『ヨプ記』の挿絵連作にブレークは何度か取り組んでいる。最初の水彩画によるセットは、ブレーク前期の支持者トマス・バッツのために1805-6年頃に制作された。このセットを見て、同じものを手に入れたいと切望したのはブレーク晩年のパトロンで画家のジョン・リネルである。リネルは1821年にブレークがバッツから借りて転写した新しい水彩画のセットを入手したが、それだけでは足りず、1823年にはさらに銅版画によるセットの制作を依頼するに至っている。その結果、扉絵を含め22点からなる銅版画集が生まれた。美術史の表舞台や一般大衆からは長らく無視されていたブレークであるが、その特異さこそが、一部の人々には非常に強い吸引力となって働きかけてきたといえよう。 1827年に無名のまま亡くなったブレークの再評価は、ようやく19世紀末のイギリスで始まったが、和辻哲郎による紹介などを契機に、大正期の日本においてブレークに対する静かな熱狂が始まっている。その一人、柳宗悦は1914(大正3)年に早くも大著『ウィリアム・ブレーク』を著し、その冒頭で、初めて見たブレークの作品が『ヨブ記挿絵であり、その後まもなく「ブレークは遂に自分から離れなくなった。彼は自分の頭に屡々ハーントした。彼を語る事は自分に愉快をあたえた」と回想している。 水彩画の『ヨブ記』が物語から取られた場面のみで構成されているのに対し、ここではその場面を取り巻く額縁上の部分に、数々の象徴的な装飾モティーフや、『ヨブ記』を初め、聖書などから引用された言葉が散りばめられている。ブレークは一方でテクストに忠実でありながら、他方で独自の解釈によって画面の構成から細部に至るまで様々なレヴェルでの意味付けを行っている。それを一つ一つ解読していくことによって、見る者はブレークの世界に次第に深く分け入り、幻視的ともいえる特異な象徴的世界の魅力に取り付かれてしまうのである。緻密なエングレーヴィングの線に埋め尽くされた画面に凝縮された力、線の放つ電磁波のような表現力が見る者を圧倒する。ブレークの作品は、その目に見えぬ波長を敏感に捉える力を備えた人々だけに働きかけるものに思われる。 (土田真紀・学芸員) |
ウィリアム・ブレーク 『ヨブ記』挿絵(第14図)1825年 エングレーヴィング・紙 21.5x16.8cm
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