・デュラン氏の芸術にはむしろ同感を持つことのできない傾向を持っていたが,欧州へ参って後は他山の石といった意味から努めて自分の趣味の反対の側も研究して見たいという考えを起して,パリではコルモン氏について教えを受け,ローマに参ってからは折々デュラン氏の門を叩いてコンセイユを受けることにした。そして自分では今まで全く気のつかなかったことも知ることができて,裨益を得たる点も少なくなかったと信じている。》(藤島武二「逝けるカロリュス・デュラン」)またイタリアについては,《イタリアにいって見て,かねて聞き知ってはいたことだが,私の芸術欲求の念は燃え,殊に古い文芸復興期前後の芸術に霊(たましい)の躍るのを感じた。それはパリなどでは夢にも想像されないすぐれた展望であった。私の心は跳躍した。が当時のイタリアの現代画壇は,これに比して対蹠的な惨めさで,過去の夢を無為に追っているに過ぎない0パリでは,最盛期の絢爛な花と香に酔っていた私も,ここでは,余りに世紀末的にとり残された廃墟の頽勢をなげくだけであった。年々ローマでは展覧会は開かれるには開かれたけれども,観るべく,聞くべく,教えられるべき何物もなかった。》(藤島武二「足跡を辿りて」)と書きのこしている。1月には帰国直前の荻原守衛に会い,ともにパラティノ旧跡,ヴァチカンを訪れる。またこの年約2カ月スイスを旅行,〈ヨット〉〈風吹く日〉〈瑞西レマン湖〉〈ルツェルソ〉などの風景画を描いてローマヘ戻ったところ,それまで描きためていた自作の大半が盗難にあったことを知る。

関連事項
1月 児島虎次郎渡仏
3月 荻原守衛帰国
5月 梅原龍三郎渡仏
6月 高村光太郎グランド・ショーミエールに学ぶ
7月 梅原籠三郎アカデミー・ジュリアンに学ぶ

1909年(明治42)42歳
ローマに住む。

関連事項
1月 雑誌「スバル」創刊
2月 梅原龍三郎アカデミー・ランソンに通う
3月 和田三造渡欧
6月 高村光太郎帰国
9月 川端玉章,川端画学校をつくる
    斎藤与里帰国
10月 児島虎次郎アマン・ジャンとクロスに学ぶ

1910年(明治43)43歳
1月,イタリアを離れ,海路インド洋を経て21日神戸着,22日帰京する。4月,東京府から第2回東京美術及美術工芸展の審査を委嘱される。5月,東京美術学校教授となる。5月,白馬会第13回展に湯浅一郎とともに滞欧作が特別陳列され,小品27点を出品する。《次に同室の藤島氏の作品に就て感じた事を述べよう。滞欧紀念の諸作は何れも皆よく氏の装飾画家的気菓を発揮している。故に予等は氏の小画幅の前に自然の幻影(いりうじよん)を感得する前に画面の美しさに動かされる。故に観賞者の感興は心理的よりも寧ろより多く生理的である。たとえば第344号の如きは予等に橋梁の穹窿から覗れる彼岸の人家の窓,流るる河の水という様なものはどうでも可いのであって,粘っこいようで而もさくさくした,仏蘭西人的に軽快な筆触(つうしゅ),気持のよい色彩,わけても水の−是迄の日本人の絵になかった−青色,それらの配調(あらんじめんと)等が此絵の万事(おーる)であるのである。予は殊に第353号の筆触(つうしゆ)の気持のよいという事を紹介せんと欲するものである。》(木下杢太郎「白馬会を評す」読売新聞)

自筆文献・談話
「伊太利風の壁画」(萬朝報,1月24日)
「伊仏の美術界」(萬朝報,1月27日)
「狂画伯マンチーニ」(美術之日本,2−3,3月)
*「滞欧見聞数則」(美術新報,9−5,3月)
「仏蘭西画壇近況」(方寸,4−3,4月)
「モデルと美人画」(東京朝日新聞,7月26,27日)
*「模写論」(美術新報,9−10,8月)
*「モデルと美人の肖像画」(美術新報,9−10,11,8・9月)
「新帰朝洋画家の会合」〈座談会〉(美術新報,10−1,11月)
関連事項
1月 湯浅一郎帰国
2月 有島生馬帰国
4月 荻原守衛歿(1879−)
5月 津田青楓帰国
6月 山下新太郎帰国
8月 日韓併合

