このページではjavascriptを使用しています。JavaScriptが無効なため一部の機能が動作しません。
動作させるためにはJavaScriptを有効にしてください。またはブラウザの機能をご利用ください。

1930年代の日本美術

酒井 哲朗

1.時代的背景

まず、それがどのような時代であったかをみておきたい。1930年代は、1931(昭和6)年に満州事変が勃発し、五・一五事件(1932)、二・二六(1936)事件など軍部のクーデターが相次ぎ、1937(昭和12)年の蘆溝橋事件を契機に日本と中国が全面的な戦争状態にはいって戦火が中国大陸に拡大し、日本の軍国主義の国家体制が強化されていった時代である。満州事変から1941(昭和16)年の日米開戦にいたる10年間は、明治維新以来の富国強兵政策が頂点にさしかかった時代であり、政治、経済、社会、文化など諸分野で、日本の近代国家としての枠組が一応の完成をみた時代、あるいはひとつの帰結を迎えた時代といえるだろう。

1930年は、ウォール街に発した世界恐慌が日本に波及した年である。アメリカ向けに輸出されていた生糸の価格が下落して養蚕農家に打撃を与え、さらに農産物価格が暴落した。キャベツ50個が煙草の「敷島」一箱だったといわれ、1931(昭和6)年には北海道、東北地方は冷害、凶作による農村不況が深刻化した。当時の婦人雑誌『婦人公論』(昭和7年1月号)は、「見よ!惨たり!東北の娘地獄」という見出しで、山形県や秋田県のある村では若い娘が娼婦として売られ“乙女のいない村”が出現していると報じている。疲弊した農村から都市に人口が流入し、不況下の都市では失業者があふれ、労働争議が多発した。『日本近代総合年表』(岩波書店)によれば、1931年は学生・生徒(中学生以上)の「左傾思想事件」は395件、処分991名と頂点に達し、文部省は思想対策に乗り出した。

政府は同年「重要産業統制法」(強制カルテル立法)、中小工業の組織化を強力に推進するために「工業組合法」を制定し、産業界は労働運動対策のために「全国産業団体連合会」を設立するなど、国内には管理と統制の強化によって、対外的には中国大陸に版図を拡大することによって、危機に対処した。1932(昭和7)年には輸出は増加、物価は上昇傾向に転じ、翌1933年に日本の綿布輸出は世界第1位、人絹生産高は世界第2位を記録したが、日本の輸出は諸外国から低賃金によるソーシャル・ダンピングの非難を受けた。この年日本は国際連盟を脱退している。

1932(昭和7)年に入ると左翼思想の弾圧が強化された。3月、日本プロレタリア文化連盟(コップ)の中野重治、蔵原惟人ら400人が検挙され、翌年2月に長野県の教員の一斉検挙、同月20日作家の小林多喜二が築地署で虐殺されるなど、日本全国くまなく徹底的な思想弾圧が行われ、この間多くの左翼知識人が「転向」し、1934(昭和9)年には労働運動もプロレタリア文化運動も壊滅してしまった。

1932(昭和7)年に東京市の人口は、隣接82市町村を合併して20区を加え、497万余人(世界第2位)となり、1930年の約210万人から倍増した。大新聞の発行部数は各100万をこえ、1930年時点の調べでは、講談社の『キング』など9雑誌の毎月の発行部数は270万部に達していたという。1932年にラジオが100万台を突破し、1940(昭和15)年には500万台に達した。大衆消費、大衆娯楽のいわゆる大衆文化の時代であり、「大衆」という言葉そのものが実体のないあいまいなイメージを示すように、マスメディアにのってさまざまな虚構のイメージが社会に流布していく時代となった。

1930年代はじめは都会では「モボ・モガ」の時代で、先端的なファッションの若い男女が都市を闊歩した。1930(昭和5)年に雑誌『モダン日本』が創刊され、川端康成や横光利一らの新感覚派の文学が都市の生態や人間感情を表象した。1931(昭和6)年の『婦人公論』は、中産階級の小住宅の設計や新生活への試案などの特集をたびたび組み、小市民のマイホーム主義への夢をかきたてていた。1930年代のちょうど中間点である1935(昭和10)年についてみれば、この年東京市内のサラリーマンや学生相手の喫茶店やカフェは2万店を数えたといわれ、湘南、須磨、明石の海岸は海水浴で賑わい、東京や大阪でプロ野球がはじまり、ジャズやレヴューが大流行し、バーやダンスホールが繁盛した。

