このページではjavascriptを使用しています。JavaScriptが無効なため一部の機能が動作しません。
動作させるためにはJavaScriptを有効にしてください。またはブラウザの機能をご利用ください。

サイト内検索

美術館 > 展覧会のご案内 > 常設展(美術館のコレクション) > 1998 > 常設展示1998年度第3期(1998.10-12)

常設展示1998年度【第3期展示】 1998年10月27日(火)~12月27日(日)

第1室:20世紀西洋の美術

 今世紀の美術は、それ以前の時代と比べ、一段と多くの表現・主義が生まれた。これまでの絵画や彫刻、工芸といった美術の分類はほとんど意味をなさないほどに多様化し、今では「造形」を越え、「創造行為」、そのものが表現として扱われている。この展開は途轍もなく急激であっただけに、現時点で20世紀を、どれほど緻密に整理し、理屈づけようとしても十分な答えは出せないだろう。

 ただ、今世紀直前の美術を振り返ってみると、こうした状況となる予兆がいくつかあった。そのうち、今世紀の美術にもっとも影響を与えた画家として、ゴーギャンとセザンヌのふたりがよくとりあげられている。

 どちらの画家も、印象主義が視覚を重視するあまり造形感覚を希薄にしてしまったことを批判、あるいは乗り越えようとした。だが、ふたりの志向は異なっていた。ゴーギャン(1848-1903)の場合、内面のイメージや思想を作品に反映させ、宗教的ともいえる精神性と総合的な装飾性の獲得をめざした。それに対し、セザンヌ(1839-1906)は絵画における安定した建築的な構図と堅牢なフォルムを追求したのである。

 ゴーギャンの絵画思想は、ナビ派やフォーヴィスムの画家、さらにはフォーヴィスムと同時期に生まれたドイツ表現主義の画家たちに強い影響を与えた。フォーヴィスムの画家たちは、「色彩の純粋性」をゴーギャンから受け継ぎ、これまで自然を再現する役割を担っていた色彩の解放に情熱を注いだ。ドイツ表現主義の画家たちは、フォーヴィストのように、原色に近い色彩を用いながらも、「事物の背後に美を認め、内面の幻想からフォルムをつくりだすのだ」と、その代表的画家であるキルヒナーが述べているようにラテン的なフォーヴィスムとは本質的に違う世界を創造した。

 一方、セザンヌの理論は、キュビスムや抽象表現主義を導きだしたといわれている。1907年、ピカソが《アヴィニョンの娘たち》を発表したことが直接の契機となったキュビスムは、セザンヌが自然を「円錐、円筒、球体」に単純化させたように、三次元空間に存在する形態を数多くの面の構成に還元し、それらを二次元である「面」へと移行させる実験的な手法であった。彼らは描く対象とのつながりを否定しなかったが、対象の解体をすすめた結果、「三次元にある対象をいかに二次元である平面へと移しかえるか」という、従来の関係とはちがった新しいリアリティを提供することになった。そして、キュビスムの影響から「非対象の世界」である抽象表現主義が誕生する。この主義はヨーロッパおよびロシアの主要な都市で同時多発的に追求された。キュビスム後期の平面的な造形を踏まえつつ、1917年にはオランダでモンドリアンらによる<新造形主義>の幾何学的抽象絵画の運動が、同じ頃パリではル・コルビュジェらにより<純粋主義>(ピュリスム)が追求され、1918,9年にはロシアで<構成主義>の抽象絵画運動が押し進められた。

 おおよそ、二人の異なる志向はその後の大きな二つの流れを形づくったとみることができるが、その細部を点検すると、これらは平行線を辿ったわけではない。ゴーギャンから学んだドニやセリュジェといった若いナビ派の画家たちは、彼と同様に象徴主義、装飾性、反写実をもって純粋造形に反映させる努力をしたが、彼らの表現は一見平面的ではありながらも意識のうえではセザンヌにおける画面構成の意識がうかがえるし、フォーヴィストであったブラック、ドラン、ヴラマンクらは、のちにセザンヌの影響を受け、新しい構成の世界へと移っている。さらには、ドイツ表現主義のクレーやカンディンスキーは次第に抽象主義的作風に変わることになった。こうした例は数えあげればきりがないが、20世紀に生まれた数多くの流派は、それぞれの特色を保ちながら相互に交わっており、そのことがこの時代の美術のひとつの特徴といえなくもない。

(田中善明)

