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1920年代洋画家の内的な「必然性」とその表現
−萬鐵五郎、安井曾太郎、梅原龍三郎を中心に


田中 善明

1920年代の洋画の幕開けは、1910年代ほど劇的でない。あえて、ここで1920年代のはじまりを10年代と区別しようとしても、たとえば未来派美術協会が設立し、ロシアからはブルリューク、パリモフが来日したことで新興美術運動が広く紹介されたということや院展の洋画部が解散したことなど、それほど多くの事件は見あたらない。1920年が未来派や立体派など新興美術運動の元年と言うわけでもなく、そうした前衛的な動きはすでに1910年代のはじめに素地がつくられている。やはり洋画の場合は、1910年あたりから関東大震災が発生した1923年あたりまでをひとつの区切りとする従来の考え方を揺るがすことはできそうもない。ただ、1910年代と1920年代とではあきらかに世代交代があり、美術界の質と状況が変化していることはたしかである。

1910年代は、印象派以後のヨーロッパの新しい展開が一挙に日本へ紹介される。当時の洋画家はセザンヌやゴッホといった画家が描いた、それまでにない表現に共感し、ここに自分たちの表現の可能性を託して作品に取り込んでいった。その傾倒ぶりは多くの模倣的作品を生みだしたが、彼らは表現方法だけではなく、ゴッホらの芸術に対する真剣な取り組みと生きざま、画家自身の生命を発現させる制作態度にも共鳴し、この時期の洋画家たちは独自の絵画を模索しはじめた。

1920年代に入り、美術の分野では、欧米の新しい美術の動きが1910年代と比べものにならないほど速やかに、時を同じくして入ってきた。10年代の画家たちが見聞きした西洋の新情報は、おもに『白樺』などの美術雑誌や輸入した画集によっていたのが、20年代になると、中央美術社や新聞社が主催する泰西名画展や、二科展などの外国作家の特別陳列で当時の西洋美術の動向を実作品で確かめることができるようになった。一方で、ヨーロッパやアメリカに留学する画家も10年代とは比べものにならないほどに増えた。画家をとりまく社会の状況も、第一次世界大戦やロシア革命といった事件により、旧世界の解体と戦後恐慌、近代の合理化が進行しつつあり、そうした世相と対応して日本の前衛的な作家は既成美術を解体し、再構成を試みた。

こうした多くの情報と社会の変動を迎えた状況のなか、それでも洋画家の何人かは1910年前後からようやく本格的にはじまったといえる自己実現のための洋画表現の問題と向き合っていた。いや、むしろ西洋の動向を同時的に受け入れるようになった20年代という時代状況にあったため、日本人画家として自己の内部で必然性をもった表現とは何であるのかを一層強く意識したのかもしれない。ここでは特に、1910年代に西洋絵画の新表現の洗礼を受け、1920年代においても先導者となった画家たちが、一層強く意識した「内的必然性」のそれぞれの所在と、それを如何にして作品にしていったのかを追ってみたい。

カンディンスキーは、1912年に出版した『芸術における精神的なものについて』という著書のなかで、すでに「内的必然性」あるいは「内面的価値の原理」などの言葉をつかっている(1)。彼の理論や、彼をとりまく表現主義美術は、後期印象派の強い影響下にあった1910年代の洋画家のあいだで区別して消化されたわけではないが、その精神と表現は後期印象派以降の美術と交錯しながら浸透していく。だが、この頃新しい西洋美術の洗礼を受けた洋画家たちには、こうした作品や理論の上にもう一つのハードルが待ちかまえていた。日本の風土のなかで、洋画家は外来の油絵具を使って表現することに内的必然性をもち得ることを証明しなくてはならなかった。その点、西洋圏にいたカンディンスキーよりも事情がより複雑であったといえる。


1910年代のはじめから印象派や未来派、キュビスムなど外来の手法をつぎつぎと取り入れ、自己の作品のなかで実験を重ねた萬鐵五郎は、『みづゑ』1923年6月号に「自分の考を言ふ」と題した文章を載せていて、ここに「内的必然性」という言葉を見いだすことができる。「絵画が芸術となり得るにはどうしても内面的」にならなくてはならず、画家はその一筆に人格をあらわし、「筆触々々の間に内的必然性を証明する事が出来れば人間を進める事が出来る筈」(同上)だと述べている。この文章以前の1915年に書かれた文章では「我々の生活は客観対自己の問題に始まらなければならない。自己プラス客観は天然そのものであり、宇宙である。けれども視覚及内観上の進化は必然自己即客観の境地を見出ださずにはやまない。」、そして、「客観の実在性」と「内面の情熱」との苦しい戦いの生活を余儀なくされていると述べている(2)