しかし、二・二六事件、蘆溝橋事件以後、時代は急速に軍国調に変わった。1938(昭和13)年綿糸・ガソリン等配給キップ制、1939年物価統制令、白米禁止、パーマネント禁止、米の配給を国家管理とするなど国民生活に対する規制と監視が強まり、1940(昭和15)年には贅沢品禁止令、東京のホールは閉鎖され、「欲しがりません、勝つまでは」の時代がやってくる。1930年代は、都市と農村、貧富の格差、政党と軍部など激しい対立と矛盾が葛藤し、それらのきわだった明と暗、光と影が交錯して時代を彩っており、初めと終わりではその様相が一変している。「社会」や「大衆」といった漠然としたイメージは、戦時体制に向かうなかで「国家」と「国民」に編成されていったのである。

2.美術界の動向

1920年代にクローズアップされた「芸術と社会」という問題は、美術の世界では、新興美術がプロレタリア美術に吸収されていくにしたがって、急速に退潮し芸術至上主義的傾向を強めていった。1932(昭和7)年第5回プロレタリア大美術展を最後に、プロレタリア美術の壊滅後第二次大戦の終了までの日本の近代美術は、社会と積極的にかかわることをやめ、それぞれに固有の美的世界を追求していったといえるだろう。それらは画壇という美術の制度の枠組のなかで展開したのであり、日本の画壇は、美術団体とその団体が主催する展覧会を基軸にして成り立っており、美術家たちは何らかのかたちで団体に帰属した。変質してしまったとはいえ、いまなお存続する団体展という仕組みが完成したのが1930年代である。「芸術と社会」という問題意識は、小野忠重と藤牧義夫らが1932年につくった新版画集団のような画壇の主流から外れたマージナルな部分に辛うじて生きていた。

1930年代の日本画についてみると、帝展の日本画は、鏑木清方、松岡映丘、平福百穂、結城素明、竹内栖鳳、菊池契月、土田麦僊、福田平八郎ら大家は健在で円熟の境地に入り、一方で、新しい世代の画家たちが研究団体をつくり、新しい日本画を模索していた。1934(昭和9)年に松岡映丘門下の山本丘人、杉山寧、浦田正夫、河部貞夫、岡田昇ら5人で結成し、その後高山辰雄、野島青茲らが加わった瑠爽画社であり、それは1941(昭和16)年以降、浦田、岡田、高山、野島によって一采社として継承された。彼らがめざしたのは、写実を根底として現代人の生活感覚を表現する新しい日本画の創造であった。1937(昭和12)年に結城素明、川崎小虎、青木大乗門下の常岡文亀、加藤栄三、東山魁夷、山田申吾らが大日美術院に結集して、日本画の材料や彩色法を研究し、「日本画の青白いファンタジー」(豊田豊「大日美術院オール出品評」『搭影』昭和12年7月号)と呼ばれる洋画的な新しい表現を試みていた。

日本美術院では、小林古径、安田靫彦、前田青邨、速水御舟らはそれぞれに新古典主義といわれる端正な洗練された知的造型の作品世界を創出していた。日本美術院を離脱した川端龍子は青龍社を興して1929(昭和4)年に第1回展を開き、1930年代は会場芸術を唱えて次々と大作を発表し、「健剛なる芸術」をめざしていた。青龍社を離れた落合朗風は、1934年に川口春波とともに明朗美術連盟を結成し、ここに結集した若い画家たちは会派の制約を受けずに比較的自由に制作した。青龍社や明朗美術連盟は、大衆文化の時代における日本画のあり方をそれぞれに示すものであったといえよう。

画壇の現状に批判的であった福田豊四郎、吉岡堅二、小松均ら実力派の3人は、1934(昭和9)年に「山樹社」というグループをつくって展覧会を開き、さらに同志を募って新日本画研究会を結成した。これには岩橋英遠や山岡良文らも加わった。新日本画研究会はさらに発展的に拡大して新美術人協会を設立し、東京府美術館で大規模な公募展を開いた。このなかから戦後創造美術などで活躍する画家たちが現れる。新美術人協会の画家たちは、デフォルメや形体の構成、近代文明を表象するメカニックな風景や心象風景など、いわば日本画のモダニズムを志向した。岩橋と山岡は、新美術人協会に加わらずに新たに歴程美術協会をつくり、シュルレアリスムや抽象絵画を吸収し、最先端の洋画家たちと交流しながら、さらにラディカルな日本画の実験を試みていた。

