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 1 伝統の再発見

明治以降、わが国の美術は西洋的な表現と日本東洋的な表現との間で揺れ動いてきた。たとえば、明治後期の1900年代に横山大観、菱田春草らが試みて朦朧体と評された表現、1910年代後半から20年代にかけて国画創作協会系の日本画家たちが描いたアール・ヌーボー調の絵画等は、西洋の絵画表現を強く意識したものであった。また、多くの画家や彫刻家たちが渡欧した1920年代には、同時期の西洋美術から直接影響を受けた先進的な表現を各分野で見ることができる。

しかし、そうした西洋への強い関心と同時に、日本東洋の伝統的な造形を視野に入れて新しい表現を生み出そうとする動きがあったことを忘れることはできない。たとえば、絵画の世界では、ゴッホやデューラーへの心酔から離れて、中国の宋元画や肉筆浮世絵に強い関心を示した岸田劉生、1920年代に水墨画や南画研究に力を入れた萬鐵五郎、洋画から日本画に転向した小林放菴らがその典型的な例である。彫刻においても、ロダンに対する圧倒的な傾向がある一方で、日本の伝統的な木彫りへの関心が失われることはなかった。

1930年代になると、このように西洋的な表現と日本東洋的な表現との間でなされてきた様々な試みの中に、より成熟した形での日本東洋的なものへの傾斜を見ることができる。

もちろん、本展の他のセクションで扱われるように、この時期にも同時代西洋の美術から直接的影響を受けた造形表現も行われていたが、その表現が以前に比してより先鋭的であるだけに、対極に位置する日本東洋の伝統を意識した造形の存在が鮮明に浮かび上がってくる。 従来から指摘されている洋画の日本化、日本画における新古典主義の問題、彫刻における木彫りの増加、あるいは日本的東洋的主題の採用などは、いずれもこの時期に顕著な「西洋離れ」ともいえる特徴だが、そうしたジャンルを越えて認められる日本東洋的なものへの傾斜は、当時の社会の動向、文化のあり方から見ても興味深い問題である。

世界恐慌の波及による経済不安、1931年の満州事変に始まる中国への侵略、全体主義体制の強化等による国際社会での日本の孤立化等によって渡欧する作家たちが激減し、作家たちも否応なく「国家」を意識せざるをえない社会情勢が生まれたことも無関係ではないだろう。 1910年代から20年代にかけて渡欧し、同時代西洋の作家や作品に接し、西洋的なものを体得して帰国した日本人作家たちが、西洋と日本とのギャップを意識しながら単に西洋の模倣ではない日本固有の表現を確立することに腐心した時代、それが1930年代の一面であった。

(毛利伊知郎)

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