「余白」というのは、説明しすぎて煩瑣におちいるのをさけ、むしろ描かないことで描いて、そこに余情をうみだす作画上の工夫だとおもうが、それだけではこの『太公望』のばあい「余白」があるとはいえなくなる。釣竿らしきものはたしかに描かれているのだから、この老人が誰かはわかるひとにはわかるとしても、ここはやはりもうひとり役者がほしい。太公望だけではドラマにならないからだ。「釣れますかなどと文王そばへ寄り」となるとこのドラマは逆から光があたっている。そしてこの川柳のほうが、そこにいるはずの人物を、えがかないでえがく腕にかけて百穂よりずいぶん達者だ。だいいち百穂には運動がない。
もういちど川柳にかえろう。「釣れますかなどと文王そばへ寄り」もちろんこれはよく知られた故事を軽妙にしたてたコントであると同時に、釣場で釣果をたしかめあっている同好の士を太公望と文王に「見立」てたスケッチでもあった。この見立という仕掛によって厳粛な歴史の偉人がたちまち親しい隣人となり、また、うっかりみすごせばなんでもない家常茶飯のできごとがにわかに深い陰影につつまれることになるわけだが、ひとつの現実を二重三重にみたがった江戸人が偏愛したこの見立も百穂の時代にはもうそろそろ寿命がつきかけて、あたらしい趣向をいうなら、たとえばここに一種の自画像をみるほうが親切かもしれない。
ようするに、ただ自己の想像のうちの姿にかさなった太公望をえがけばいいとするなら、そのかんがえはあと一歩で洋画のせかいと通底することになる。まあその一歩がじつは千歩かどうか、これはにわかにさだめがたい。そこは日本画のさいごの砦のような気がするからだが、まちがいなくいえるのはこの絵には近代があるということだ。ぼくならこの絵に『これは「太公望」ではない』とつけてみたほうがおもしろいとおもう。
(東俊郎・学芸員)
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