1930年代の洋画は、帝展、二科会、春陽会、国画会などに属する、藤島武二、牧野虎雄、安井曾太郎、梅原龍三郎らが大家として画壇に確固とした地位を築き、円熟の境地に達した彼らがそれぞれに独自の日本化された洋画を生みだしていた。1930(昭和5)年11月に独立美術協会が結成された。「茲に我々は各々の既成団体より絶縁し獨立美術協會を組織す 以って新時代の美術を獨立せむ事を期す」と宣言し、林重義、林武、伊藤廉、川口軌外、児島善太郎、児島善三郎、三岸好太郎、中山巍、里見勝蔵、清水登之、鈴木亜夫、鈴木保徳、高畠達四郎(ABC順)の10人の名を連ねた。彼らの大部分は1920年代に渡欧してエコール・ド・パリの影響を受け、一九三○年協会に結集した画家たちであり、フォーヴィスムを基調としていた。翌1931(昭和6)年1月に第1回展を開いたが、この展覧会には福沢一郎の滞欧作の特別出品があり、これは日本ではじめての本格的な超現実主義絵画として注目を集め、福沢は会員に迎えられた。

独立美術協会は、「私たちの芸術及び精鋭な新人達の活躍に依って畫壇を少なくとも十年二十年の時を短縮し飛躍させる事を信ずるものであります」(獨立宣言・趣旨)といったが、創立会員たちの「私たちの芸術」は、1930年代なかばになると「独立の新日本主義」といわれるような日本化の傾向を強め、一方、「気鋭の新人達」は福沢一郎を中心に超現実主義や抽象絵画へ傾斜し、協会内部で洋画の土着化とモダニズムの軋轢が激しくなった。やがて、福沢らが美術文化協会を結成(1939年)して分裂した。

1930年代は、都市モダニズムを表象する前衛的な芸術活動も活発であった。1932(昭和7)年に巴里東京新興美術連盟展(東京府美術館)が開かれ、アルプ、エルンスト、ミロ、ダリ、マン・レイら超現実主義系、レジェ、ロート、ザッキンら立体派系、ピュリズムのオザンファン、ドゥースブルフ、トイベルらの新造型主義系などのヨーロッパ新芸術が紹介された。また、1934(昭和9)年に岡本太郎がパリで「アプストラクシオン・クレアシオン」に加わるなど、海外の前衛美術とリアルタイムの交流がはじまっていた。この頃、NINI、一九三○年協会、新造型美術協会、新時代洋画展、飾畫、JAN、黒色洋画展、アニマ、エコール・ド・東京、表現、動向、絵画、絶対象派協会、新浪漫派美術協会など多数の前衛的小集団が現れ、それらが互いに交錯し、1936(昭和11)年にアヴァンギャルド芸術クラブが結成され、やがて抽象系の自由美術協会(1937年)、二科展の九室会(1938年)、超現実主義系の美術文化協会(1939年)に集約されていった。これらの画家のうち戦争を生き延びた画家たちが、戦後の美術の推進力になったことは周知のとおりである。

1935(昭和10)年に松田源治文相によって帝展の改革が試みられた。「松田改組」と呼ばれるもので、日本美術院や二科会など有力な在野団体を一元的に国家に統合する試みであったといえるだろう。在野の大家に事前に了解をとって事を隠密裡に進めたが、この改革案は発表するやいなや画壇に大きな波紋を巻き起こし、それぞれの思惑や利害が錯綜して紛糾し、しかも当事者の松田文相が急死したために頓座した。翌1936年は後任の平生文相によって臨時的な文展が開かれ、1937(昭和12)年に帝国美術院が帝国芸術院と改められ、新文展が発足した。結果として、在野団体の統合は実現せず、従来のまま存続した。かえって、画壇政治と無縁に制作したいという画家たちは既成団体を離れた。二科会と別れた安井曾太郎らの一水会や帝展を離脱した小磯良平や猪熊弦一郎らの新制作派協会などである。