1911年(明治44)44歳
次男二郎生まれる。
《某家の宏壮なる建築の室内装飾画を委嘱されし由……》(「美術新報」)と伝えられた赤星家(赤坂台町)の食堂壁画を計画するが,素描下絵だけに終った。 帰国当初,《装飾画と云っても色や線だけではつまらぬ,それ以外に理想−意味を有たせたい,其題目の選み方は勿論其取扱に於てもそうありたい。西洋には神話があって,普ねく芸術の上に用いられて居るけれども,日本では神代以来の伝説などがあっても,芸術の上には広く用いられて居ない,それを今後洋画に試みるには苦心と工夫を要する。同じく装飾画にしても之を用ゆる場所に応じた意味を持たせなければならぬ。例えば,西洋にては昔の宮殿などには人の意を引立たしめる様な装飾がある。中には随分思い切ったのがある。之に比して寺院の装飾画は簡素,沈静の情を催すものが多い。是等の点は,従来日本の洋画家には余り考えられて居なくはないかと思う。》(坂井犀水「藤島武二氏〈現今の大家・15〉」)と語った抱負の実践のひとつだったと思われる。しかし藤島の装飾画として完成したのは聖徳記念絵画館(明治神宮外苑)の〈東京帝国大学行幸図〉くらいで,そのほかはほとんど実現しなかった。
10月,第5回文展に〈幸ある朝〉〈池(ヴィラ・デステ)〉を出品。「第5回文展評」(美術新報11−1)に〈幸ある朝〉について次のような合評が載っている。《×プラッシュ・ヲオクのすばらしさは,さすが若い者の出来ない処と敬服するが,構図が稍散漫だ。窓から差込む光線が僕には朝よりも夕方のような気がする。人物よりか,花や花瓶の方がいい。卓上の花瓶の辺だけ仕切ったら定めし立派な静物画が出来たろう。◎僕は巧いと思う,どうも形などなかなかしっかりして居るし,アヽ云う暗闇の中で以て,朦朧としてアヽ云う面などをあれだけに面白く描くと云う事は,あれだけの技倆の人でなければ出釆ないし,又成功して屠ると思う。○朝の薄暗い部屋の中鎧戸の間隙から朝の日が,射し込んで来て居る心持も見えるし,部星の中の,いろいろな複雑な光の反射などが面白く取扱ってあると思う。△描き方は面白いと思うが,描き方の方に描われて居ると思う。花の描いてある壷の所は面白いと思う。人間の顔のところはどうもいけないように思う。さうして色が濁って居るように思う。◎描き方は当を得て居るように思う。顔なども薄明りの処に光がさして黒くなって居る所などは研究して居ると思う。あれは大分腕の無いものにはチョッとやれないね。僕は花や壁は能く描いてあると思う。色も非常に宜い。○荒ッポく描いてあるけれども形はしっかりして居る。》

自筆文献・談話
*「時代と隔離せざる点が−洋画家の浮世絵観」(美術新報,10−7,5月)
*「デカダンスの意義」(美術新報,10−8,6月)
*「根底と進歩−洋画家の日本画観」(美術新報,10−11,9月)
「芸術上に於けるデカダンスの意義」(東京朝日新聞,9月11,12日)
関連事項
3月 白馬会解散 青木紫歿(1882−)
11月 満谷国四郎再渡欧,アカデミー・ジュリアンでローランスに学ぶ

1912年(明治45,大正1)45歳
2月,岡田三郎助とともに本郷洋画研究所(本郷区春木町2丁目28番地)設立の準備をすすめ,6月20日創立。
6月,光風会第1回展に〈女の顔〉を出品。
10月,第6回文展に〈公園の一隅〉を出品。

自筆文献・談話
*「アマン・ジャンの絵に就て」(美術新報,11−6,4月)
「何ぞ国民の審美的感情の涵養に努めざる」(美術新報,11−6,4月)
*「ヴェネチヤの印象」(美術新報,11-10,8月)
関連事項
1月 金山平三渡仏
3月 旧白馬会の中沢弘光,山本森之助ら光風会を創立,6月第1回展をひらく
4月 斉藤豊作帰国
10月 第6回文展日本画部は新旧の画風によって第一科,第二科にわける
    斎藤与里,岸田劉生らヒュウザン会第1回展をひらく
11月 児島虎次郎帰国

1913年(大正2)46歳
9月,2月14日川端玉章が亡くなり,これを契機に川端絵画研究所(小石川区富坂町19)に洋画部が新設されることになり,9月11日から叔業をはじめる。本郷洋画研究所は岡田三郎助の専任となる。11月,美術研究のため朝鮮へ11月25日出発。2月,三越新美術部第2回洋画小品展に〈レマン湖畔〉出品。10月,第7回文展に〈うつつ〉を出品,3等質を受賞した。10月,国民美術協会第1回西部展に〈裸体〉を出品。光風会第2回展に〈千代田城の一部〉を出品。

関連事項
2月 川端玉章歿(1842−)
3月 森鴎外,黒田清輝,岩村透を中心に国民美術協会創立
7月 梅原籠三郎帰国
9月 岡倉天心歿(1962−)
10月 文展第二部(西洋画)を二科制にすべしとする運動が次第に白熱化し,10月と11月有志による建白書を提出
    梅原寵三郎神田のヴイナス倶楽部で滞欧作の個展