作家名 生没年 作品名 制作年 材質 備考
バルトロメー・エステバーン・ムリーリョ (1617-1682) アレクサンドリアの聖カタリナ 1945-50 油彩・キャンヴァス  
フランシスコ・デ・ゴヤ (1746-1828) 騎兵アルベルト・フォラステール 1804 油彩・キャンヴァス (財)岡田文化財団寄贈
オーギュスト・ルノワール (1841-1919) 青い服を着た女 1876頃 油彩・キャンヴァス (財)岡田文化財団寄贈
クロード・モネ (1840-1926) ラ・ロシュブロンドの村 1889 油彩・キャンヴァス (財)岡田文化財団寄贈
オディロン・ルドン (1840-1916) アレゴリー 1905 油彩・キャンヴァス  
オディロン・ルドン (1840-1916) ベアトリーチェ 1897 リトグラフ・紙  
エミール・ノルデ (1867-1956) ハンブルク港 1910 エッチング、アクアチント・紙  
エミール・ノルデ (1867-1956) 引き舟 1910 エッチング・紙  
E.L.キルヒナー (1880-1938) 三婦人 1907 木版・紙  
E.L.キルヒナー (1880-1938) フェルトマインの灯台 c.1912 鉛筆・紙  
E.L.キルヒナー (1880-1938) ダヴォス近郊の小屋 不詳 クレヨン・紙  
マックス・ペヒシュタイン (1881-1955) 船員 1919 水彩、コンテ・紙  
ワリシー・カンディンスキー (1866-1944) 版画集 小さな世界 1922 木版、リトグラフ、ドライポイント・紙  
ラウル・デュフィ (1877-1953) 黒い貨物船と虹 1949頃 油彩・キャンヴァス (財)岡田文化財団寄贈
ジョルジュ・ルオー (1871-1958) キリスト磔刑 1939頃 油彩・キャンヴァス (財)岡田文化財団寄贈
ジョルジュ・ルオー (1871-1958) 受難(パッション) 1939 カラーオーフォルト、木版・紙  
マルク・シャガール (1871-1958) 1956-62 油彩・キャンヴァス (財)岡田文化財団寄贈
マルク・シャガール (1871-1958) 版画集 サーカス 1967 リトグラフ・紙 (財)岡田文化財団寄贈
ジョアン・ミロ (1893-1985) 女と鳥 1968 油彩・キャンヴァス (財)岡田文化財団寄贈
ジョアン・ミロ (1893-1985) アルバム13 1948 リトグラフ・紙  
サルバドール・ダリ (1904-1989) パッラーディオのタリア柱廊 1937-38 油彩・キャンヴァス  
ベン・ニコルソン (1894-1982) 静物 1955 オイルウォッシュ、鉛筆・紙  
ベン・ニコルソン (1894-1982) パロスの木 1968 エッチング、アクアチント・紙  
アントニ・タピエス (1923-   ) ひび割れた黒と白い十字 1976 ミクストメディア・木  
G.ティテュス=カルメル (1942-   ) 四季・秋よりⅣ 1989 アクリル・紙  
G.ティテュス=カルメル (1942-   ) 四季・秋よりⅤ 1989 アクリル・紙  
ルン・チャドウィック (1914-   ) 三角Ⅲ 1961 ブロンズ  
 

第2室:荻邨・小坡と京都の日本画

 伊藤小坡の本名は佐登。猿田彦神社の宮司・宇治土公貞幹の長女として明治10年、三重県宇治山田市(現在の伊勢市浦田町)に生まれている。幼少の頃から古典文学に親しみ、茶の湯を楽しむ一方、柔術にも励んでいる。明治27年頃には四条派の流れをくむ郷土の日本画家・磯部百鱗に絵の手ほどきを受け、明治31年、画家になる決意をして京都に向かうことになる。はじめ磯部百鱗の紹介により森川曾文に師事し、曾文が病に倒れた明治35年から谷口香□(きょう)に師事、香□(きょう)から小坡の雅号を受けている。

 大正7年の第12回文展の「ふたば」に描かれた母は小坡自身であり女児は大正3年に生まれた三女正子である。朝顔のふたばと愛娘の将来をオーバーラップさせ、やさしく娘と話し合っている姿が主題となっている。例えば娘が履いている下駄はおそらく父のものでり、父親は描かれていなくてもこの家族の雰囲気を充分に想像することができるというように、画面に登場する様々なものにも工夫がこらされている。この頃の小坡の作品は日常のさりげない情景をありのままに、しかも克明に記録するかのように清楚に描出し、女性でなければ気がつかない視点が画面に息づいている。こうした微笑ましい情景が共感を呼ぶが、庶民の生活というよりもっと上流の生活を思い起こさせる。良き母であり妻であることが画家として生きることにつながり、主婦であることと画家であることの両立に対しての不安は一切ないような気配が感じられる。同時代に同じように日常風俗に主題を求めた梶原緋佐子が大正7年の国画創作協会第1回展に出品した「暮れゆく停留所」と比較すると、さりげない一面をとらえたところは共通しているが、精いっぱいぎりぎりに生きる女性とは対照的で、小坡の場合は生活にゆとりがあり、ほのかな愛情に満ちている。

