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研究ノート

“蕭白”の発見――桃沢如水

山口泰弘

 

 ある画家の事績を辿るとき、その画家に憑かれてその探究を自分の業とした人物の仕事にどうしても負わなくてはならないときがある。葛飾北斎の伝記をまとめた飯島虚心などはさしずめその代表格だろう。18世紀の奇想の画家曾我蕭白にとって虚心にあたるのが、桃沢如水という人物である。 

 

 文政7年編の『近世逸人画史』で著者が「勢州の人なり、京摂の間に横行す」と蕭白論を切り出しているように、蕭白に対しては、その出身を伊勢に充てることがあった。これにはさしたる疑義も差し挟まれないまま長らく容認されてきたが、最近になって京都の商家に出自を求める意見がだされるにおよんで、伊勢出身説はにわかに存在の影を失っていった。生誕の地という、蕭白と伊勢とを結び付ける最も強固な紐帯はほぼ断ち切られているのが現状だか、それでいていまなお、この地方との関係に関心が注がれているのは、それにふさわしい所以があったからにほかならない。蕭白がこの地を徘徊し、さまざまな奇行を演じ、奇想にあふれる作品のかずかずを描いたことが、土地の語り草として伝えられていたからである。

 

 伊勢の各地に散らばった噺を丹念に拾い集めてひとまとまりの記述に仕立てたのが、桃沢如水(1873〜1906)であった。彼は東京美術学校で橋本雅邦に学んだ画家であったが(註1)、明治31年(1898年)に養病のために東京から伊勢に転地してのち、彼は病を押してこの地方を歩き回り、蕭白没後すでに百年以上たっていた当時、伊勢地方の各地にまだ残っていた作品を訪ね、伝承をひとつひとつ丹念に採集したのであった。

 

 病の悪化した如水は明治39年(1906年)34年で早世するが、ライフワーク ともいうぶき蕭白調査の報告書(註2)が、死を前に脱稿され“三六生”なる筆名で『日本美術』誌上に発表された。数年後、『三重県史談会々誌』(2ノ11〜3ノ3号・明治44〜45年)にあらためて掲載されることになったが、再掲載に当たっては三村秋良という友人によって補遺が添えられた。 

(註)

 

(1)如水の履歴については、郷里信州で出版された刊行された『桃沢茂春小伝』(山田良春 信毎出版センター 昭和59年)に詳しい。茂春は如水の通称。

 

(2)「曾我蕭白」『日本美術』85〜88号 明治39年

 秋良は、江戸研究者として著名な森銑三や三田村鳶魚とも親しい交渉があった在野の書肆学者で、如水に遅れて明治36年(1903年)にやはり療養のために伊勢に転地した。博学な彼の膨大な仕事は『日本書誌学大系 三村竹清集』(9巻 青棠堂書店、竹清は秋良の別号)に収められている。彼は転地 先の郷土史にも強い関心をもち、三重県史談会という地方史研究グループの創立に携わった。その会報への如水の仕事の再掲載は、彼の発意によるものであったと思われる。秋良が点綴する補遺は、史談会の活動や交友を通じて地元に通暁するようになった人物の手に成っただけあって示唆に富む内容では如水の本文に劣らない。

 

 如水は、思うにまかせて漂泊する気ままな異人を、歓待と排除という対照的な感情を複雑に交錯させながらもてなす地元の人々と、人々のあいだに漂う微妙な空気などどこ吹く風といった風情の当人とのユーモラスな交渉を描く逸話を中心にメモを綴っている。如水が蕭白という人物の奈辺に関心をもってこの小編を記述していったかが、このあたりから窺えよう。

 

 蕭白の場合、生涯や行動はさまざまな伝説や逸話で粉飾されていて、いまとなっては、実像と虚像を識別することは容易なことではない。

 

 蕭白に対する記憶が過去のものになった明治時代の中ごろから大正時代に入ると、近代的個性を賞揚する芸術家や文学者によって蕭白の存在がクローズアップされるようになり、彼の奔放な性格や奇矯な作画態度が(おそらくは)実際以上に誇張されて紹介されるようになった。いまからみれば、むしろ実像を虚像の下に掃き込んでしまうような仕事であったようにも思われなくもないが、封建時代の閉塞した枠組みに収まりきれない芸術的人生を送る、いわば“早すぎた近代人”を蕭白の行為や作品に見だし、彼に共感を覚え、時代の先駆者に仕立てる悦びが彼らを彼なりの蕭白像創作に駆り立てたのであった。

 

 蕭白にある種の親近感を抱いていたという点では、如水も被らの同類であったようだ。彼の採集した噺にも、やはり、逸話につきものの綺談仕立ての尾ひれがついて、それが理由で記録としての真憑性に疑念を差し挟む向きもある。しかし、豊富な逸話が蕭白の特異な個性を鮮やかに浮き彫りにして面白いだけでなく、当時まだこの地方に残っていた蕭白画に関する豊富でしかもかなり精確な情報が随所にちりばめられていることや、すでに失われていた作品の往時の姿に想像を巡らせる数々のてがかりを提供してくれていることは、何を措いても捨てがたいものである。そのため、伊勢における蕭白の行動を追い客観的に跡づけようとする立場からすると、事実から粉飾をはぎ落とす仕事は不可欠だが、さまざまな示唆を与える情報ソースとして、動かし難い資料価値をもっているのである。

 

 ちなみに蕭白の場合、生年を享保5年(1730年)に置いて年譜を記述していくのが通例だが、生年同定の唯一の拠り所はこのメモの一節であることは、意外に知られていない。このメモの客観的価値の高さを示す一例である。

 

 しかし、如水がいったいいつごろから蕭白に対する関心をあたためるようになったかははっきりとはわからない。

 

 だが、蕭白探訪へと如水を衝き動かした機縁がまったく想像できないわけではない。如水は、東京にいるころ、奥田龍渓なる人物の著わした『存心』という心学の本を手にいれていた。龍渓は、三村秋良が、蕭白の伊勢における数少ない友人として挙げた人物である。この本は民衆教化を狙いとする心学らしく豊富な挿絵で埋められているが、逸名の画家と龍渓自身が描いたもののほか、ほかならぬ蕭白が担当した挿絵が二十八図も収められている。「又心学の本と思ふたが其挿絵を描いてあった事がある嘗て東京に居た頃其本を見つけて求めて置たがあまり上手な面白いものではなかった様に覚えて居る」と、彼の挿絵に対する評価はあまり芳しいものではない。しかし、彼の蕭白に対する関心が東京時代にはじまっていたことを示唆するものとして、興味深い。療養の転地先に伊勢を択んだのも、あるいは思うところがあったからかもしれない。

 

 近代における蕭白発見の功績は、実は如水ではなく、フェノロサやビゲローといったアメリカ人に帰さなくてはならないこ明治のはじめに来日し、全国を歩いて古美術を猟渉したなかに、当時の日本人が目もくれなかった蕭白が大量に混じっていた。彼らと行をともにした岡倉天心…東京美術学校の創立者…から弟子橋本雅邦へ、そしてその弟子如水へと、奇縁以上のものを考えないわけにはいかない。

 

(やまぐちやすひろ・学芸員)

 

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