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〈聴竹居〉という住宅


桑名 麻理

京都の大山崎といえば、羽柴秀吉と明智光秀が戦った山崎の合戦の地であり、千利休の待庵を有する地でもある。京都−大阪間の交通の要所であるこの大山崎の天王山の麓に、1927(昭和2)年に建てられ、当時の姿をとどめながら現存する一軒の住宅がある。〈聴竹居〉と呼ばれている。またの名を第五回実験住宅という。実験住宅とは奇妙な名だが、この住宅は、建築家であり京都帝国大学建築学科の教授でもあった藤井厚二の自邸である。また、実験という文字通り、藤井は自らにモニターとしての役割を課し、自邸を住宅建築研究の対象としていた。そして、この実験は合計五回にもわたって繰り返されたのである

1920(大正9)年、藤井は天王山の麓に約1万坪の土地を購入し、そこに第二回実験住宅(第一回は神戸の石屋川に建てられた)を建てた。それからほぼ二年ごとに1927(昭和2)年の第五回まで自邸の建て替えが繰り返されたのだが、一見奇妙なこのマニア的な行動は、建築家の奇行でもなければ道楽でもない。確かに、藤井は購入した土地の中に窯をつくり、瓦からタイル、器までを納得するまで焼いていたのだから、マニア的な気質がなかったとは言い難い。また、裕福な家の次男として生まれ、ドイツ車オペルで大学に適い、祇園で遊びに興じることもあったことから、道楽家としての条件も兼ね備えていた。自邸を五回も建てるなどこうした資質・財力がなければ不可能に近いことである。しかし、この度重なる自邸の建築は、あくまでも純粋なる住宅研究に捧げられたものだった。明治末に始まり1920年代においてその頂点に達した住宅問題、特に中流住宅の問題に対しての藤井の誠実な解答だったのである。

社会問題としての住宅

1920年代の住宅問題とは具体的にどのようなものだったのか。それには明治からの流れを振り返ってみる必要がある。

明治期に上流階級を中心に日本に取り入れられた西洋文化。洋服を着て、椅子に腰掛け、洋館で生活するというスタイルをもたらした。人々は西洋文化を信奉するあまり、生活スタイルも西洋風に一変しようとしたが、現実はそうはいかない。和服を着て、畳に坐す伝統的な生活スタイルを容易に捨てられるはずはなかった。西洋建築を模倣した洋館とて、実際の日本人の生活には合わなかったのである。洋館は接客専用として使われ、日常生活は隣接して建てられた和館にて営まれた。和館、洋館の併存は、和式、洋式の生活スタイルという二重生活を強いる一方で、洋館の存在は上流の誇らしいシンボルとなった。

大正期に入り、都市に新しい生活を求めて人が集中するようになると、都市生活者である新中間層の住宅不足が深刻な社会問題となった。また、西洋の知識が本格的に流入し教養人が現れるようになると、彼らを中心に生活改善の気運が高まっていった。住宅改良もそうした流れの中にあった。

住宅改良の根底には、中間層の上流生活へのあこがれがある。彼らは、上流の人々が実現させていた西洋風の生活スタイルや洋館にあこがれ、洋館、和館を両方とも構える経済力はなくとも、何とか自分たちの住まいを洋風化しようと考えた。ここに、和洋折衷の中流住宅の歴史が始まったのである。

中流住宅の改良は、官、民の関わる大きな社会運動だった。この動きは、1920年代の前半にピークに達する。1920(大正9)年に政府の外郭団体である生活改善同盟会が発足。翌年、その内部に設置された住宅改善調査委員会(東京帝国大学の教授である構造学の権威、佐野利器を委員長として、今和次郎など名だたる建築関係者によって結成されされていた)が「住宅改善六大綱領」を発表している。・椅子座の積極的な導入、・部屋の構成における接客本位から家族本位への転換、・衛生、防災の重視など、洋風の生活スタイルを推奨する内容であった。また、輸入住宅を扱っていたあめりか屋の創立者橋口信助による住宅改良会の活動も、生活改善同盟会に先んじて行われていた。こうした諸処の活動は、1922(大正11)年の平和記念東京博覧会、それから半年後の大阪、箕面における住宅改造博覧会において一通りの成果をみることになる。平和博では日本建築学会の後援で生活改善同盟会やあめりか屋などから14戸の中流住宅のモデルハウスが、日本建築協会後援の箕面の住宅改造博では、あめりか屋、竹中工務店、大林組などによる25戸の中流住宅モデルハウスが展示されたのである。これによって、住宅専門家による住宅改良の解答が一般に向けて提出されたのだった。 中流住宅の改良に携わる人々の大問題は、日本人が新しく取り込みつつある西洋風の生活スタイルをいかにして住宅に反映させるかであった。従来の生活を完全に捨て去ることのできない日本人の生活の中で、洋風、和風をいかにして折衷するかの苦労の歴史がそこにある。こうした和洋折衷住宅への関心はこの頃登場した住宅作家といわれる建築家たちにとっても共通で、住宅作家の先駆けである保岡勝也、あめりか屋の山本拙郎、ライトの弟子の遠藤新、健康住宅を提唱した山田醇など、それぞれが試行錯誤の末に解答を見出している。今でこそヴァナキュラーな建築へのまなざしは当然のごとくであるが、当時、私的な空間である住宅を好んで設計することは、建築家としてはアウトサイダー的な存在だった。そして、ここに一生のほとんどを住宅建築に捧げたもう一人の住宅作家がいる。藤井厚二である。