しかし、このことは美術が政治から独立して自由であったということを意味するわけではない。単に、美術行政の一元的な官僚支配に失敗したのであり、むしろ画壇はまるごと国家に対する帰属意識を強めていったといえる。この頃すでに事実として、帝展と在野の区別はなくなっていた。日本画と洋画の垣根も取り払われるようになった。1930(昭和5)年に中村岳陵、福田平八郎、山口蓬春、木村荘八、中川紀元、牧野虎雄らによって六潮会が結成され、1933(昭和8)年には小林古径、土田麦僊、安田靫彦、梅原龍三郎、坂本繁二郎、安井曾太郎、佐藤朝山、高村光太郎らが会員となって清光会ができている。彼らは会派やジャンルをこえて、互いに芸術家として尊敬しつつ一堂に作品を会して展覧会を開いた。この頃、会派間の対立よりも会派内の世代間の対立の方が激しくなっていた。新古典主義といわれる洗練に向かった日本画、日本的洋画といわれる土着化、こういった「絵画の成熟」といわれる事態に対して、そういった美意識や価値観を拒絶して同時代の先鋭な表現を求める若い画家たちのモダニズムとの対立である。

3.絵画の成熟・日本画

清光会や六潮会の作家の大部分は、1910年代にそれぞれの芸術形成をとげた芸術家たちであり、彼らは個性主義芸術といわれた時代の担い手であった。絵画の成熱とは、つまりこれらの画家たちが円熟期に入ったことを意味する。明治維新以来の近代化のなかで、美術の制度はさまざまな矛盾や問題点をはらみながらもそのかたちは一応整ったが、その制度の内実すなわち近代日本の美術そのものの実質をなすとみなされたのが彼らの芸術であった。

1930年代の日本画の顕著な動向として、「新古典主義」的傾向が指摘される。それは主として古径、靫彦、麦僊らの作品についていわれ、新興大和絵の松岡映丘らも含める場合もあり、「新古典主義」の概念に関してさまざまな見解があるが、「新古典主義」的傾向については、歴史的事実として認められているといえよう。

日本画とは、西洋画に対する言葉で、伝統的絵画を西洋の絵画と同等の近代美術として再生することを意味した。近代日本画の歩みは、狩野派や四条派、あるいは近世風俗画や浮世絵の近代化からはじまり、常に西洋画を意識しつつ伝統を再生する試みであった。したがって、近代日本画は、「古典研究」と「自然研究(人間も含めて)」の上に成立してきたといっていいだろう。この場合古典とは、大和絵、琳派、復古大和絵という風な日本固有のものだけではなく、仏画、北画、南画、院体花鳥画などであり、日本画家たちがしばしば『史記』にその主題を求めたように、美術のみならず広く日本文化の源泉となった文学、芸術、思想(仏教、老荘、儒教)などの中国文化、さらには仏教の故郷である印度、西洋の初期ルネッサンスに及ぶ広範なものであった。

このような古典概念は、西洋のギリシャ・ローマを規範としてルネッサンス、新古典主義と展開する西洋世界に普遍的な古典概念とは異なり、東洋世界においてさえ認知されがたい日本固有の古典概念である。それは日本文化のシンクレティズムに由来し、また、日本を東洋文化の貯蔵庫とみなしそれを世界文化として再生するという岡倉天心以来のアジア観なども関係しているのであろうが、古典研究が「新古典主義」に発展するとき、ナショリスティックな意味(イデオロギー)が付着するという側面を見逃すことはできない。

「新古典主義」的傾向は、1930年代の日本画の表現様式上の特徴としていわれている。「肥痩のない一見柔軟にして強靭さを秘めた描線による形体表現」と「濁らない鮮麗温雅な賦彩」(今泉篤男「安田靫彦の作品」『安田靫彦展図録』東京国立近代美術館1976年)、簡潔で明晰な空間構成が形式上の特色であり、「対象の本質的要素を抽出して、決定的な形を見出して様式化する傾向」(岩崎吉一「小茂田青樹と大正の日本画」『小茂田青樹画集』日本経済新聞社1991年)をもつ、知的造型主義である。このような様式において描かれた作品は、必ずしも古典的主題によるものだけではない。たとえば、靫彦の《挿花》(1932年)や古径の《髪》(1931年)、御舟の《花の傍》(1932年)など、新古典主義様式による洗練されたモダンな現代風俗が多数描かれている。

河北倫明は、これらの「近代風の個性、感覚、教養の中に洗練した」知的造型主義による「清純・端正な作風」について、「個性が社会とともに発展した幸福な時代が過ぎ、そこにいつしか離反が萌し、逃避がおこり」、「かつては積極的な幅広い意義をもった、芸術至上主義が、次第に局部的な感覚と技巧の錬磨による狭い自己完成になってしまう」(「近代の日本画−大正期より昭和10年代まで」『近代日本美術全集第2巻』東都文化交易出版1954年)という鋭い指摘をしている。1930年代に、激しく動揺する社会の動向と無関係に、近代日本画が中、上流階層の美意識や生活感情を表象するハイ・カルチュアー(高級芸術)として定着し、それぞれの作家の個人的な成熟や完成が、究極的に叙勲や表彰などの制度のもとに国家に回収されていった。