1914年(大正3)47歳
1月,朝鮮出張から1月25日帰京。4月,農商務省主催の東京大正博覧会美術部審査官となる。前年度から文展改革運動が表面化し,日本画部にならって洋画部にも二科を併設すべしとする嘆願が文部省の拒否にともなって別組織設立の動きへと変化,この間一貫して有島生馬,山下新太郎ら改革派を支援して当局を批判してきたが,黒田清輝の説得に属して文展にとどまることになる。8月,文部省美術審査委員第二部委員となる。9月,サンフランシスコ万国博覧会鑑査官に任命される。
3月,東京大正博覧会に〈花冠〉を出品。10月,第8回文展に不出品。この年の文展は日本画部の二科制も廃止され,これらの結果として洋画には二科会,日本画には日本美術院(再興)が在野団体として生まれ,画壇は三者鼎立の時代に入ることになる。

自筆文献・談話
*「朝鮮観光所感」(美術新報13−5,3月)
関連事項
1月 二科運動は大正博への不出品決議をきっかけとして,文展から離れて二科展をひらく独立運動となる。10月,二科会第1回展
8月 第1次世界大戦に参戦
9月 横山大観,下村観山ら日本美術院を再興
11月 安井曾太郎帰国

1915年(大正4)48歳
8月,文部省美術審査委員会第二部委員となる。
10月,第9回文展に〈空〉〈匂い〉を出品。

自筆文献・談話
*「真実を求めて」(多都美,9−9,9月)
*「文展の西洋画」(中央美術,1-2,11月)
「洋画のモデルになる女」(中央美術,1−2,11月)
「二等賞の洋画を評す」(絵画清談,3−10,11月)
関連事項
10月 二科会第2回展に安井曾太郎の滞欧作出品
    草土社第1回展を開く

1916年(大正5)49歳
8月,文部省美術審査委員会第二部委員となる。
10月,第10回文展に〈静〉を出品。

自筆文献・談話
「レーノルヅに就て」(美術新報,15−6,4月)
*「レイノルヅを論じて我現代の芸術に及ぶ」(美術新報,15−7,5月)
「鑑査及び審査所感」(美術新報,16−1,11月)
関連事項
10月 ラフアェル・コラン歿(1850−)

1917年(大正6)50歳
伊豆方面へ写生旅行。9月文部省美術審査委員会第二部委員となる。
2月,光風会第5回展に〈内海〉を出品。
第11回文展不出品。

自筆文献・談話
*「逝けるカロリュス・デュラン」(中央美術,3−5,5月)
「仏国芸苑の一明星たりしカロリュス・デュラン氏」(美術,1−7,5月)
「太田喜二郎君の芸術−自分の行く可き道を真直ぐに」(美術,1−7,5月)
「問はるゝ儘〈文展の鑑査所感〉」(美術新・,17−1,11月)
関連事項
2月 光風会第5回展にコランの遺作が特別出品
    カロリュス=デュラン歿(1838−)

1918年(大正7)51歳
東京美術学校西洋画科の改革があって,3年生以上は希望する教授に専属する教室制度となり,「藤島教室」が誕生する。9月,文部省美術審査会第二部委員となる。11月,山陰地方に旅行する。2月,光風会展第6回に〈風景〉3点出品。5月,国民美術協会第6回展に〈包心〉を出品。10月,第12回文展に〈草の香〉を出品。《「草の香」(30号)はローマのスケッチを日本へ帰って仕上げたもので,ローマでは市内であって郊外にも見えないはどの荒廃したところが多いが,その一つのポルゲーゼ公園の地続きであった。ローマにいたときの印象を基調にして日本で完成した。夕陽が将に沈まんとして,弱々しい光りが野に漲り,荒蕪の地に一面に草が生えている。それに興味が動かされた。爽やかな草の匂いが樹の陰にこもっていて,写生したときの気分がひたひたと動いてきたので,そんなものを現わそうと努めたのだが,日本へ帰って釆てそれを描いているときも,鼻にその匂いが甦ってきたことを思い出す。ここでまた私は一つの理論にぶつかった。よく絵を観る人から「これは何処の景色か」という質疑をうけることがある。が私は常にこれの答案にまごついている。必ずしも全部を我儘な想像に委しているのではないが,そうした場所は大体において,実在はしているのだが,私は「名所図絵」のように忠実なる写実を尊んではいない。勝手に木の位置もかえているが,そういわれて見ると,変な感じに囚われることが多い。人情として,妙なもので,他人の絵を見てもつい同じ疑問を心に起すことがあるが,人間の心理も得手勝手なものではある。》(藤島武二「思ひ出」)

自筆文献・談話
*「斎藤君の芸術の傾向」(中央美術,4−4,4月)
*「白滝幾之助氏」(中央美術,4−11,11月)
関連事項
11月 第一次世界大戦おわる

1919年(大正8)52歳
9月,明治40年以来の美術審査委員会官制が廃止,かわって帝国美術院(初代院長は森鴎外)が新設され,洋画では黒田清輝,岡田三郎助和田英作,中村不折が会員となった。展覧会も文展の廃止にともなって帝国美術院美術展覧会(帝展)として再組織される。この頃創立前後の時期の藤島の去就をめぐって交渉のとだえていた二科会と和解する(→「現代之美術」2−3,消息欄)。この頃の藤島の画風について次のような戯文批評がある。《ローマンチックな色彩は此人の独技である。併しその色はターナーのように光を現わそうとするのではなく,コローのように空気を目懸けるのでもなく,又たモネーのように外光の振動なぞと矢釜しいものでもない。凡て美しい鮮やかな色である。斯う云う美しい鮮やかな色は自然にもよく現われて居るが併し現われるに就ては皆訳があってそれがよく想像される。藤島さんの美しい鮮やかな色から,その訳が想像されたならばキツト佳いと思う。》(「キット使いと思う」)
10月,第1回帝展に〈カンピドリオのあたり〉を出品。