 このような女性らしいみずみずしい感性が溢れる作品を発表していた小坡であるが、大正末年の頃から、徳川時代の美人風俗や歴史・物語を主題とした女性像へと移行する。昭和前期といえば新古典主義的な傾向が強く出てくる時期であり、このこととおそらく無関係ではないのであろうが残念なことと思う。

 三重県出身で京都で活躍した日本画家として、松阪出身の宇田荻邨を忘れることはできない。本名は宇田善次郎。明治29年、松阪市魚町で生まれ、磯部百鱗に師事した度会郡二見町の中村左洲のもとで、1年余りの間、写生、運筆、模写に励み、大正2年に京都に出て菊地芳文に、芳文没後は菊地契月に学んでいる。

 荻邨は、洛中洛外をくまなく歩き、ときには琵琶湖周辺にまで足をのばしてスケッチし構想に腐心をくりかえして京洛の風情を主題とした数多くの作品を遺している。特に昭和28年の第9回日展に出品した「祇園の雨」では、屋根瓦や板塀、簾など画面を構成する部分は繊細な運筆で克明に描かれ、柳の葉音や水のせせらぎが聞こえてきそうな、そんな詩的情趣に満ち、薄墨による切れ味の爽やかな線描と日本の伝統的な色彩が見事に調和している。

 戦後の日本画は大きく変貌している。日本画家の誰もが新しい表現を求めた昭和20年代後半、宇田荻邨は他の作家とは逆行するかのように、日本人の心に響く伝統の味を求め、あくまで写実を基礎として、日本古来連綿と続くやまと絵の伝統から離れることはなかった。個々の色も、切れ味の爽やかな線描も、やまと絵の伝統を感じさせる。時代遅れという批判も一方にはあるが、荻邨の作品には伝統の重みと、どこまでも美しい世界が存在し、かたくなに守り続けた荻邨の心の奥にあるものを感じ取ることができるのである。だからこそ、日展の開催に際して制作された「祇園の雨」の絵葉書の販売数が他の作品を圧倒した記録が残されているのである。

(森本孝)

作家名 生没年 作品名 制作年 材質 備考
竹内 栖鳳 (1864-1942) 山村之春 c.1912 絹本著色 寺岡富士氏寄贈
宇田 荻邨 (1896-1980) 木陰 1922 絹本著色  
宇田 荻邨 (1896-1980) 林泉 c.1935 絹本著色  
宇田 荻邨 (1896-1980) 夜の一力(下絵) 1919 淡彩・紙 (財)岡田文化財団寄贈
宇田 荻邨 (1896-1980) 太夫(下絵) 1920 淡彩・紙 (財)岡田文化財団寄贈
宇田 荻邨 (1896-1980) 港(下絵) 1921 淡彩・紙 (財)岡田文化財団寄贈
宇田 荻邨 (1896-1980) 山村(下絵) 1925 淡彩・紙 (財)岡田文化財団寄贈
宇田 荻邨 (1896-1980) 栗(下絵) 1935 淡彩・紙 (財)岡田文化財団寄贈
宇田 荻邨 (1896-1980) 祇園の雨 1953 絹本著色 (財)岡田文化財団寄贈
伊藤 小坡 (1877-1968) 化粧 明治末期頃 絹本著色  
伊藤 小坡 (1877-1968) ふたば 1918 絹本著色  
伊藤 小坡 (1877-1968) 母子図(下絵) 大正中期頃 淡彩・紙 伊藤正子氏寄贈
 

第3室:近現代の版画

 1950年代、日本の作家たちが、サンパウロ・ビエンナーレ、ヴェネツィア・ビエンナーレなど、重要な国際美術展に次々と出品を始めるなかで、最初に評価を受けたのは版画家であった。1951年の第1回サンパウロ・ビエンナーレでは斎藤清と駒井哲郎、1955年の第3回展では棟方志功が受賞したのに続き、1956年の第28回ヴェネツィア・ビエンナーレでは再び棟方志功、1957年の第4回サンパウロ・ビエンナーレでは浜口陽三が国際版画部門の最優秀賞を受賞している。いずれも、日本画、洋画、彫刻など各ジャンルの作家が出品するなかで、版画の受賞が相次いだのである。

