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ノルマンディーの鹿子木孟郎 『鹿子木孟郎 水彩・素描展』補遺

荒屋鋪 透

 

 モネの『ラ・グルヌイエール』を思わせる、明るい夏の日の午後の情景。ボート遊びや水浴を楽しむパリの若い男女を、小説家ギ・ド・モーパッサンは、まるで印象派の絵のような瑞々しいタッチで描いた。しかし彼の絵画の好みは少し違っていたようだ。アルマン・ラヌーによると、モーパッサンは官展派の画家ブーグローをマネと同格に扱い、バスティアン=ルパージュの暗い農民画を特に愛したという。これは、故郷ノルマンデイー地方を舞台にした彼の短編小説を知る者には大変興味深い事実だ。19世紀末の辺鄙な漁村を背景に、当時の下層階級に強いられた苦渋をモーパッサンはギリシャ悲劇のように格調高く表現する。そのなかに『帰郷』という作品がある。善良な漁師夫婦のもとに、ある日行方不明になっていたはずの女房の前夫が帰って来る物語だ。貧しい人々に突然ふりかかる災厄、人間の悲劇的な運命がノルマンデイー地方特有の粗削りな風景をバックに、たんたんと語られる。鹿子木孟郎が明治41年の文展に出品した『ノルマンデイーの濱邊〈flg・1〉は、この小説の一場面を描いたのではないかと思わせる絵である。ふたりの幼い娘を抱えて再婚する『帰郷』の主人公の女性の姿は、やはり画面にふたりの子どもが登場する鹿子木の絵に重なるようだ。モデルの詮索はともかく、今問題にしたいのは描かれた場所と主題である。『ノルマンデイーの濱邊』は鹿子木の第2回留学時代1908年のフランス芸術家協会サロンに入選した作品で、同展カタログには『イポールの浜辺』とある。イポールとは東部ノルマンディーのコー地方にある漁村の名で、モーパッサンの小説『メゾンテリエ』の舞台となった漁港フェカンと、断崖で有名なエトルタの中間にある避暑地。実はこのイポールに鹿子木の師ジャン=ポール・ローランスの別荘があった。彼が留学先から妻春子に宛てた絵葉書がその事実を語っている。『今日巴里ヲ去テ斎藤君ヲ同道シテ此ノ町(マント)ニー遊コノ景色ヲ賞シロみるコレカラー週間ローランス先生ノ別荘二遊フ筈ダ英彿海峡に臨ミタイルイポールト云フ村ナリ孟郎八月廿九日午后七時五フム」。(fig・2)受信の消印は「京都明治39年9月30日」。斎藤君とはこの留学に動向した画家斎藤与里である。

 

 ノルマンデイー地方は、1820年代に英国からターナーが訪れて以来、多くの画家の着想の源泉となった土地であり、中にはそこに住む者さえ現れた。そのひとりが風景画家のウジェーヌ・イザベイ(1803−1886)である。今日では僅かに石版画が知られるのみだが、7月王政時代、彼は国王ルイ=フィリップの宮廷画家であった。ボードレールは、1845年のサロン評で「イザベイ氏は真の色彩家だ」と紹介しているが、彼の風景画にみられる光と大気の表現は、オンフルールのサン=シメオン農場におけるブーダンを囲む画家たち、ヨンキント、ユエなどいわゆるサン=シメオン派に決定的な影響を与えた。1827年のサロンに出品した『オンフルールの海岸』はすでに印象派を予告している。後にピサロやモネがこの地方の風景に題材を求めるのも決して偶然ではない。先の国王シャルル’10世の寵愛も受けたイザペイは王子べリー公爵の夫人で、ディエップの湯治場に毎年遊びノルマンデイーを一躍有名にした張本人、マリー・カロリーヌとこの地を訪れたのかもしれない。いずれにしても、ディエップ近郊のヴァランジュヴィルに土地を購入するなど、イザベイのノルマンディーに対する愛着ぶりは大変なものだ。イザベイはロマン主義の歴史画家であり、彼の風景画は同時代の歴史的事実のメタファーとなっているが、フランス最後の歴史画家と呼ばれたローランスもまた、風景画ではなかったものの、この地方の風土を愛していた。そして彼の日本の弟子のひとり鹿子木はそこで作品の構成を得た訳だ。妻春子宛のもう1枚の葉書には「九月五日孟郎昨年巴里こ帰ル此ノ處二七日間滞在セリ」(fig・3)とあり、前掲の葉書と照合すると、鹿子木のイポール滞在は1906年8月29日〜9月4日となる。『ノルマンデイーの濱邊』には、この地方独特の石灰層の切り立つた崖が背景に描かれているが、構図の中心は漁師の家族であり、物語性を強く意識した画面構成となっている。この作品が綿密な習作の上に完成された点を考え合わせると、作者はある明確な主題を選択して制作に臨んだと見ることが出来よう。世紀末のサロン官展ではモーパッサンの好んだバスティアン=ルパージュや国民的な農民画家ジュール・ブルトンが得意とした、労働者階級を主人公にして感傷的な物語を仕立てる絵画が流行した。鹿子木の作品もそうした風俗画に属するのだが、ここでノルマンデイー出身の画家をもうひとり紹介しておきたい。ブルトンの友人で、モーパッサンの従兄にあたるルイ・ル・ポワットヴァン(1847-1909)である。彼はブーグローの弟子としてサロンで活躍したが、ブルトンの影響で田舎の風俗、特にノルマンディーやブルターニュ地方の農民画をよくした。代表作『月光』(fig・4)に見られるように、雄大な風景を背景にしながら牧歌的な情景を透明感のある色彩で表現した画家である。鹿子木は、その短いイポール滞在でポワットヴァンに会うことはなかったであろう。しかし後年、第1次世界大戦のさなか、第3回フランス留学時代に彼は、やはりこの地方に題材を求めた画家ルネ・メナールと邂逅することになる。メナールは、シャルル・コッテやアマン=ジャンらと共にラ・バンド・ノワール(黒い一派)の画家と呼ばれていたが、『ノルマンデイーの濱邊』は、まさにこのグループが好んだ主題のひとつである。とすれば、すでに第2回留学時代、アカデミー・ジュリアンのローランス教室で頭角を現していた鹿子木孟郎は、少なくともフランスにおいては、外光派的な手法で農民画を描く風俗画家としてサロンに登場していたことになろう。その彼が作品のテクストとして、同時代の農民を英雄的に語った作家モーパッサンを選んだとしても不思議ではない。

 

(あらやしき・とおる・学芸員)

 

鹿子木孟郎についての記事一覧

fig.1 鹿子木孟郎「ノルマンディーの濱邊」

fig.1 鹿子木孟郎

  「ノルマンディーの濱邊」

1907年

 

 

fig.2 鹿子木孟郎の春子宛葉書

fig.2 鹿子木孟郎の春子宛葉書

  (明治39年9月30日京都消印)

 

 

fig.3 鹿子木孟郎の春子宛葉書

fig.3 鹿子木孟郎の春子宛葉書

 

(明治39年10月9日京都消印)

 

fig.4 ルイ・ル・ポワットヴァン

fig.4 ルイ・ル・ポワットヴァン

「月光」

 

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