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第1部 洋画時代の新井謹也とその周辺

1902(明治35)年、フランス留学を終えた浅井忠が中澤岩太に請われ、京都高等工芸学校の教授に就任した。浅井が京都に居を移してから没するまでのおよそ5年数ヶ月の間−おそらくはそれ以降も−たちおくれていた関西洋画界は浅井にはかりきれない影響を受けながら成長してゆく。そして、三重県鳥羽に生まれた新井謹也が京都の地で洋画に取り組んだ時期は、まさにこの京都洋画の形成期にあたる。

浅井が京都に移住した翌年、はやくも聖護院洋画研究所(のちに関西美術院に発展的解消)が創設、浅井を中心に、田村宗立や伊藤快彦、牧野克次、都鳥英喜らが協力して運営にあたった。伊藤、牧野、桜井忠剛の各家塾がこの研究所に合併しており、牧野のもとで学んでいた新井謹也もこの合併を機にすぐれた指導者を多く擁するこの研究所に学んでいる。しかし、1904(明治37)年に徴兵、無事戻ったのは浅井の没する直前、1907(明治40)年のことであった。したがって、新井謹也が実際に浅井忠に学ぶことができた期間はわずか一年足らずということになる。

残念ながら現在に伝わる新井謹也の絵画作品は多くはないが、、関西美術会展を中心に積極的に多くの作品を出品し、熱心に制作にはげんでいた様子は日出新聞をはじめとする当時の展覧会評などからうかがい知ることができる。また、一方では田中喜作を中心とする「黒猫会(シャ・ノアル)」−日本画の土田麦仙(僊)、小野竹喬、秦テルヲ、杉浦香峰、洋画の津田青楓、黒田重太郎、田中善之助らが主要メンバー−や黒猫会解散後に結成された「仮面会(ル・マスク)」−土田麦僊、小野竹喬、黒田重太郎、田中善之助−あるいは「同人会」−中心メンバーは加藤源之助、田中善之助、黒田重太郎、澤部清五郎−など明治期から大正期にかけての進歩的な活動にその名を連ねていることも注目に値しよう。

第1部では、新たなる洋画の形成期に積極的にかかわりをもった新井謹也、新井と同時期に京都洋画壇をもりたてた若き洋画家たちと京都の地で後進の指導に情熱を注いだ晩年の浅井忠をとりあげる。

(佐藤美貴)

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