萬のこの信念・理論がカンディンスキーの理論に影響を受けているその経緯と、双方の理論の違いについては有川氏の論文に詳しく書かれている(3)。萬の画風は20年代に入っても変化していくが、基本的な姿勢は1910年代と20年代を通して一貫している。今回出品の《男》は、多角的視点から人物を捉え二次元の平面に落としこむキュビスムの手法が全体に行き渡り、顔や胸はピカソらが取り入れたアフリカ彫刻の表現を混在させているように見える。この作品が、実際のモデルを前に制作しておらず、1914(大正3)年に描かれた同題の油絵《男》と同年制作の版画《男》を再構成したことはすでに指摘されているところである。それにしても、1910年代ですでに実験済みのこうした手法を何故また実践してみせる必要があったのであろうか。この制作の動機ははっきりしないが、萬自身のなかに前述の「筆触々々の間に内的必然性」を証明できる何かがこの手法に潜んでいたのではないかと思われる。《男》が制作された翌年に萬は《水着姿》という作品を生み出した。色彩が一挙に明るくなったことも驚きであるが、キャンバス上での立体と平面のせめぎ合いのなかで、画面のいずれの部分もおそらく納得できた作品であろう。


1910年代にヨーロッパで直に西洋の空気を味わい、1920年代に入っても自己の必然性を求めて難渋していた作家として、すぐに思い浮かべるのは安井曾太郎と梅原龍三郎である。彼らは、今日評価されているそれぞれの様式が確立するまでの低迷期を、ともにこの時代に過した。


安井曾太郎の1920年代は、まさに模索の時代であったといえる。彼は、1907(明治40)年フランスに留学、ジャン・ポール・ローランスのもとでアカデミックな写実表現を3年間学び、その後はセザンヌらの手法を研究し1914(大正3)年、第一次世界大戦の勃発とともに帰国する。1915年、創立間もない第2回二科展で安井は滞欧作44点を特別陳列し、一躍有名になった。帰国してからの安井は、体調がすぐれなかったことや生家の経済上のゆきづまりなど外的な要因もあり、周囲の期待をよそに制作は行き詰まってしまった。だが制作の低迷は、なにより日本の風土が安井の制作とうまくかみ合わなかったことが大きな原因であった。


安井曾太郎が自己の様式を確立したのは1929(昭和4)年の《座像》からだと言われる。ちょうど帰国してから15年の歳月が流れているわけである。模索した前半期の作品は、セザンヌ的構成画を試みたり、風景画では浅井忠の研究所で学んでいたころの描き方に近い、鬱蒼とした山野の木々をくまなく描写しているものもある。後半期においても、静物画は湿気を感じさせるような、線を殺した表現を試みている。しかし、1922(大正11)年頃の後半期に及んで、安井の様式確立に直接結びつく実験が同時に始まっている。この時期、安井は対象を大きく明色、中間色、暗色の3段階で掴み、造型の骨格だけを残した。一方、それぞれ固有の色彩はその明度を保ちながらモノトーンに近い色へと置き換えられた。こうした例は風景画における木の把握の仕方や、今回出品の《女立像》をみても明らかである。ここで先ほどの「内的必然性」の問題に立ち返ってみると、安井の場合は彼が獲得した造型の骨組みを捨て去るどころか、一層そこに重点を置く。「写実」という文章のなかで(4)、安井は色及び線はできる限り整理したあと「必然的に配置」し、描画中にできた「偶然の効果はこれを取らず、趣味と病的感情を排し」と、あくまで本人の必然性をもって隅々まで描くことを強調している。安井は、1920年代の余分な要素を取り払うことをとおして自己の必然性と方向を見いだしたといえよう。


梅原龍三郎は、安井よりも低迷の時期が長かったといわれる。梅原も安井と同様、浅井忠が開いた聖護院洋画研究所で学習したのち1908(明治41)年フランスに留学、同じアカデミー・ジュリアンに通い、バッセのもとで学んだ。梅原がルノワールと出会ったのは1909(明治42)年である。その後、ルノワールのアトリエにしばしば出かけ、彼の解き放たれた色彩感覚と芸術観を学び、その後の梅原の展開はルノワール抜きには考えられないものとなった。1913年の《ナルシス》を見ても、透明色を自などの不透明色と画面上で混ぜ合わせながら仕上げていく方法はルノワールの技法そのものであり、その傾倒の度合いが伺える。その後スペイン、イタリアヘと旅行しエル・グレコやティツィアーノ、ポンペイの壁画にも感動し、1913(大正2)年に帰国する。日本に帰ると、故国への言いがたい懐かしさとその風物への新鮮な感動がある一方で(5)、日本での環境で如何に自己の表現をしていくかという問題に直面する。この時期の梅原は二科展に出すはずの《臥裸婦》が仕上がらなかったり、神話的構成をこころみた作品が失敗に終わったりと納得いく作品がなかなか出来なかったようである。そうした中、1917(大正6〉年に描かれた《熱海風景》という作品では、ルノワール風の豊潤な色彩表現から離れて自然のもつ造型の力強さを意識して絵をつくっている。しかし、この作品には筆の勢いがなく、必ずしも成功したとはいえない。山本鼎が大正6年9月15日付『時事新報』の二科評でこの作品について言及しなかったことを梅原は憤慨しているが、やむを得ないことである。