藤井厚二

藤井厚二は、1888(明治21)年に広島県福山市の酒造家の次男として生まれた。1913(大正2)年に東京帝国大学建築学科を卒業。竹中工務店に就職し、1919(大正8)年まで勤めている。そして、1920(大正9)年、武田五一に請われ、創設されたばかりの京都帝国大学建築学科で建築学を教えるようになる。

京大で藤井が受け持った授業は、建築環境工学、住宅論、設計演習などである。授業の題目から、藤井が京大に移る頃にはすでに住宅に特別な関心を抱くようになっていたことがうかがえる。事実、竹中時代を別として、京大就職後の藤井は主として住宅建築しか行っていない。

こうした住宅建築への専心は、藤井を京大に招いた武田五一との出会いがきっかけだろう。武田五一は住宅改良会の顧問でもあり、自ら住宅に関心を持つ建築家の一人であった。そして、京大に移る直前の藤井の欧州旅行は武田の助言があったとされている(1)。藤井はこの旅行によって建築環境工学への関心をもったのだが、この環境工学こそが、藤井の住宅論を支えることになる。住環境という根本的な視点からのアプローチは当時としては画期的なことであり、藤井は環境工学を生かして日本の住宅を改良しようとしていた最初の建築家の一人だった(2)


彼の住宅論は、1928(昭和3)年に刊行された著書『日本の住宅』にまとめられている。執筆は、第五回実験住宅〈聴竹居〉の建築中に行われた。住宅研究の結論が、理論的にはこの著書において、実践では第五回実験住宅においてかたちとなったのである。理論、実践にわたる研究姿勢からは、机上の空論を嫌悪した藤井の几帳面さが感じられる。また、第五回実験住宅に関しては、1929(昭和4)年に『聴竹居図案集』が刊行されている。これは、藤井が五回目に建てた自邸を個性や趣味の表現としてではなく、普遍的な理想モデルとして考えていたことを意味している。

主要参考文献

(1)内田青蔵『日本の近代住宅』鹿島出版会 1992年


2)藤岡洋保編著『新しい住宅を求めて−近代の住宅をつくった建築家たち』KBI出版 1992年

『日本の住宅』

『日本の住宅』では、理想の住宅像をどのような方法論で論じているのか。端的に言えば、環境工学が彼の理論を支えるすべてである。「緒言」、「和風住宅と洋風住宅」、「気候」、「設備」、「夏の設備」、「趣味」の六つの章だてからなる。「緒言」は社会的状況を踏まえたうえでの住宅建築の位置を慧眼な視点で述べている。「…個人主義、實利主義等の発達して来た今日では、住宅建築が建築上頗る重大なる地位を占むるに至りました。近時の思想から之を見ると、何れの國でも、其の國の建築を代表するものは住宅建築であると云つて差支ありません」(3)。そして、「…我國に於ける住宅問題は諸外国に於けるそれとは梢″趣を異にして、其の内容は極めて複雑です。生活の根底すら同様を来し、未だ確定しないで、國民は歸趨する所に迷つて居ります。故に之が解決は國民生活上の一大要点となりました」(3)。そして、日本の文化が欧米の文化を盲従して模倣の域をでないこと、忠実な模倣による住宅は理想からはほど遠く見当違いであることを指摘している。彼によれば、住宅建築は、歴史、人情、風俗、習慣、気候風土と密接に関係するものであり、従って、欧米とは全く異なる環境の日本は、模倣だけでは解決しないのである。「…故に、吾々は我國固有の環境に調和し、其の生活に適應すべき眞の日本文化住宅を創成せねばなりません」(3)。さらに、現状への不満として「…従って此の問題に就いて論ずる人々は澤山ありますが、多くは机上の空論に終わつて其の真髄に觸るゝものは甚だ稀で、吾々は五里霧中を彷徨せるの感があります」(3)と述べている。こうして「…解決の一助として、建築學上より實験的に或は理論的に考察して、吾々の生活に適合すべき住宅について説いてみよう思ひます」(3)と藤井は決意を述べるのである。