自筆文献・談話
「児島君と其絵」(中央美術,5−5,5月)
「松方氏蒐集作品に就て」(中央美術,5−8,8月)
*「レンブラントの『夜番』に就て」(現代之美術,2−5,9月)
「第1回帝展出品に対する所感」(美術月報,1−4,11月)

1920年(大正9)53歳
9月,帝展審査委員となる。
10月,第2回帝展に〈朝〉を出品。

自筆文献・談話
「童子の演〈名画解題サンドロ・ボチッェリイ筆〉」(中央美術,6−1,1月)
*「現代の装飾画を論ず」(美術写真画報,1−5,5月)
*「松万幸次郎氏の蒐集品に就て」(美術月報,1−9,5月)
「日本に於て予の見たる泰西名画に就て」(美術月報,1−10,11,6・7月)
関連事項
9月 日本美術院の洋画部廃止

1921年(大正10)54歳
光風会第9回展に〈瀬戸内海〉を出品。国民美術協会第9回展に〈紫陽花の女〉(のち〈紫陽花〉と改める)を出品。10月,第3回帝展に〈女の顔〉を出品。

自筆文献・談話
*「美しい色を筆に」(中央美術,7−1,1月)
「アマンジャン氏に就て」(美術月報,2−6,2月)
*「アマン・ジャン氏の事」(中央美術,7−3,3月)
「印象に遣る数点」(美術月報,3−3,11月)
「日仏交換展覧会に対する希望」(中央美術,7−12,12月)

1922年(大正11)55歳
3月,東京府主催の平和記念東京樽覧会審査官となる。
3月,平和記念東京樽覧会に〈雪後(大川端)〉を出品。

関連事項
7月 森鴎外歿(1862−)
7月 黒田清輝帝国美術院院長となる

1923年(大正12)56歳
明治神宮奉讃会壁画調成委員となる。
関東大震災のため帝展中止。11月,帝展にかわって開かれた日本美術展覧会京都展(大阪毎日新聞社主催)に審査委員として〈大震災後の東京の一部〉を出品。この展覧会は翌年2月,東京日日新聞主催で東京展が開かれている。

自筆文献・談話
*「近代巨匠の作品」(国華倶楽部講演集第2輯,4月)
関連事項
5月 梅原龍三郎,小杉未醒らの結成した春陽会第1回展が開かれる
9月 関東大震災

1924年(大正13)57歳
4月,第3回朝鮮美術展審査委員会委員となる。5月,帝国美術院会員となる。
10月,第5回帝展に〈東洋振り〉〈アマゾーヌ〉を出品。《「東洋振り」は支那服を着た女の横顔(プロフィル),これが私の多少画期的な出発になっている。イタリアの文芸復興時代には女の横顔の描写が多かった。ピエロ・デルラ・フランチェスカ,レオナルド・ダ・ヴィンチなどの絵を見た感じが,如何にも閑寂な東洋的精神に交通しているので,ミラノの美術館の壁画に見飽かぬ凝視を続けていたものであった。殊にフランチェスカの横顔の簡約された用筆が,面白く思って見てきた。(中略)必ずしも支那人をかこうという動機からではない。日本の女を使って東洋的な典型的芙をつくって見たかったのである。文芸復興期のそれらの東洋風な横顔が私をそこへ運んでくれたといえば,画因の説明は足りている。西洋画の材料を駆使して,西洋臭味を離れたものを描こうとしている。時代の風俗や調具などには一向無関心である。近代絵画にはそうした考証は必要としていない。同時に東洋とか西洋とかいう観念を撤回するのが私の年来の主張である。手近なところにいる日本人のモデルを使って,画面に可及的簡略法をとり,線や色彩を最も要約したものにする。朝令暮改の風俗などの考証は,そもそも末技に属する。時と処とを超越して私は常に絵画的効果の上に全力を傾けようと努めている。》(藤島武二「足跡を辿りて」)

自筆文献・談話
*「黒田清輝君を語る」(国民美術,1−9,9月)
「黒田子爵追懐談話会」(国民美術,1−9,9月)
関連事項
7月 黒田清輝歿(1866−)
10月 帝国美術院授賞規則が制定される
12月 中村彝歿(1887−)

1925年(大正14)58歳
12月,フランス共和国政府からオフィシェ・ド・ランストリュクシォン・ピュブリック勲章を贈られる。
第6回帝展に不出品。

自筆文献・談話
*「近代的な特色〈歌舞伎座の建築〉」(国民実術,2−2,2月)
「技巧のこと」(アトリエ,2−8,8月)

