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橋本平八の絵画作品について

毛利伊知郎

 

 橋本平八の創作活動において、木彫制作が絶対的に大きな比重を占めていたことは言うまでもない。しかし、平八は、彫刻のみならず、絵画に対しても強い興味をいだいていたようで、現存する絵画作品も少なくない。しかも、それらは、いかにも木彫制作を生業としていた平八の作らしく、骨太で、三次元的な描写効果の強い、個性豊かな作品群となっている。そこで、本稿では、そうした平八の絵画作品につき、主要作品の紹介を行い、筆者の感ずるところを記すこととしたい。

 

 先に当館で開催した「橋本平八と円空─木彫・鉈彫の系譜」展には、平八の絵画作品を計14点出品した。その内訳は、家族の肖像画4点、仏像や花鳥を措いた色紙6点、水墨画、仏画、花卉の写生画、神宮の舞楽を描いたもの各1点である。

 

 このほか、平八が朝熊山麓の自宅周辺で描いた風景画や、大正末期・?から昭和10年の没年に至る間に記された日記帳所収の大量の素描類などを、主要な遺作としてあげることができよう。

 

 こうした平八の絵画作品のうち、代表的な作例として早くから知られていたのは、1925年(大正14)晩秋から翌年春にかけて描かれた、家族の肖像である。平八が郷里の朝熊村に帰って居を構えたのは、1926年(大正15)10月のこととされている。従って、これら家族の肖像は、平八が朝熊に居を定める以前、短期に帰郷した際に制作されたのではないかと想定できる。

 

 描かれた家族とは、平八の父母と弟の健吉、妹の雪子(ゆき子)の4人である。いずれの像も、正座をして膝上で両手を組んだ姿を、やや斜めから写生しているが、水墨を主体に描かれた、意志的な視線を投げかける、どっしりと力強い母像や、静謐な雰囲気を漂せた健吉像がとりわけ印象的である。描写に当っては、水墨によって人物の輪郭や着衣の襞を表わし、着物の部分にのみ淡く彩色を施している。衣襞や目鼻立ち等の墨線は、どこを見ても力強く的確で、筆の当りと押え、墨の濃淡、線の肥痩等々の効果が巧みに活かされて、各人物の個性までがうかがえる、すぐれた肖像画となっている。

 

 濃彩を施さずに、写生の墨線を活かした作品である故か、各像は生気に満ちているが、それは、各人物が十分な立体感をもって表現されていることにもよると思われる。この立体感の表出は、平八のどの絵画作品にも共通するところで、大きな特徴の一つとしてあげることができよう。

 

 平八が仏教や道教など、東洋の宗教・思想に強い関心を持っていたことは、しばしば指摘される事柄である。遺作を見ても、木彫には宗教彫刻的な性格の濃い作品が少なくなく、絵画作品にも、仏教的な主題の作品を幾つか見出すことができる。特に平八は、一時、奈良に滞在していたこともあって、我国の古代仏教彫刻には深い関心を寄せていたらしく、飛鳥彫刻等に想を得て制作された作品は、数多い。例えば、絵画作品のうち、今回出品された「釈迦三尊像」(昭和6年作)は、白鳳時代の押出仏の代表例である法隆寺伝来の「阿弥陀三尊及び二比丘像」を写した図で、赤色系の淡彩が施されている。また、「転法輪釈迦三尊図」も、前記作品と似通った構図の作品で、本図の落款に平八は、「仏弟子平八謹写」と記している。平八が自らを「仏弟子」と称するのは、この作品だけでなく、日記等にもこうした記述を度々見出すことができる。平八の仏教に対する考えを見る上で、興味深い事柄の一つであると思われる。

 

 平八の遺稿を見ると、彼が西洋絵画や東洋絵画などを幅広く研究していたことが知られる。そのような東洋絵画研究の成果とも思われるのが、平八の水墨画である。今回出品の「春夏図」は、左幅に樹下人物を、右幅に水辺の馬を、それぞれ草体風に描いた酒脱な墨画である。本図のほか、「倣木米」と題された南画風の山水や、四幅対の四季山水図などを、水墨画の代表例としてあげることができよう。それらは、いずれも小品であるが、平八作品の大きな特徴である、強い緊張感とは別種の、軽快な爽やかさに満ちている。

 

 ところで、平八の絵画作品を検討する際、逸することのできない資料に、彼の遺稿類におさめられた大量の素描類がある。

 

 平八には、途中の断絶はあるものの、1923年(大正12)頃から1935年(昭和10)の没年に至るまでの、日記を中心とした、総冊数105冊に上る、遺稿類が残っている。そこに平八は、日常の出来事のほか、自身の作品の制作意図、古今東西の芸術・哲学・宗教・科学に関する覚書などを記しているが、その随所に彫刻制作のための構想図や身近な人物・静物・風景などの素描が、様々な技法・作風によって描かれている。

 

 これらの素描は、水彩絵具で丁寧に着色されたものから、鉛筆で粗々しく描きなぐられたものに至るまで、作風の振幅は大きいが、他人に見られることを意識しない作品であるだけに、そこには平八の生の姿を見てとることができる。以下に、筆者の眼にとまったものを、二・三紹介してみよう。

 

 図3は、京都金剛院の快慶作の深沙大将像を鉛筆で写したものである。このスケッチが、いつ頃の作であるかは明らかでない。しかし、この図に続いて、輿福寺の龍燈鬼立像や朝護孫子寺の信貴山縁起絵巻などのスケッチがあることから推して、本図も1923年(大正12)から翌年頃に描かれた可能性が強い。この図では、下半身は省略気味に描かれているが、胸から顔面にかけては、細かいタッチによる写実的な描写がなされていて、平八の立体表現に対する指向性をうかがうことができる。

 

 なお、本図からも知られるように、奈良滞在中を中心に、平八は仏教彫刻を初めとする日本の古美術を数多く実見していたし、ギリシア彫刻や西洋近代絵画などにも幅広い関心を寄せていた。平八に関しては、従来、円空仏との関係が強く指摘されてきたが、彼の遺稿を見ていると、平八の創造の源泉としては、円空仏のみにとどまらない、より広範な芸術作品を想定する必要があると考えられる。

 

 また、図4は、1927年(昭和2)から翌年頃のスケッチ帳の一頁に描かれた平八の自画像である。このスケッチ帳には、連続して自画像が7図描かれているが、本図は第4番目の図で、墨のみを用いて、帽子をかぶり、鋭い視線を放つ印象的な青年の容貌に仕上げられている。

 

 以上、筆者の眼にふれた平八の主要な絵画作品を紹介したが、どれを見ても、木彫に劣らぬ平八の強い個性があらわれている。平八は、木彫制作に当り、多くの場合、下絵を遺している。特に「裸形少年像」や「花園に遊ぶ天女」のような大作の時には、平八は日記等に何度もスケッチを描きつつ構想を練ったようである。平八の達者な画技が、そのような木彫制作の過程で大きな役割を果たしていたことは想像に難くない。しかし、付属の桐箱を厨子に見立て、その扉に供養者などを描いた、厨子入りの聖観音立像や、やはり桐箱内部に絵画による荘厳がなされた「郡伽犀郡像」(昭和5年作)、更には「或る日の少女」の丁重な彩色仕上げを見ていると、平八にとっては、絵画表現が、単に木彫制作の補助手段にとどまらない、重要な表現方法であったと思われるのである。

 

(もうり いちろう 学芸員)

 

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(1)橋本平八「母像」1925年

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(2)橋本平八「健吉像」1926年

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(3)橋本平八「深沙大将像」

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(4)橋本平八「自画像」

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