このページではjavascriptを使用しています。JavaScriptが無効なため一部の機能が動作しません。
動作させるためにはJavaScriptを有効にしてください。またはブラウザの機能をご利用ください。

サイト内検索

美術館 > 刊行物 > HILL WIND > ひる・うぃんど(vol.11-20) > 三重の円空

三重の円空

山口泰弘

 

 1632年(寛永9)、美濃国現在の岐阜県にうまれた円空は、23歳の年、某寺を出奔したのち、64歳で生涯をとじるまで、その大半を造仏のための行脚に費やしたという。円空の足跡は、その生地である岐阜に留まらず、関東や北陸さらには、北海道の南部にまで至っている。円空が、その行脚の途次に造顕した彫像の総数がどれほどの数に至ったかは、おそらく想像をはるかに超えるものであったようだが、昭和54年に長谷川公茂氏が調査したところによると、現在までに発見されただけでも総数が4500体ほど、愛知県下に3000体、岐阜県下に1000体、埼玉県下に100体あまり、北海道にも、当地で造顕したものが36体、他地から移入されたものを含むと42体が現存するという、おそるべき多作ぶりをしめしている。

 

 円空の残した足跡は、円空自身が造顕した彫像の背面や棟札に記した銘文や経典の奥書、あるいは『円空歌集』などのように自筆の資料、あるいは、円空が津軽蒲に滞在し同藩を追われて北海道に渡った事実を伝える『津軽薄日記』など同時代の記録などによって、現在、伏流からときおりあらわれる水流をたどりつなげるようにアウトラインを知ることができる。

 

 円空の漂白の人生は、現代の私たちにある種のロマンをかきたてさせずにはいないが、江戸時代の前期に生涯を送った円空にたいして、その示寂後半世紀ほどたってうまれた伴嵩渓は『近世畸人伝』のなかに円空の事跡を記している。また、嵩渓と同時代の菅江真澄は、円空とおなじようにその人生の大半を漂白の旅、とくに東北・北海道の巡遊に費やした紀行家であるが、彼も行旅の途次に出会った円空仏について記録し、あるいは考証を加えている。彼の旅は中古・中世を貫き松尾芭蕉あたりまで連なる歌枕の異時空間をもとめて漂白する、伝統の思想の流れのなかに彼もあったと考えられなくはない。しかし、彼の紀行文からは、きわめてリアリスティックな眼が彼の接した風物に注がてれていたことがわかり、その意味で彼も、彼の時代の実証主義的な時代傾向をじゅうぶんに踏まえていたといえる。彼の円空に関する記述も、非常に客観的な、今で言う、民俗学の範疇を超えるものではない。おそらく江戸時代を通じて、円空仏は、民俗に生きる信仰の対象以外のものではなかったと考えるほうがよいだろうが、菅江真澄のみかたもまたそのようなものであった。少し余談が長くなったが、このような、円空に比較的近い時代の人々が書き残した文献も円空の行動を知るうえで私たちには貴重な資料と言えるだろう。菅江真澄の残した記述と東北や北海道に現存する円空仏との比較は円空研究に欠かせないし、冒頭に記した、円空出奔の事件は、『近世畸人伝』に拾録されたものである。

 

 ところで、円空はその長い旅の人生の中ですくなくとも前後二回三重県内に足を踏み入れていることが、現存している作品や資料から推測することができる。

 

 円空の最初の来訪は、寛文11年(1671)ころの事であったらしい。奈良の法隆寺にあったらしい円空は、この年秋、同寺の僧から血脈を受けていたことが、円空自筆の「法僧中宗血脈写」からわかっている。一方、現在津市の真教寺、通称えんま堂には、円空としてはもっとも大きな作品のひとつである十一面観音像が安置されているが、この彫像の像様が法隆寺に残る飛鳥仏に類似していることから、円空が、法隆寺で修行のかたわら、飛鳥仏をモデルに、正当的な造仏を研究した成果がこの彫像に現われたのではないか、そして、その成果を試すきわめて近い時期に津をおとずれたのではないかと考えられるからである。 円空仏の中では、むしろ異色に属すると言えるこの彫像は、しかし、儀軌に即した仏像の表現様式の研究に円空が必ずしも無関心でなかったことを示す貴重な作品と言える。

 

 延宝2年(1674)、43歳の年、円空は志摩地方に一時滞在し、各地に彫像をのこす一方、この地に中世から伝わる大般若経の写本の修復に関わり、その一部に見返絵を描いている。

 

 円空が志摩に至った経路について、資料は何も語っていない。それだけに逆にいろいろな可能性が考えられるのだが、現在もっとも有力な説は、伊勢から朝熊山金剛証寺にのぼりそこから志摩にくだったのではないか、とする説である。というのも、朝熊山を志摩に下った五知の薬師堂に円空の薬師三尊が残されているからで、真言修験とかかわりのある金剛証寺と五知のふたつの点がひとつの線としてつながるのである。先にあげた『近世畸人伝』には、円空が、某寺を出奔後、富士山や加賀の白山にこもって修験の行に入ったことが記されている。また、一時期近江の伊吹山で行じたことが、これは北海道有珠の善光寺の観音菩薩坐像の背面にみずから印刻した銘文によってあきらかになる。いずれにせよ、円空は、修験道に少なからず関わりを持っていたようである。

 

 大般若経は現在、阿児町立神の薬師堂と志摩町片田の漁業協同組合にそれぞれ600冊が残っているが、薬師堂本には128冊の、片田本には54冊の冒頭に、円空自筆の水墨による見返絵がある。図様はいずれも大般若経の儀軌を基本とし、それに円空の自由な解釈で描かれたヴァリエーションで、簡素化された図柄や生き生きとした仏の表情、そしておだやかな墨線の膨らみは、同じ円空の鋭角的な彫像表現とはまた別の趣を示している。しかし、百数十点をかぞえるこの見返絵のいくつかは、図様を南北朝時代の経版を基としていることがわかっており、真教寺の十一面観音像と同様、古典的正当的な儀軌に円空が必ずしも無頓着ではなかったことを示す例といえよう。

 

 円空の場合、その奔放な、オブジェふうの造形性が、近代的感性として賞嘆されるが、円空の生きた時代が近代をはるかにさかのぼる江戸時代前期であったことを考えると、宗教美術としての側面もまた看過できないであろう。ここに掲出した円空作品は、その意味でも貴重な作品とみられよう。

 

(やまぐち やすひろ 学芸員)

 

年報/橋本平八と円空展

ページID:000055452