1926年(大正15,昭和1)59歳
2月,光風会第13回展に〈扇を持てる女〉を出品。
5月,東京府美術館開館を記念する第1回聖徳太子奉讃会記念全展覧会に〈芳宦rを出品。〈東洋振り〉につづく横顔の研究で,モデルの佐々木カネヨは,のち竹久夢二の描く〈お葉さん〉として知られることになる。6月,燕巣会第1回展(丸善)に〈牡丹〉を出品。6月,滞仏邦人巴里絵画展(日仏会館)に〈ペルサーユ〉,〈バリ女の顔〉を出品。9月第4回南画院展(美術協会)に〈竹〉と〈蝶〉を藤島含兎の号で出品。第7回帝展には不出品。

自筆文献・談話
「洋画を学ぶに困難な時代〈私の画学生時代〉」(アトリエ,3−8,8月)

1927年(昭和2)60歳
4月,燕巣会第2回展に〈花〉を出品。6月,明治大正名作展に〈天平の面影〉〈池〉〈ヨット〉〈うつつ〉〈草の香〉を出品。10月,第8回帝展に〈ホ剪眉(少女のProfil)〉を出品。11月,不二会第1回展(三越)に〈大川端の残雪〉〈少女〉を出品。

自筆文献・談話
*「マネの『オリンピア』に就て」(美術新論,2−12,12月)

1928年(昭和3)61歳
今上天皇の即位を祝し,学閥所を飾る油絵の制作を岡田三郎助と藤島が依頼される。多年教育に従事した功労により,文部大臣から表彰される。
5月,燕巣会第3回展に〈雪後〉〈牡丹〉を出品する。第9回帝展は不出品。

自筆文献・談話
*「私の学生時代」(美術新論,3−4,4月)
*「石橋和訓君を憶う」(中央美術.14−6,6月)
関連事項
5月 石橋和訓歿(1876−)

1929年(昭和4)62歳
6月,燕巣会第4回展に〈花束〉を出品する。10月,第10回帝展に〈風景(淡路島遠望)〉を出品する。

自筆文献・談話
「ラフアェルとシャヴァンヌ〈模写の話〉」(美術新論,4−3,3月)
「児島虎次郎君のこと」(中央美術,15−4,4月)
開運事項
3月 児島虎次郎歿(1881−)

1930年(昭和5)63歳
三重県鳥羽地方へ旅行,朝熊山に登るなどして数多くのスケッチを描く。
3月,第2回聖徳子奉讃会展覧会に〈女人合掌〉を出品する。《藤島武二氏の画を見て居たら何処か,オーガスタス・ジョーンを思い出した有名で殆ど人の眼には偶像になって居り,何処にか間違なく面白いところはあるが,さてそれと云って,積極的にはどこも面白くない,しかも決っして凡手ではない時と名を恥しめない腕を見せはする結局あまり大した仕事をせずにそのままになってしまう−と云う様な得態の知れない存在。藤島氏はそう云う種類に属する画家だと思う。熊谷守一氏や坂本繁二郎氏にも幾分そう云う所がある。人を化かす力の有る画家。》(河野通勢「聖徳太子奉讃展西洋画部批評」)この年,みづゑ展に〈裸婦〉を出品する。第11回帝展は不出品。

自筆文献・談話
*「足跡を辿りて」(美術新論,5−4・5,4・5月)
開運事項
4月 前田覚治歿(1896−)
12月 長原孝太郎歿(1864−)

1931年(昭和6)64歳
宮中花蔭亭パネルの制作依頼をうける。4〜5月,長野県安茂里に旅行。5〜6月,花蔭亭パネル制作のため,小林茂,蘆原曠とともに和歌山県潮岬に滞在,灯台の隣の神官宅にとまり早朝三時から描いた。この年はまた,茨城県の大洗にも足をのばして精力的に活動,多数の海景画とスケッチを残した。年末花蔭亭パネル〈紀州潮岬〉完成。10月,第12回帝展に〈春〉を出品。

自筆文献・談話
*「故長原孝太郎追悼」(美術新論,6−1,1月)
*「偶感−我が美術界に望む」(美術新論,6−4,4月)
「ピンツリツキヨ作ヴチカン宮アッパルトマノ・ボルジアの壁画の一部」(美術
 新論,6−5,5月)
「ミケランゼロ作天井画の一部」(美術新論,6−6,6月)
*「海の色,海の力」(美術新論,6−8,8月)
「展覧会を中心とする座談会」(美術新論,6−12,12月)
関連事項
2月 小出檜重歿(1887−)
11月 文展創立25周年記念式をおこなう