 これと平行して、東京国際版画ビエンナーレという展覧会組織が1957年に創設され、同年6月から7月にかけて第1回展が開催された。このとき、国内の大賞にあたる国立近代美術館賞を受賞したのがパリ在住の版画家浜口陽三であった。浜口の作品をめぐっては、日本側の審査員と海外(特にドイツ)の審査員の間で論争が繰り広げられた。後者が浜口の作品を「余りに西欧的」であるとし、別の作家(森義利)の作品を日本的な性格の強いものとして推薦したのに対し、前者は「西欧的な技術の上にあるが、その芸術の質はむしろ東洋的であることを反論した」(富永惣一「濱口陽三」『芸術新潮』1957年11月号)。そのときのことを富永惣一は、「浜口の静物は、恰も宋元の静物画のような、静かな観照と密度の深い愛情があり、或は宋の磁器のような精緻な完成がこもっていると強弁したものだった。この国際的な討論は極めて興味深いものであり、東西芸術の質についての意味深い検討であった。」と報告している。

 浜口陽三は、長谷川潔とともに西洋で発達した銅版画の技法のひとつメゾチントの復興者として知られる。絵画の複製技術として写真の登場とともに一旦忘れられようとしていたメゾチントに、新たな生命を吹き込んだのが二人の日本人であった。浜口は、微妙な諧調の表現を可能にするこの技法の特質を生かし、対象を細密に正確に写すと同時に、目の粗い織物のような画面のうちに、神秘性を湛えた静謐さを生み出すことに成功した。

 こうした浜口の作品を海外審査員は「西欧的」とみなし、日本側は「東洋的」と主張した。戦争をはさんだ一時期をのぞき、浜口は生涯の大半をパリで過ごしている。技法のみでなく、葡萄、さくらんぼ,ガラス器など好みのモティーフもその構成法も確かに西洋的で、海外審査員の見方も肯定できるが、同時に、彼らの脳裏に日本的な版画としてまず「木版画」があった点も否定できない。冒頭に触れた、海外で受賞した斎藤清、棟方志功の作品は、浮世絵版画とは異なるものの,いずれも木版の特質をよく生かしたものであった。これに対して逆に日本側には、海外から木版画のみが評価されることへの危機感があり、技術的な水準は高くとも、全般に工芸的な性格、精神性の欠如が顕著ではないかという危惧があった。その点、浜口の作品は、西洋の技法によりながら、精緻な技巧と西洋とは異なる精神的内容を兼備したものとして主張することを可能にしてくれたのである。

 この前後には「日本は果して版画王国か?」(徳大寺公英『みづゑ』1957年8月号)といった議論も行われている。戦後美術が最初に海外に出ていったこの時期、版画をめぐっていわば日本美術のアイデンティティーを探る議論が真っ先に行われたというのは興味深い事実である。西洋の絵画技法の受容が始まり、江戸の大衆文化の重要な一端を担っていた浮世絵版画が衰退していく一方であったちょうどその頃、「ジャポニスム(日本趣味)」の流れのなかでその版画が西洋で高い評価を受け、近代美術の展開に広く深く影響を与えた。一方、日本の近代美術史のなかで、オリジナリティーを掲げた「創作版画」が誕生したものの、版画は常に二義的な位置づけを脱することはなかった。戦後の版画をめぐる評価や議論は、近代以降の日本美術にとって象徴的かつ皮肉なめぐりあわせであったといえよう。

(土田真紀)