「新古典主義」には、昭和日本の新たなる「古典」の創出という意味合いがあった。そ・黷ヘ時代や社会を超越した日本美の典型としての新古典である。近代的な造型感覚による装飾化や様式化は、福田平八郎、徳岡神泉、上村松篁ら後続の画家たちによって継承、発展され、近代日本画のひとつの流れを形成していく。しかし、「絵画の成熟」は、平福百穂や村上華岳のように、装飾化や様式化に向かわずに、詩的あるいは宗教的に内向し深化させて、線描と淡彩によるそれぞれに独自の表現世界の構築に向かう場合もあった。

大家たちの新古典主義的成熟に対して、1920年代後半から1930年代にかけて画壇に登場してきた新進画家たちは、西洋の20世紀絵画を意識しながら、現代人の生活感覚を表現する新しい日本画の創造を求めた。さきにのべた山樹社、新日本画研究会、新美術人協会、歴程美術協会に拠った画家たちであり、大日美術協会や瑠爽画社の画家たちである。在野の研究団体は、自由にラディカルな造形的実験を試みたが、この日本画のモダニズムは、アーバニズムだけではなく、他方で福田豊四郎や小松均らのように、土俗的モチーフによって現実の庶民の生活を表象し、人間感情の深層にかたちを与えようとした。

4.絵画の成熟・洋画の日本化

1930年代はすでに60歳をこえた藤島武二が風景画に新境地を拓いていた。「海」や「日の出」のモチーフを求めて、日本国内はもとより遠くモンゴル地方まで足を延ばして写生の旅を続け、自然との深い対話のなかから、《大王岬に打ち寄せる怒濤》(1932年)、《旭日照六合》(1937年)、《耕到天》(1938年)など晩年の円熟を示す数々の風景画の名作を生んだ。簡潔で力強い筆致、単純化された調和感、美しく生気かがやく色彩美が老荘的自在さのうちに絵画化されている。

1930年代は、40歳代に入った梅原龍三郎と安井曾太郎がそれぞれのスタイルを確立し、日本の洋画を代表する存在となった。梅原は、豊潤華麗な色彩と量感豊かな円やかな形体によって豪華絢爛たる装飾的絵画の世界を創造した。ルノアールの影響から出発した梅原が、桃山芸術や琳派など日本の伝統美を融合した表現世界であるが、それは様式の融合や折衷というよりも、京都の友禅問屋に生まれた梅原の血脈のなかに伝わる上方文化の伝統が洋画表現に現れたとでもいうべき、天性の生命感情が横溢した独自の表現世界である。安井曾太郎も、1930年代は1920年代の晦渋な表現様式から離脱して、要約された形体と明快な色彩によって緊密に構成された主観的リアリズムとでもいうべき新しい写実表現の世界を創出した。とくに安井は、肖像画の分野で、対象の本質のみを的確に形象化して特定の人物の属性をこえた普遍的な人間表現の域に高め、絵画として純化した。

藤島武二は、「絵画芸術は単純化ということは最も大切なことと信ずる。複雑なものを簡約化する。如何なる複雑性をも、もつれた糸をほごすように、画家の力で単純化するということが、画面構成の第一義としなければならない」(「藤島武二先生語録」『現代日本美術全集7 青木繁/藤島武二』1972年 集英社)といったが、対象世界を画家の力で単純化するということは、梅原や安井についてもいえることであり、彼らがそれぞれの感性や経験、絵画観などによって、独自の個人様式を創造したのが、洋画の成熱あるいは日本的洋画といわれるものの内実である。

1920年代に「アクション」に参加して前衛芸術運動を経験し、1930(昭和5)年六潮会に加わった中川紀元は、同年の『アトリエ』9月号で、次のように語った。「旧いかも知れないが、僕はやはり『衣食足りて礼節を知る』ことを信じている。美術の如きは広い意味の礼節に包含されるものだ。流行だの美術だのは決して社会の尖瑞を行くものではない。皮相の尖端は行けるかもしれないが社会組織の根底に対しては情けないほど無力なのだ」。「モボ・モガ」とプロレタリア美術の全盛期にいわれた言葉だが、同じ文中で、中川はかつて「アクション」の仲間であった岡本唐貴や矢部友衛に、芸術が大衆に向けた社会革命の武器であるならば、君たちは一品制作の絵画のようなものではなく、写真や印刷などの複製メディアを利用すべきだと呼びかけている。中川の慧眼は、時代の転回点と芸術の運命を鋭く見抜いている。「絵画の成熟」という事態に、中川のような一種の断念があったことものべておきたい。