1932年(昭和7)65歳
夏,香川県に旅行,1カ月ほど滞在した屋島を中心に色彩に妙趣をみせる瀬戸内海の風景を描いた。《日中は殊に直射光線が垂下してくるので,色彩も乏しくなり,最も平凡な景色に見える。どうしても瀬戸内海の実在感は朝夕に如くはない。朝早く起き出て旭日を描き,朝が早いために必然的に日中は疲れてくるので午睡をとる。そして夕方になってまた夕陽による波と島の変化を描くために再びパレットをとる。》(藤島武二「屋島」)
10月,第13回帝展に〈大王岬に打ちつける激浪〉(のち〈大王岬に打ち寄せる怒涛〉と改める)を出品する。伊藤廉はこの絵について,《藤島先生の海の絵を見て,芸術というものはこんなように計画や意図がかくれていなくてはならないものだと思った。実際はこの作品が出来るまでにはなみなみならぬ経営があったそうです。それはたしか50号と30号と25号と3枚ほとんど同じような構図で製作された3つの作品の最も出来のいいものがここに陳列されている作品であったというのです(中村君のはなし)そういうかくれた製作されるときの種々の苦心はおそらくどの美しい作品にもあっただろうとは考える。ラツフアエロにしろ,マチスにしろ,その人たちの多くの素描を見ると一つの作品が出来上るまでには,怠け者が一生かかって残すよりもなお多い計画が費されている。「一つの作品を完成するために百枚の素描をする。作品は眼をつぶっても描けるように」とマチスは云っている。この数字は沢山のということを意味しているだけにしても,とにかくそれだけの用意や準備はしてかかるのだ。しかし作品にはそれが単的に見えてはいない。これが見えないところがくせものなのだ。》(「感想一帝展を見て」)といっている。

自筆文献・談話
*「古美術と新美術」(美術新論,7−1,1月)
*「私の絵」(美術新論,7−2,2月)
*「日本画及洋画の国画的立場」(美術新論,7−9,9月)
*「屋島」(美術新論,7−12,12月)
関連事項
3月 満洲国建国宣言
5月 熊岡美彦,斎藤与里ら東光会を創立

1933年(昭和8)66歳
春,長野県安茂里を再遊。10月,約1カ月台湾を旅行。1928年以来懸案の「水平線にできるだけ近い,新しい太陽」を求めての旅であったが,不満足な結果に終った。《実際に眺めた新高山は予想とは大分違って,この辺り一万尺以上の高峰が違っている上にちょっと頭を出しているだけである。したがってここから出る日の出は余程高く上った日の出であり,山を離れると鏡のようにキラッと光って見える。これでは最初の考えとは・痰チたものになる。絵としては面白いものになっても,日の出という感じには何としても遠いことを免れぬ。一体日の出を描く場合いろいろなものが入っては面白くないというのが最初からの私の考えであった。前景に他の山が沢山見えては高嶺の気も欠き,荘重の感じも薄くなる。できるだけ単純にという私の気持には新高の日の出もやはり不適当というほかはなかった。》(藤島武二「内蒙の日の出」)
2月,光風会第20回展に〈紀州風景〉を出品。7月,四皓会第1回展に〈陽光〉〈花〉〈杏花〉を出品。10月,第14回帝展に〈太陽のある風景〉を出品。

自筆文献・談話
*「レアリズムを再び検討す」(美術新論,8−1,1月)

1934年(昭和9)67歳
2月,福島コレクションが初めて公開される。藤島は《一番いいのはピカソで次がドランとルオーだ》といって周囲を驚かせた。(伊原宇三郎「藤島先生への追懐」)多年美術教育につくした功労によって帝国教育会から表彰される。12月,帝室技芸員となる。
2月,光凧会第21回展に〈波〉を出品。10月,第15回帝展に〈山上の日の出〉を出品。

自筆文献・談話
*「藤島先生語抄(有島生馬編)」(美術,9−1,1月)
*「故久米桂一郎追悼」(美術,9−9,9月)
関連事項
7月 久米桂一郎歿(1839−)
9月 竹久夢二歿(1884−)

1935年(昭和10)68歳
5月,第10回朝鮮美術展審査委員として朝鮮へゆく。5月28日,文部省は帝国美術院の改組を決意(いわゆる松田改組),これは第2部(洋画)に大きな波紋を生み,藤島は新聞に帝展不開催論を発表する。6月,改組された帝国美術院会員となる。10月,台湾官展審査のため梅原寵三郎と同行して台湾を再訪。12月,翌年1月にかけて,高知観光協会その他市の有志者の招待をうけ,岡田三郎助,辻永らと高知に赴き,のち単独で室戸岬に旅行する。
2月,光風会第22回展に〈瀬戸内海(女木島)〉を出品。3月,東京府美術館開館10周年記念展に〈芳宦rを出品。5月,四皓会第2回展に〈風景〉3点を出品。4月,現代十大家洋画展に〈屋島〉を出品。10月,新帝展に反対して7月結成された第2部会展に〈神戸港の日の出〉を出品。11月,第9回台湾芸術展に〈波濤〉を出品。12月,藤島,梅原,安井新作展に〈春〉〈朝霧〉〈五剣山の日の出〉を出品。

自筆文献・談話
*「帝国美術院といふもの〈会員の立場から〉」(アトリエ,12−7,7月)