作家名 生没年 作品名 制作年 材質 備考
藤森 静雄 (1891-1943) けし1 1914 木版・紙  
藤森 静雄 (1891-1943) 失題B 1914 木版・紙  
恩地孝四郎 (1891-1955) 初期木版画 1914-15 木版・紙 1989再刷
恩地孝四郎 (1891-1955) 新聞(今代婦人八態のうち) 1934 木版・紙  
恩地孝四郎 (1891-1955) 白い花 1941 木版・紙 1987再刷
北川 民次 (1894-1989) 瀬戸十景 1937 リノカット・紙  
棟方 志功 (1903-1975) 蒼原の柵 1956 木版・紙  
棟方 志功 (1903-1975) 安川加礼無題頌の柵 c.1958 木版・紙  
笹島 喜平 (1906-   ) 少年 1955 木版・紙 清水画廊寄贈
斎藤  清 (1907-1997) 道・唐招提寺・奈良 1960 木版・紙  
斎藤  清 (1907-1997) 目(14) 1976 木版・紙  
木下 富雄 (1923-   ) 1955 木版・紙  
木下 富雄 (1923-   ) 仮面たち(B) 1959 木版・紙  
浜田 知明 (1917-   ) 1951 エッチング、アクアチント・紙  
浜田 知明 (1917-   ) 1952 エッチング、アクアチント・紙  
石井 茂雄 (1933-1962) 眼の石 1959 エッチング、アクアチント・紙  
石井 茂雄 (1933-1962) 1960 エッチング、アクアチント・紙  
瑛 九 (1911-1960) 渡り鳥  1957 リトグラフ・紙  
瑛 九 (1911-1960) シルク(サーカス) 1957 リトグラフ・紙  
浜口 陽三 (1909-   ) 魚と果物 1954 メゾチント・紙  
浜口 陽三 (1909-   ) 突堤 1965 カラーメゾチント・紙  
福井良之助 (1923-1986) 1964 シルクスクリーン・紙  
斎藤 寿一 (1931-1992) 1958 銅版・紙  
斎藤 寿一 (1931-1992) 葉文字 1961 銅版・紙  
菅井  汲 (1919-1996) 青のインキ 1962 リトグラフ・紙  
菅井  汲 (1919-1996) ブロンズ 1963 リトグラフ・紙  
加納 光於 (1933-   ) 版画集 稲妻捕り 1977 リトグラフ・紙  
若林  奮 (1936-   ) 版画集 ノート鮭の尾鰭 1978 エッチング、ドライポイント・紙  
戸田 正寿 (1949-   ) 三月のライオン 1982 シルクスクリーン・紙  
山口 啓介 (1962-   ) 草上の昼食 1988 銅版、木版・紙  
鈴木 道子 (1954-   ) PLANT-C 1995 銅版・紙  
 

ギャラリー、ロビー

作家名 生没年 作品名 制作年 材質 備考
飯田 善國 (1923-   ) ストレインジャー 1961 鉛筆、マーカー・紙 作者寄贈
飯田 善國 (1923-   ) 3個のAugen-mensche 1964 マーカー・紙 作者寄贈
井上 武吉 (1930-1997) my sky hole 86-道 1986 ロットリング、鉛筆・紙  
湯原 和夫 (1930-   ) 無題85-1 1985 鉛筆、朱墨、アクリル・紙  
湯原 和夫 (1930-   ) 無題87-1 1987 アクリル、墨汁、しゅろ縄・紙  
若林  奮 (1936-   ) 大気中の緑色に属するもののためのデッサン 1982 鉛筆・紙  
清水九兵衞 (1922-   ) 過程Ⅱ 1991 黒鉛、インク・紙  
保田 春彦 (1930-   ) 素描 1970年代 インク、鉛筆・紙 作者寄贈
佐藤 忠良 (1912-   ) 群馬の人 1952 ブロンズ  
柳原 義達 (1910-   ) 黒人の女 1956 ブロンズ  
向井 良吉 (1918-   ) 発掘した言葉 1958 ブロンズ 作者寄贈
保田 春彦 (1930-   ) 都市1・試作(1) 1985  
保田 春彦 (1930-   ) 都市2・試作(2) 1985  
江口 週 (1932-   ) 漂流と原形 1981  
江口 週 (1932-   ) ふたたび翔べるか? 柱上の鳥 1988  
オシップ・ザッキン (1890-1967) ヴィーナスの誕生 1987 ブロンズ 岡三証券寄贈
飯田 善國 1923-   ) Xのコンストラクション 1987 木、着色麻ロープ  
多田 美波 (1924-   ) 1982 テラコッタ、ステンレススティール  
 

屋外の彫刻

作家名 生没年 作品名 制作年 材質 備考
ジャコモ・マンズー (1908-1991) ジュリアとミレトの乗った大きな一輪車 1973 ブロンズ 百五銀行寄贈
番浦  有爾 (1935-   ) 1990 ブロンズ  
多田  美波 (1924-   ) 作品91 1991 ステンレススティール  
松本   薫 (1952-   ) Cycle-90° 1992 ステンレススティール  
湯原  和夫 (1930-   ) 無題 1982 鉄・ステンレススティール 井村屋製菓寄贈
井上  武吉 (1930-1997) my sky hole 82 1982 鉄・ステンレススティール  
井上  武吉 (1930-1997) my sky hole 85-6 1985  
田畑   進 (1944-   ) NOKOSARETA-KATACHI 1982 ステンレススティール・黒御影石  
八ツ木 のぶ (1946-   ) 象と人(異邦の夢) 1988 ステンレススティール・ウレタン塗装  
梶    滋 (1951-   ) 円柱とその周辺 1986 アルミニウム  
石原  秀雄 (1951-   ) 暗室の王 1994 白御影石  
ページID:000056150