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あわいよりあわあわと泡がたち

石崎勝基

  ある瞬間、色彩とにおいがその夢の空間の法でした
古川日出男、『アラビアの夜の種族』

 

 目の前にある紙の大きさに限定されることなく、涯てしなくひろがっていくかのような空間。それはからっぽの虚空ではなく、何らかの流体だか気体によってみたされている、あるいはそれらを通過させる。といって密度が一律な平衡状態にあるわけでもなく、たえずゆらぎや流れが生じている。それらはだが、ひとまとまりの閉じた形に凝結しはしない。一度生じた密度の落差は、一点に定着することなく、つねに横へ、あるいは奥へと波及していくばかりだ。そのため観者の視線は、ゆらぎや流れに対し一定のへだたりを保っていられなくなり、へだたりを計る尺度すら見失なうことだろう。

 

 ゆらぐひろがりをみたす何ものかは、見る目に対しとりあえず、色彩として現われる。暗青色などしばしば暗い色を基調に、それと白、同系色の明暗、あるいは色と色との対照によって奥行きや光をもたらしつつ、それらを貫いて浸透しあう各色は、ある種の透明感によってこそ浸潤しうるのだろう。

 他方色の透明感は、物質性を欠いているわけでもない。この点では和紙の質感が大きな役割をはたすとして、色彩の透明性とそれをやや沈ませるけばだった肌理とは、分離しうる二項として重ねあわされているのではなさそうだ。いわば紙の上の微細な一点一点で、色と紙の凹凸とがくるみあっているとでもいえるだろうか。ここから、へだたりの定めがたさに加え、油彩等のマティエールとは異なる軽快さや、秋岡美帆の作品に対ししばしば指摘されてきたような、視覚にとどまらない触覚をはじめとする諸官の喚起が生じるのだろう。

 

 秋岡の画面はとりあえず、晩年のモネや抽象表現主義におけるオールオーヴァな空間を受け継いだものと見なしうる。秋岡が1970年代末、制作の手がかりとした<中心視>に対する<周辺視>の概念もまた、抽象表現主義の空間を読み解くためのキーワードの一つとされたことがあった。他方、1970年代にひろまった知覚や制作に対する検証を経た秋岡には、注視を散乱させ環境化しようとする空間を、絵としてただちに実現するわけにはいかなかったのだろうか、その作業にあたって、幾重もの間接的な媒介をはさみこむことになる。写真、次いでNECOによるプリントという二段階に、さらにそれぞれ、間接性をもたらす因子が組みこまれた。写真のモティーフとなったのは1982年5月から94年2月までは大阪府池田市にあった楠で、とりわけ1986年頃からは木漏れ陽や木の影がさす地面が撮られ、三重県青山町の自宅近くの山を撮影の現場とした95年以降も変わらず、現在にいたっている。それらはスローシャッター、アウトフォーカス、多重露光、流し撮りなどで撮影される。次いでフィルムは、NECO(New Enlarging Color Operation 拡大作画機)によって麻紙にプリントされる。これはポジフィルムをスキャナーで読みこみ四色の電気信号に変換、ドラムへセットした支持体に、四本のエアブラシからシアン、マゼンタ、イエロー、ブラックの水性インクを吹きつけるというもの。空気圧の違いやノズルのねじの調節などによってエアブラシから出る色の量を調整し、原稿を再現する。広告写真などで用いられ、秋岡は1979年春から用いてきた。ただ機械の状態その他さまざまな条件ゆえ、再現の精度にはつねに不確定な部分がつきまとうという。

ところで流し撮り等の操作は、写真本来の機能を逸脱するわけではない。ピントの如何にかかわらず、写真において対象は、フレーム内のあらゆる点で等価に、かつ同時に与えられる。秋岡の場合「同時」が伸縮するにせよ、あらゆる点でピンぼけし、ぶれた画面はやはり、写真のあり方の一つを引きだしたものにほかなるまい。またNECOの介在は、写真による色の透明性と和紙の肌理との間を、分解された色点が中間項として媒介していることを意味する。色点と色点との隙間に不連続な裂け目が、少なくとも潜在的には開いているのだ。色と肌理とのくるみあいは、この点に由来すると見なせるかもしれない。

互いに不連続なこれら媒介を経て、画面をみたす、あるいは横切るゆらぎのさまざまな様態が獲得される。1991〜92年頃までは、それと告げられれば木漏れ陽のさす地面と読みとれなくもなかった画面は、以降、再現性をほとんど失なうが、その分、地面と目/カメラとの間で戯れているはずだが通常の視覚ではとらええない、光の乱舞を抽出することとなった。時に流れ、はねかえり、あるいはよどみ、大きな流れともなれば細い線を刻んだり、緩急・乾湿も変化するし、一つの画面内でいくつもの層が重なりあうそれらは、蜃気楼めいた仮幻性をたたえている。現われては消えるのだとすると、そこにはまた、時間の幅が宿されてもいるのだろう。この時間はしかし、一定の速度で一方向に流れるのではなく、滞留したり逆行したり、あるいは分岐したりする。

そして見る目とのへだたりがたえず揺れるとすれば、へだたりが失なわれた時、見る者に触れ、包みこむ空間が生じるとして、見る主体と対象との溶融はそれ自体、安定した着地点の欠落と一如にほかなるまい。観者を抱擁する柔らかさは、深淵へと滑り落ちさせる不安定と相即しているのだ。ゆらぎの変幻だけでなく、イリュージョンとしての時空、麻紙の質感いずれも、最終的な足場ではありえない。建畠晢は秋岡の作品に「不穏の気配」を(『美術手帖』1994.1, p.18)、光田由里は「ほとんど量子的な、過激な世界観」を見てとり(MIHO AKIOKA. Inter Lucem, Gallery H.O.T, 2001)、秋岡自身、「一見、自然との仲睦まじい柔らかな関係を体現しているかに見える私の曖昧な作品群は、恐ろしく攻撃的で侵略的なにおいがする」と記していた(『美術手帖』1992.11, pp.239-238)。それらの相をたとえば、色点と色点との隙間が画面のあらゆる地点に隠れつつ遍在することと呼応しているからだといっては、飛躍に過ぎるだろうか。

今回の個展の構想を語る際秋岡は、「世界の皮膚に触・黷驕vという一句を用いたことがある。かつて秋岡が参照したメルロ=ポンティは<世界の肉>について述べたが、対するに皮膚は、厚みや弾力を備えつつ、あくまで表面、界面あるいは境界として成立する。界面である以上それらは、不連続な他者の臨在を前提としている。他方皮膚が世界の単なる末端でなく、皮膚においてはじめて世界が現成するのだとすれば、世界もまた単数にとどまりえない。ゆえに無時間的な全一性への帰入ではなく、幾度もの、幾重もの邂逅が誘発されることだろう。そしてこれらの接触は、仮の枠である一枚一枚の紙の上に、触感と亀裂を擁した時間の切片として映しとられていく。

(三重県立美術館学芸員)

 

秋岡美帆展図録 2002.6

 

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