(3)藤井厚二『日本の住宅』岩波書店 1928年

この後の住宅論の運びは非常に明快である。まず、「和風住宅と洋風住宅」の章において、和風と洋風の言葉の定義付け、それによる和風住宅と洋・酪Z宅の違いを述べる。現行の生活スタイル、および住宅の状況をこの二つの区別によって整理するのである。和風は坐式の生活スタイル、および坐式の住宅を示し、洋風は腰掛け式の生活スタイル、および腰掛け式の住宅を示すという驚くほど明快な分け方である。さらに、構造、間取り、壁、窓などの細部にわたって和風住宅、洋風住宅における違いを列挙していく。次に、「気候」の章で、日本の環境的状況を仔細なデータを駆使して説明する。

そのうえで、「設備」、「夏の設備」、「意匠」の章で「新しい生活スタイルに適合した日本特有の住宅の創成」への検討がなされるのである。「気候」の章以下に顕著に見られるように、環境工学に支えられた藤井の考える理想の住宅は、繰り返しとなるが、歴史、人情、風俗、習慣、気候風土と密接に関係するものである。そして、この理想像を「和風住宅と洋風住宅」で区別した和風、洋風それぞれの構造、間取り、璧、窓などから日本の風土や新しい生活スタイルにふさわしいものをディテールごとに、見当し、具体化していくのである。藤井はここで、ほとんどすべてのディテールにおいて和風を選択する。その態度は、旧来の住宅の科学的な見地からの再評価といえるほどである。今から見れば、伝統的な住宅が日本の気候、風土、習慣に適したものであることは自明の事柄であるが、とにかく洋風に目がくらんでいた時代において藤井の視点は新しかった。要するに、藤井は伝統的な住宅の中に洋風の現代的な生活スタイルを融合しようとしていた。彼が旧来の住宅に取り込もうとした現代性は以下の三点である。家族本位にすること、部屋を用途によって使い分けること、坐式と腰掛け式の融合である。そして、居間の造作にその具現化を求めた。五回にわたる実験住宅の平面図をたどれば、居間の変化が最も著しい。特に、〈聴竹居〉には、それまでとは違った居間の姿が現れている。

第五回実験住宅〈聴竹居〉

『日本の住宅』には、第二回から第四回までの平面図や写真が掲載されている。〈聴竹居〉に関しては『聴竹居図案集』に詳しい。平面図や写真で見る実験住宅の変遷は、『日本の住宅』をイメージとして伝えている。また、「設備」以降の章で述べられる日本の住宅の理想の姿の記述の向こうには〈聴竹居〉の姿が垣間みえる。

先にも述べたように〈聴竹居〉がそれまでの四回と異なるのは、居間を中心とした空間構成にある。南西向きでサンルームの奥に縦長に間取りされた居間には、合計四つの空間が陥入してきている。この空間の陥入自体、以前の住宅には見られない。居間を有機的な空間に仕上げたかったことが感じられる。まず、居間の床面に対して約30cmほどの段差が付けられた藤井独特の三畳ほどの畳空間がある。これは、以前から存在した空間で、居間、食堂の兼用の場として食卓や椅子が配されていた。しかし、この〈聴竹居〉においては、食堂が別にあるため少し様子が変わってきている。居間との境界は段差のみで、空間の陥入というよりは、完全に居間の一部と考えられている。そして、畳の空間とサンルームとの間には、洋風の書斎が設けられている。また、居間を挟んで反対側には、床の間のある腰掛け式の客間がある。そして、サンルーム側から見て最も奥には、食堂がつくられている。この居間を中心とした三〜四畳の小部屋の数々は、ふすまさえ開けてしまえば、全て居間に融合する可能性をもっている。これは、伝統的な和風の空間構成、一屋一室的な構成をねらったものである。藤井の環境工学の理論に従えば、洋風の機能を果たす空間に対して、通気などのへの配慮から和風の空間構成が選択されたのである。

