ギー・フェレ
Gui Ferrer
1955年、パリー
25《激しくそがれたセミ》
Cigale fort dépourvue
1989年
ブロンズ
Bronze
130×50×35cm
作家蔵
Collection de l'artiste
フェレの造形作品に息づく像たちが、作者も知らない間に二つの分野に分かれてしまっているのは、もう20年以上も前からのことです。そこでは、思いがけない形で二つが互いに浸透しあい、時として「変化」してしまうことを受け入れています。一方の人間の像はためらうことなく絵画となり、もう一方の動物の像も負けずに自ら進んで彫刻になっています。
人物像を見ると、しばしば私たちはドラマティックな問いかけを抱きます。対照的に、動物像に向かうと、おどけたような気持ちに誘われます。
事実、絵画とは探索の場と言えます。そこでは、画家は象徴的な人物ー作者の自画像であることは疑いありませんーを画面に挿入することで、私たちの普遍的な記憶を掘り下げます。その人物は、時間のロープの上で、とても危ういバランスをとっているのです。
動物と一緒にいれば、人間がいろいろなことを忘れる手助けとなるでしょう。すなわち、私たちは、動物によって自分にも死が訪れることを忘れたり、自分が抱えている苦しみや困難さに目をつぶることができるのです。
動物が私たちに語ってくれるのは、ユーモア混じりの人生です。彼らは重大な物事に対しても馬鹿馬鹿しいといったまなざしを投げかけます。
つまるところ、動物が私たちに教えてくれるのは、節度であったり距離なのです。彼らはわざわざ深刻さにがんじがらめになってしまっている人の滑稽さを明らかにしてくれます。
フェレの最初の動物彫刻、《セミ》(1989)は、「飛翔したか?」シリーズの一作です。このシリーズでは人間が持っている特徴の多くがまだ残っています。《セミ》は二本足でまっすぐに立ち、高潔さがみなぎり、私たちをまっすぐに両目で見つめています。あちこちに穴のあいた衣や、ミステリアスなぎこちないシルエットであるのにも関わらず、あたかも私たちに賞賛をもとめているようです。次々に作品は生まれていきます。小鳥を表した《マリリン》、《カタツムリちゃん》、《カマキリ嬢》、《チキン・スープ》など。それらの作品を見れば、私たちがすべきことは笑うことであるということが分かります。この場合の笑いとは、作品につきまとう孤独や不安を笑うことです。
態度や身振り、それにまつわる付属物などなどが、作品を騒がしいものにしたり、豪快なものへと変化させます。この「やけっぱちのユーモア」こそが私たちのこころを捉えるのであり、我々の優しさをかき立ててくれるのです。なぜならそれこそが私たち自身の姿であるからです
(Lionelle COurbet-Viron/生田ゆき)。
Les Sculpteurs et l'animal dans l'art du XXe siècle:Exposition du 25 mars au 24 mai 1999,p43.