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高村光太郎と光雲

山口泰弘

 

 「栄螺」は亡失ないし行方不明になっているが、残っていたとしたら、「鯰」や「蝉」「柘榴」などとともに光太郎の木彫を代表する作品のひとつになっていたはずである。昭和20年に出された『回想録』はかなりの長文をこの「栄螺」のために割いているが、大正の末期、丸彫に丹精していたときのことである。五つほど彫り揖なった後、「色々考へて本物をみてゐ」たとき、「貝の中に軸」を発見したという(『回想録』昭和20年)。そしてそれをきっかけに、「初めてかういうものも人間の身体と同じで動勢(ムウブマン)をもつといふこと」が解り、単なるモデルの引き写しではなく、「自然の動きを見てのみこまなければならないといふこと」を悟ったという。そして、「自然の成立ちを考へ、その理法の推測のもとに物を見」ることに造形の本源を見たという。この「栄螺」にまつわることばが、20年以上の時日を経た“回想”の一節以上でも以下でもないことは、留意しておかなければならない。光太郎がその造形論を導くためにあとづけた、といううがった解釈も成り立つからだ。

 

 光太郎が、高村光雲という、江戸の仏師として訓練を受けてその伝統と思考を生涯捨てることのなかった明治の木彫の大家の長子として生まれたことは周知のとおりである。長子たる光太郎は家業を継いで木彫家になることを運命づけられていた。晩年の回想「父との関係」(昭和29年)で、幼少期のことを次のように書いている。

 

 私は長男なので、父の家業をついで彫刻家になるということは既定のことであったが、特に父の指導をうけるということもなかった。多くの内弟子などの間にうろうろしていて、見よう見まねで何となく彫刻に親しんだに過ぎない。七歳頃に父に小刀を二、三本もらっていたずらしていたことをおぼえているが、よく刃物で怪我をした。

 

 同じ文章で父のことを「徳川末期明治初期にかけての典型的な職人であった。いわゆる 『木彫師』であった。(略)又その気質なり人柄なりに於いても完全に職人の美質と弱点を備えていた。」というが、階梯を重ねて演繹的に指導を行なう近代的な教育の方法とはあきらかに性格の異なる、いわば、前近代的な職人のやり方・・・手でものを覚えさせて、体質にまで深く染み込んでいくような職人の流儀・・・で光太郎の家業を継ぐべき職能の訓育を受けたわけである。そして、父光雲によって、光太郎は、木彫師(きぼりし)の体質を成していったわけである。

 

 しかし、「その気質なり人柄なりに於いても完全に職人の美質と弱点を備えていた」とはいっても、たとえば、息子を東京美術学校に入れるあたり、みずからの職人としての“弱点”を知り抜いていたからこそ、できたことである。

 

 家業から解き放されたことで光太郎が得たもののおおきさはいまさらいうまでもないだろう。生来の多感、あるいは多趣味を自分自身の成長と同調させ、広げる機会を得たからである。物を冷静にみつめる目を養うことになる。 光太郎の文言に登場する父光雲は決して彼の同時代人としては描かれない。「その気質なり人柄なりに於いても完全に職人の美質と弱点を備えていた」という客観的な評価もそうだが、『鯰』を彫り上げて光雲にみせたときの父のことば「此処の所に貝殻を彫つて添へると面白い置物になる」を『回想録』は一種冷めたニュアンスでつづっている。

 

 もちろん、光太郎は単純に父を否定し、遺物あつかいすることを考えていたわけではない。江戸の木彫師として訓練を受けてその伝統と思考を生涯捨てることのなかった明治の木彫りの大家を否定することが、自分自身の生きる近代をそれ以前と分離して存在することを象徴的に示すことになることをよく知っていたからである。

 

 江戸の彫刻は根付のように微を穿ち細を究めるミニアチュールの超絶技巧と趣向の奇想が独自のおもしろさをみせていた。この至芸の世界は、その実用性ともども、近代的な美術評価では解きあかせない江戸人の精神構造を示す見本だが、「此処の所に貝殻を彫って添へると面白い置物になる」と光太郎の『鯰』を評した光雲もそのある種基層的な伝統の呪縛にあったことはもちろんである。光太郎は江戸彫刻の趣向を「変態美」(「江戸の彫刻」)という否定的なニュアンスをもつことばでいいあらわしている。

 

 光太郎が父との関係でいおうとしていることは、個人的な関わりの問題ではなく、また単に造形の問題に対する論理的な理解というものの両者の差についてでもなく、彫刻というものの造形性がもつ存在価値に対する意識の差、近代と前近代の分離であった。 

 

(やまぐちやすひろ・学芸員)

 

高村光太郎・智恵子展(1990.5)

高村光雲とその時代展(2002.4)

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