聴竹居〉の最大の特徴は、この居間であるが、もちろん、『日本の住宅』で仔細に検討された和風住宅の設備が、壁、天井、通気などの多くの点で生かされている。

〈聴竹居〉の意匠

『日本の住宅』の最終章「趣味」の箇所で、藤井は住宅の仕上げとして意匠について次のように語る。「…科学の進歩に應じて直ちにそれを適當に利用することの必要であるのみならず、ゆつとりとした落付のある高雅な気分に浸ることの出来得る趣味の深い住宅を造ることが極めて肝要です」(3)。そして、科学的に論証された諸種の条件が解決されるだけでなく、この条件が満たされないと理想の住宅ではないという。これを彼は「趣味」と名付けている。そして、ここでも洋風、和風の趣味の比較をし、低級な趣味、広くて浅い趣味、つまりは室内の装飾が建物それ自身に調和していない趣味を批判するのである。これは具体的には洋風を模倣した意匠への批判である。そして、彼は、日本の数寄屋建築に見られる、木材の巧みな使用、小さな凹凸を多用した空間、障子などの紙を使う採光の方法などを、軽妙・洒脱・清楚として深い趣味、多くの美点と考えるのである。〈聴竹居〉においても、こうした数寄屋的な意匠はいたるところで目にすることができる。木材家具による作りつけの凹凸空間(ちなみに藤井は作りつけの家具だけでなく、椅子、テーブル、照明器具に及ぶまで自作している)、外光や電気の光を散光させるために用いられた天井や照明器具の薄美濃紙、網代天井などである。ただ、数寄屋の意匠の選択において、またしても藤井は環境工学的見地からの判断という理論家としての面をみせている。

こうして、新しい生活スタイル、つまりは腰掛け式の生活スタイルに適合した住宅空間の創成のために、環境工学の見地から和風の設備、意匠を選択した藤井であるが、この科学的な論証によって生み出された〈聴竹居〉が、理論武装に見えないのはなぜなのか。むしろ理論や科学を超えた空間が立ちあらわれている。藤井は一言も語らないが、そこには環境工学の理論を越えた意匠が広がっている。藤井厚二の本当の「趣味」が秘されているのである。小能林氏がそれを鋭く突いている。「数寄屋建築あるいは茶室建築のもつ自由さや住宅建築に適したスケール感を、彼なりに消化して、もうひとつ別のものに転身させているのである。そして、この“転身”あるいは“転形”は、性急に藤井のさまざまな造形産物を、“日本的”と呼ばせるのも拒むものである、と強く感じた。それらは、私には、むしろ“モダン”であると感じさせた。藤井は“転形”作業において、数寄屋建築に内在する美学や原理を撰びとりはしたが、その造型パターンを選んだのではなかったのである」(4)。具体的にあらわれている例として、藤岡氏の指摘するイギリスの建築家マッキントンッシュの意匠の導入、オーストリアの建築家ホフマンの意匠の導入が挙げられよう(2)。この洋風「趣味」の導入について、藤井は全く言葉を持たない。『日本の住宅』「趣味」の章において、あれほど徹底的に洋風の模倣を批判しているにもかかわらず、“導入”、言うならば“転形”に関しては黙して語らず、なのである。この、環境工学による理論化がなされなかった部分、『日本の住宅』で語らなかった藤井の西洋趣味を仔細に検討することが、〈聴竹居〉の秘された魅力を表現することにつながるのだろう。



(4)小能林宏城「大山崎の光悦」『昭和住宅史』新建築社 1977年

最後に

今回の展覧会を適して、私は幸運にも直に〈聴竹居〉に触れることができた。〈聴竹居〉の居間は、横山氏が指摘するとおり、和風の設備を選択した故の限界を持っている。巧みな空間構成にも関わらず、それが結局一つの空間として構築されるまでには至らなかったのである(5)。たしかに、小空間が陥入した居間は、それぞれある定点からしかその絶妙なバランスを堪能できない。おそらく、これは空間が線によって案出されたところにあるだろう。しかし、こうしたことは〈聴竹居〉の魅力を減じることには全く繋がらない。むしろ、これこそが時代の証しなのであり、私たちはそこから多くのことを学ぶであろうから。


〈聴竹居〉論は、多くの建築専門の方々によってなされている。この展覧会によって、日常、建築分野に接する機会の少ない方々が建築に興味を感じて下されば幸いであり、そうした方々には以下の文献からより深みにはまっていただきたく思う。


(三重県立美術館学芸員)



(5)横山正「住宅の50年」『昭和住宅史』新建築社1977年
更に、石田潤一郎「『日本趣味』の空間−藤井厚二序説」『日本の眼と空間もうひとつのモダン・デザイン』セゾン美術館 1990年
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