1936年(昭和11)69歳
3月,新たに就任した平生文相が帝国美術院の再改組を考え,それに対して4月と6月,藤島は岡田,中村,満谷,和田,南,中沢らとともに意見書を提出する。7月,第2部会の新文展参加に反対して脱退した猪熊弦一郎,内田巌,小磯良平,佐藤敬,三田康,中西利雄らは新制作況協会を結成する。9月,官展廃止論を骨子とした「帝国美術院改革に関する私見」を単独で平生文相に提出する。
3月,五大家洋画展に〈室戸の黎明〉〈波〉〈朝陽〉を出品。4月,第3回現代十大家洋画展に〈室戸遠望〉を出品。4月,聖徳記念絵画館壁画〈東京帝国大学行幸〉が完成。6月,四皓会第3回展に〈海〉〈志度湾〉〈北国の春〉〈小豆島の春(一)(二)〉〈浴女〉を出品。10月,文展に不出品。11月,西洋画名作模写展に〈ラファエロ作老人像〉〈同人物〉〈シャヴァンヌ作鶏〉を出品。11月,新制作派協会第1回展に〈室戸岬灯台〉〈日の出〉〈朝陽(東海旭光)〉〈大洗〉〈蕃女〉を賛助出品。

自筆文献・談話
*「潮岬と室戸岬」(塔影,12−6,6月)
「満谷国四郎追悼座談会」(美術,11−9,9月)
*「仏蘭西行思ひ出の記」(現代美術,3−10,10月)
「最近の美術界情勢に就て」(アトリエ,13−10,10月)
関連事項
6月 帝展再改組
7月 満谷国四郎歿(1874−)

1937年(昭和12)70歳
2月,山形県上の山温泉に旅行,冬の蔵王山の日の出を写生。4月,岡田三郎助,横山大観,竹内栖鳳とともに第1回の文化勲章を贈られる。5月,新京で開かれる満洲国皇帝訪日記念第1回実術展の審査員を委嘱され,安井曽太郎,松林桂月とウラル丸で渡満。そのあと承徳から内蒙古のドロンノールへ足をのばし,ついに理想的な「水平線に出来るだけ近い,新しい赤い太陽」にであうことになる。その感激を藤島は,《砂漠の日の出はちょっと口ではいえない素晴らしいものであった。先ず砂丘の起伏が面白かった。砂そのものが非常に綺麗で,それが波のようにうねり続いているところは夢のような景色であった。殊に夜明け直前の空が薔薇色に見え出す頃の砂の色はほのぼのとした空気の中でまるで神韻縹渺たる感じに見えた。やがて太陽が地平線に現われると,今度は逆光になるので本来の砂の色は見えなくなるが,太陽が地上を離れるにしたがって砂は再び金色に輝いてくる。砂漠の日の出はこの砂との関係において実に独自の美しさであった。》(藤島武二「内蒙の日の出」)と語っている。6月,帝国美術院が廃止され,帝国芸術院が創設,その会員となる。
4月,明治大正昭和名作美術展に〈ヨット〉〈うつつ〉〈大王岬に打ち寄せる怒濤〉を出品
12月,新制作沢協会第2回展に〈新高山の日の出〉〈朝熊山の黎明(伊勢)〉〈雪空の日の出(蔵王連山)〉〈五剣山〉〈北国の春〉を特別出品。
12月,ドロンノールでの写生をもとにした〈旭日照六合〉を完成。

自筆文献・談話
*「態度」(美之国,13−1,1月)
「春らしい閑談会」〔座談会〕(文芸春秋,15−2,2月)
*「偶感−今後の美術」(美術,12−9,9月)
*「内蒙の日の出」(塔影,13−9,9月)
関連事項
10月 文部省第1回美術展覧会(新文展)ひらかれる

1938年(昭和13)71歳
4月,第1回満洲国美術展覧会の審査相談役として前田青邨とともに新京へゆく。そのあと陸軍省の委嘱でおよそ2カ月中国中南部の戦跡を巡った。上海では従軍画家として現地にきた中村研一,向井潤吉ら会う。関北,大場鎮,江湾鎮,呉淞鎮,無錫,大湖,杭州などをへて,6月26日帰国した。9月,第2回文部省美術展覧会(文展)審査委員となる。
10月,第2回文展に〈耕到天〉を出品。11月,新制作況協会第3回展に〈荒れる日〉を特別出品。12月,藤島武二近作個展(日本橋三越)に〈瀬戸内海の日の出〉〈大洗の浪〉〈潮岬灯台〉〈新高山の日の出〉〈西湖〉〈黄浦江を望む〉などの風景画20点余を出品。

自筆文献・談話
*「中支戦線雑感」(堵影,14−7,7月)
「文展鑑査所感」(美之国,14−11,11月)

1939年(昭和14)72歳
6月18日,夫人たか子逝去。10月,東京美術学校油画科主任となる。
2月,ニューヨーク万国博覧会出品展示会に〈東海旭光〉を出品。なおニューヨーク万博は4月に開かれた。7月,第1回聖戦美術展に審査員として〈蘇州河激戦の跡〉を出品。