1934(昭和9)年『みづゑ』5月号で批評家の横川毅一郎は、「造形文化新段階」と題して独立美術協会における東洋主義的傾向を指摘した。翌年の『アトリエ』3月号は、「洋画壇に動く『日本』的傾向の検討」を特集した。『みづゑ』誌上でとりあげられたのは、「独立美術協会指導部」として中山巍、児島善三郎、伊藤廉、林重義、里見勝蔵、須田国太郎、川口軌外、福沢一郎らであり、『アトリエ』は藤田嗣治、木村荘八、川・、中山、伊藤らが寄稿し、独立美術協会の画家たちと先輩の藤田、木村を対置している。横川は『みづゑ』で、この傾向を「国籍無き絵画」の「仏蘭西的感覚から日本的感覚への移行」として評価し、「非常時といふ社会思潮は、必然的な所産として、民族的な意義を再認識せしめた」と、この現象の背景を説明している。

福沢の《ちづかや風景》《江戸の花》や川口の《蓮》は、超現実主義あるいは抽象的構成などの方法上の新しさのなかに東洋的画因をもちこんだものであったが、1920年代にパリで学んだ画家たちの日本回帰、フォーヴィスムの土着化という現象が1930年代にはじまった。こういった洋画の日本化という傾向のなかで注目されるのは、児島善三郎と須田国太郎である。児島は独立美術協会の発足にあたって、「独立」は二科会からの独立だけではなく、フランス美術からの独立をも意味するのだとその抱負を語ったが、この頃、琳派や南画をとりいれた独特の装飾的様式を創出し、自由闊達に日本の自然を表現しはじめた。

1930年代にすでに40歳に達していた須田は、1932(昭和7)年に銀座資生堂で個展を開いて注目され、同年独立美術協会に迎えられた。それまで須田は美術史家としての学究生活と絵画制作を両立させ、西洋美術に対する深い学識に基づいて、実技の上でも模写を通じて西洋の近代絵画を淵源に遡及して研究していた。日本の洋画を、根をもたない「切花的移植」と考えた須田は、明暗を基調にした微妙な深い色彩の階調と単純化した形体の堅固な構成によって日本の風物を描き、深沈として重厚な独自の絵画世界を構築した。

このように1930年代の洋画の成熱といわれる現象には、さまざまな位相がある。それらの背景には、横川のいうように「民族文化の自覚」が声高にいわれはじめた時代思潮があった。同じ頃、海老原喜之助や鳥海青児、長谷川利行ら後続の画家たちは、新しい造形感覚でそれぞれに個性的な絵画世界を追求しており、一方、小磯良平、猪熊弦一郎、中西利雄ら新制作協会の画家たちは新鮮な都会的感覚の具象絵画を追求しており、1930年代の洋画は多様な展開をみせている。

他方、洋画の日本化といわれる風潮に対して、モダニズム志向の画家たちは、それを退行的現象として鋭く対立した。1930年代の洋画は、日本化あるいは土着化の傾向とモダニズムの対立が基軸になっていたといえよう。大別すれば、福沢一郎らの美術文化協会系の超現実主義と長谷川三郎、村井正誠ら自由美術系の抽象絵画、それに吉原治良、山口長男ら二科会九室会が中心となっていた。これら1930年代の日本の前衛的絵画は、靉光の《眼のある風景》(1936年)のような暗い時代を予兆する作品もあったが、全体としてみれば、モダンで明快な造形感覚が特色であったといえよう。1920年代の新興美術と断絶した1930年代の日本のモダニズム絵画は、ダダを経験したヨーロッパのシュルレアリスムが内包する先鋭な政治性は脱色され、近代的な造形性がきわだつ。青年画家たちの内向した不安な心情が表現されるのは、1940年代にはいってからである。1930年代の日本絵画は、日本画も洋画も含めて、時代の暗い影をよそに最盛期を迎えていたといえる。