梅原は帰国に際し、2、3年後ふたたび渡欧することをルノワールと約束したが、実際には7年後になり、ルノワールは1年前に亡くなってしまった。第二の渡欧では、ルノワールの親族を訪ね、再びナポリで風景を描いた。約1年のヨーロッパ滞在中描いた作品のなかには、ルノワールの作風に立ち返ったものがある。第一の師であるルノワールへの傾倒が披の死により増幅されたためであろうか、描く対象の造型的骨格を一旦捨ててしまったことは帰国後の模索の期間を長くしてしまった大きな原因かもしれない。


1920年代に入ってからの梅原は、春陽会、国画創作協会などに出品を続ける。一方、岸田劉生とも知り合い、東洋の伝統美術を一層意識し、浮世絵からは線の生かし方や面的捉え方を取り入れ、桃山美術や宗達からは作品の絢爛さ壮大さを学んだ。この時期の作品は、特に風景の場合ルノワールの手法から抜け出ていない例もあるが、人物像では強い輪郭線を基調に、色彩は朱や臙脂(えんじ)といった日本の伝統色を用いるようになった。


土方定一は梅原の作品が、《竹窓裸婦》(1937年)や《裸婦扇》(1938年)で「いつのまにかフランス絵画の伝統から日本画の伝統の世界に、その絵画的直感から、当然のことであるが、マティエルにいたるまで、移行している」(6)という。多くの論文でも梅原の成熟期は1934(昭和9)年あたりから区分されている。たしかに、風景においても人物像においても一貫した表現や姿勢を持ちはじめるのはこのあたりである。一時期強調された輪郭線は単純な面の区切りではなく、輪郭線をもちいたほうが効果の上がるところと、互いの色面どうしをくっつけたほうがよいところ、またルノワールのように対象物の色を輪郭部分で解放するところをそれぞれ描き分けている。梅原の作品の特色はこれだけではないけれども、梅原の「一筆一筆味つて自分の眼に見える美しさを出来るだけしつかりと現」わすという言葉は(7)、言い換えれば、対象となるものの色彩やかたちが梅原の感性のなかで内的にも必然性を持ち得るのかどうかを確かめる苛酷な作業を意味しているようだ。


ここに挙げた三人の画家は、それぞれ別の画歴と独自の表現方法をもっている。しかし、共通して言えるのは、いずれの場合も実在する物をとらえる訓練を十分に積んでから固有の表現を展開していったということである。自己の様式を確立するには時間を要する。そこに行き着くまでの模索の時期は作品の出来映えにも当然波がある。この三人の画家を見渡せば、こうした時期を乗りこえるために、それまで培った技術が少なからず手助けをしているように思われる。ちなみに、1920年代にすぐさま新しい美術運動に飛びつき発表した次の世代の多くに対して、萬は「もう少し落ち付いてもいゝだろうと思つてゐます。」といい(8)、安井は「全体にどうも真面目な作品が少い」といい(9)、梅原は「画く術を知る前に如何に画を見せるかを考へる人々許りの気がします。」と(10)、外づらの表現に対して警鐘を鳴らしている。


(三重県立美術館学芸員)

註記

1.西田秀穂訳『カンディンスキー著作集1 芸術における精神的なもの』1979年 美術出版社 p.137、p.147を参照。


2.「七光会に出した繪其他」『岩手毎日新聞』1915年7月4日


3.有川幾夫「萬鐵五郎と表現主義」『生誕百年記念 萬鐵五郎展』図録1985年


4.安井曾太郎「写実」『アトリエ』第8巻第9号 1931年9月


5.東京国立近代美術館、京都国立近代美術館『梅原龍三郎遺作展』図録 1988年 p.69を参照。


6.土方定一「梅原龍三郎、安井曾太郎自選展」『みづゑ』524 1949年7月


7.梅原龍三郎「二科評U」『明星』第7巻第4号 1925年10月


8.萬鐵五郎「菊坂研究所の思出」『みづゑ』247 1925年9月


9.安井曾太郎「中展洋画鑑査感」『中央美術』第十一巻第六号 大正14年6月


10.梅原龍三郎「二科評U」『明星』第7巻第4号 1925年10月

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