自筆文献・談話
*「画室の言葉」(美術,14−1,1月)
*「雑感」(塔影,15−2,2月)
*「世界的な美術」(美之国,15−4,4月)
「雅号の由来」(東京朝日新聞,5月14日)
「逝ける岡田三郎助君の人と芸術」(読売新聞,9月26日)
『三輪鄰編−画室の言葉』(岡倉書房)
関連事項
9月 岡田三郎助歿(1869−)
第2次世界大戦がはじまる

1940年(昭和15)73歳
犬吠岬に写生旅行。
9月,新制作派協会第5回展に〈風景〉2点出品。10月,文展をふくむ主要美術団体合同の紀元二千六百年奉祝美術展に〈蒙古高原〉を出品。この作品について森口多里は,《意想外に,しかし堂々と,自然の単純化に移行したのは,藤島武二氏であった。こんどの「蒙古高原」は思い切った単純化をやって居られながら一種の豊かさと厚みとを感じさせるのは流石である。こういう作品を私は「骨のある絵」と許したが,まったく此頃は骨のない絵が多いのである。》(「奉祝展の洋画と彫刻」)と語っている。

自筆文献・談話
「特異児童の作品」〔座談会〕(みづゑ,423号,2月)
*「奉祝展その他」(堵影,16−4,4月)
「修養を積まれた人格者〈正木直彦追悼〉」(美育,16−5,5月)

1941年(昭和16)74歳
5月,軽い脳溢血を起こし,病床に臥す。
7月,第2回聖戦美術展に審査委員長として〈黄浦江を望む(上海黄浦江)〉を出品。

自筆文献・談話
*「雑感」(堵影,17−2,2月)
「純粋美術で行け〈帝国美術院の総会に際して〉」(読売新聞,3月27日)

1942年(昭和17)75歳
この年の暮,みずから設計した墓碑(揮毫は時の内相湯沢三千男)を青山墓地に建てる。
9月,新制作派協会第7回展に留学時代の作品〈ローマの噴水〉〈ヴェルサイユ宮〉〈ヴィラ・デステの池〉〈ポンペイ〉〈黒扇〉〈草の香〉〈イタリア婦人像〉〈ヨット〉〈セーヌ河畔〉くチョチャラ〉など16点を特別出品。11月,藤島武二作品鑑賞会(日本橋・三越)に〈蝶〉〈チョチャラ〉〈黒扇〉〈黒衣の婦人〉〈ヨット〉くヴェルサイユの秋〉〈大川端の残雪〉〈銃剪眉〉〈大王岬に打ち寄せる怒濤〉〈大洗の波〉〈杏花の路〉〈五剣山の日の出〉〈東海旭光〉〈上海黄浦江〉など58点を出品。

自筆文献・談話
*「日本人の油絵−病床随感」(日本美術,1−1,5月)
*「画壇に望む」(日本美術,1−7,11月)
*「思ひ出」(季刊美術,1−4,12月)
開連事項
12月 大東亜戦争美術展

1943年(昭和18)76歳
3月19日,脳溢血のため本郷区曙町12番地の自宅で逝去。3月23日,青山斎場で告別式。
4月,藤島,安井,梅原作品鑑賞会(帝劇画廊)が開かれる。6月,東京美術学校主催追悼会及び遺作展が開かれる。9月,新制作派協会第8回展に〈イタリア風景〉〈裸女〉〈鏡の前〉〈日の出〉〈琉球の女〉〈室戸風景〉〈蒙古風景〉など20点を特別出品。10月,大阪市立美術館で遺作展が開かれ,97点が出品される。11月,東京都美術館で遺作展が開かれ,130点が出品。

自筆文献・談話
*「藤島武二先生語録」(生活美術,3−6,6月)
関連事項
4月 構山大観を会長とする日本美術報国会が結成される

1944年(昭和19)
3月,遺言によりアトリエを撤去,残っていた作品約70点を焼却する。

関連事項
4月 松岡寿歿(1862−)

1951年(昭和26)
3月,藤島武二代表作展(銀座・松坂屋)が開かれる。
5月,藤島武二代表作展(鹿児島・山形屋)が開かれる。

1955年(昭和30)
2月,ブリヂストン美術館10年祭記念藤島武二展が開かれる。

1961年(昭和36)
11月,巨匠シリーズ・藤島武二展(新宿・伊勢丹)が開かれる。

1967年(昭和42)
4月,生誕首年記念藤島武二展(ブリヂストン美術館)が開かれる。
10−11月,生誕百年記念藤島武二展(大阪市立美術館)が開かれる。

1970年(昭和45)
1月,藤島武二名作展(岡山県総合文化センター)が開かれる。

1977年(昭和52)
4月,藤島武二展(銀座・日動サロン)が開かれる。

1980年(昭和55)
11月,藤島武二・岡田三郎助展(西宮市大谷記念美術館)が開かれる。


  1. この年譜は隈元謙次郎「藤島武二」(日本経済新聞社,1967年)と土屋悦郎編「藤島武二展」(日動画廊,1977年)年譜を主として参考にした。
  2. 自筆文献・談話の項の*印は藤島武二「藝術のエスプリ」(中央公論美術出版社,1982年)に収録されていることを示す。
  3. 引用の文章はすべて現代かなづかいに改めた。
ページのトップへ戻る