5.工芸・デザイン・写真・建築

工芸、デザイン、写真、建築など純粋美術に対して応用美術といわれる表現領域は、現実生活と直接かかわるだけに、都市化や大衆化といった社会の状況を直接に反映する。1927(昭和2)年に帝展工芸部が設置され、近代美術の世界に市民権を得た美術的工芸は、鑑賞的側面を強化して純粋美術を志向した。1930年代の工芸界で注目されるのは、桃山期の茶陶の近代的再生を通じて、それぞれの作品の世界を創った荒川豊蔵、川喜田半泥子、加藤唐九郎、金重陶陽、小山冨士夫、石黒宗麿、それに北大路魯山人らである。彼らは互いに交流しながら個性的な近代陶芸の新しい分野を開いた。

1935(昭和10)年に高村豊周らが帝展工芸部を離脱して実在工芸会を結成した。装飾過多の鑑賞用でしかない美術的工芸に対し、生活のための工芸すなわち「用即美」を主張した。彼らは1926(大正15)年に工芸家の技術至上主義を批判して、型に縛られない工芸をめざして「无型」に結集したが、1933(昭和8)年にこれを解散して新たなグループを創設したのである。彼らは分業製作方式を導入したが、それは彼らの作家性を否定するものではなく、協同製作によって実用に即した形態美を生みだす過程に、より高次の個性や創造性を求めたのである。

無名の工人の手仕事に美を見いだした柳宗悦らの民芸運動は、1930年代には古い民芸品の収集や手仕事の保存を各地で精力的に行う一方、河井寛次郎、濱田庄司、芹澤_介らが独自の作風を確立して、作家として国内外の高い評価を受けるようになった。工人たちの規範になるべきこれらの民芸作家たちが、伝統と近代性を兼ね備えたその作家性がクローズアップされ、日本を代表する工芸家の位置を占めたのである。この頃、富本憲吉は、民芸運動を離れてモダニズムに接近していた。

1928(昭和3)年に仙台に国立工芸試験所が設立された。東北地方の産業振興の名目で「産業工芸」をめざしたが、実質は伝統的な手工業を合理化、量産化することによって、輸出振興に結びつけようとするものであった。この工芸試験所に1933(昭和8)年にブルーノ・タウトが招聘され、わずか数ヶ月の短い任期であったが、この間に日本の工業デザインにとって貴重な貢献をした。タウトは、椅子、照明器具、把手などの新しい生活用具を対象に、アルミニウム、ステンレス、プラスチックなどの新材料を大胆にとりいれ、ドイツ工作連盟の指導理念であった「規範原型muster model」という考え方を導入し、量産のための実験モデルを試作した。また、ここから剣持勇のようなすぐれたデザイナーが現れた。

工芸試験所の設置は国の産業合理化政策の一環であったが、同じ年に東京高等工芸学校講師の蔵田周忠を中心に同校出身者によるデザイナー集団型而工房が生まれた。1932(昭和7)年に開かれた型而工房展示会の趣意書は、「型而工房はリアルな大衆生活に結び付いて、科学と経済によって吾々の時代の生活工芸の研究製作をなすものである。常にそれらは生活事象及材料、構造の調査研究の結果と、市場とを結び付けた大量生産の具象化を目標とするものである」という。型而工房の「生産」と「生活」の合理化は、「標準規格」化されたものづくりというかたちで「具象化」された。蔵田は、ドイツ工作連盟やバウハウスのデザイン思想の影響を強く受けていたが、1931(昭和6)年に川喜多煉七郎が設立した新建築工芸学院は、バウハウスの教育方法に基づいた造形教育の専門学校であった。ここで学んだ学生のなかに亀倉雄策や桑沢洋子、勅使河原蒼風らがいた。

型而工房の合理主義デザインは、工芸試験所の産業合理化政策と歩調を合わせた国策にそうもので、「生産」や「生活」の合理化は、私的な生活が「国民」として「国家」に従属した1930年代においては、個々の国民が生活を合理化することは、国家経済を建て直し国力を強化することに直結した。日中戦争がはじまると、1938(昭和13)年に国家総動員法が制定され、この法に基づく「各種材料使用禁止または制限令」によって、銅、鉄、ゴム、皮革などの資材統制が行われた。資材不足は戦争の経過とともにさらに深刻になり、産業デザインは、代用品の開発や戦時規格に基づく生活合理化運動などに明確に目的化された。

1930年代に「商業美術」という用語が一般化した。山名文夫は、1932年に平凡社の『大百科事典』に「商業美術」の用語が掲載されて、ようやくこの造語が公認されたと回想している(『体験的デザイン史』)。1930年代初頭の「モボ・モガ」の風俗の背後に、化粧、ファッション、映画など、彼らの憧れるライフ・スタイルを反映する広告イメージとそれを演出する商業美術家の存在があった。1929(昭和4)年に資生堂宣伝部に入社した山名文夫は資生堂スタイルといわれる繊細優美な広告イメージを生みだし、日本毛織(ニッケ)の奥山儀八郎は、木版による広告版画で斬新な都会的イメージで人気を博した。松竹キネマ本社宣伝部の河野鷹思と浅草日活系封切館富士館宣伝部の水島良成は映画ポスターの双璧といわれ、河野は印刷技術(工程)を最大限に利用した簡潔な構成美ともいうべき瀟酒な作風によって、水島は極端に単純化した自由奔放な表現によって、それぞれ時代のイメージをつくった。

新興写真は1930年頃がピークだった。小石清、金丸重嶺、中山岩太、井深徴らは、ロシア・アヴァンギャルドやバウハウスの構成主義、ダダイズムやシュルレアリスムなどが生みだしたフォトグラム、ソラリゼーション、フォト・モンタージュなどさまざまな表現技法を援用した。新興写真の造形方法は、杉浦非水以後のグラフィック・デザイナーたちにとって、基本的な表現技術としてとりいれられていった。

1932年5月から翌年の12月まで12冊発行された月刊写真雑誌『光畫』は、大衆社会、消費社会に変貌した都市のイメージを鮮明に表現するものだった。野島康三、木村伊兵衛、飯田幸次郎、佐久間兵衛、中山岩太、ハナヤ勘兵衛らの斬新な作品、さらに伊奈信男、室田庫造、中井正一らの写真論をはじめ、海外の先端的な理論や作例を意欲的に掲載し、広告写真や報道写真も取り上げている。『光畫』のモダニズムは、先鋭であったがゆえに早々に挫折したが、それはまた新興写真の挫折でもあった。新興写真は、より新しい時代の気分を表した木村伊兵衛や名取洋之介、土門拳らのリアリズム写真にとってかわられる。リアリズム写真は、グラフィック・デザインと結合して広告の商品イメージと結びつくことによって、鮮明に時代の気分を表象した。

1930年代のグラフィズムを典型的に示すのは、日本工房が4カ国語で発行した雑誌『NIPPON』である。日本工房は、名取洋之助を中心に木村伊兵衛、原弘、伊奈信男、岡田桑三が集まり、土門拳、太田英茂、藤本四八、山名文夫、河野鷹思、信田富夫、亀倉雄策、高橋錦吉、三木淳らのグラフィック・デザイナーや写真家が参加した。この対外文化宣伝誌は、写真、イラスト、文字、記号などの要素を組み合わせて視覚効果をあげる「モダン・デザイン」と呼ばれる新しい感性によるエディトリアル・デザインのはじまりであり、同時にモダン・デザインが国家に統合されていく見事な実例でもあった。

1930年代の日本建築は、宮内康(「建築の一九三○年代」『悲喜劇・一九三○年代の建築と文化』同時代建築研究会編1981年)によれば、合理主義様式、帝冠様式、日本回帰様式、明治以来の折衷主義という四つの様式が共存したという。合理主義様式は、逓信省や鉄道省、東京市などの局舎、駅舎、学校、同潤会建設部のアパートなど官公庁営繕機構による機能主義的建築と堀口捨己、土浦亀城、山口文象らの「白い家」と呼ばれた陸屋根木構造のモルタル住宅。帝冠様式は、名古屋市庁舎、軍人会館、東京帝室博物館など、無装飾の機能主義建築に対して、東洋風の意匠による荘重な権威主義的建築である。建築の日本回帰といわれる現象は、吉田五十八、村野藤吾、堀口捨己らの数寄屋造り、山口文象、谷口吉郎らの書院造りや民家の再生である。

「白い家」について、宮内は構造と無縁に国際様式をデザインとしてとりいれた点に一種の創造性を認めているが、ここにはモダニズムの日本的変容がみられる。帝冠様式のグロテスクなモニュメンタリティもまた近代建築の日本的変容であり、一方、数寄屋や民家の伝統への回帰はモダニズムの帰結であり、それぞれヴェクトルは異なっても1930年代の建築の状況には伝統と近代性が交錯している。それはすでにみてきたように、1930年代の造形表現のあらゆる分野に共通してみられる現象であった。

(三重県立美術館長)

ページのトップへ戻る