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いんてるめっつお3

アーモリ・ショー『マン・レイ展』 研究ノートT

荒屋鋪 透

 1973年ミュンヒェンで開催された「ニューヨーク・ダダ」展カタログに収録されることになるアルトゥーロ・シュヴァルツの取材に答えて、マン・レイは1913年のアーモリ・ショーで見ることの出来たマティスやデュシャンの大作から受けた衝撃を回想している。スティーグリッツの画廊「291」でマン・レイは多くのアメリカの前衛画家に会っているのだが、彼が興味を持ったのはもっぱらヨーロッパのモダニスムの動向であった。後にパリの最前衛となるダダ、シェルレアリスムの記録者として―もっとも単なるレポーターではなかったのだが―大陸に渡ったマン・レイにとってアーモリ・ショーは、彼自身語っているように、自己の選択を裏付けてくれる激励であったに違いない。メイヤー・シャピロの指摘を待つまでもなく、アーモリ・ショーをアメリカにおける芸術のモダニスムの出発点とみるならば、その事件の中で発生した現代美術と観者との間に横たわる深刻な溝は、今日尚成長こそすれ決して埋められてはいないとみるのが至当であろう。それならば話を最も混乱した1913年のニューヨークに戻して、アーモリ・ショーを再検討してみたらどうかという企画が昨年アメリカ本国でなされた。The Shock of Modernism in America: The Eight and Artists of The Armorty Show, April 29,1984-July 29, 1984, Nassau Country Museum of Fine Art, Roslyn Harbor, New York.

 1913年2月、ニューヨークの第69連隊兵器庫(アーモリ)に展示されたおよそ1,300点の中から主要な作家の作品約150点を選んでアーモリ・ショーを再現した同展カタログには、1)アッシュカン・スクール(ごみ箱派)と蔑視されたロバート・ヘンライを中心とするジ・エイト誕生の歴史的背景。2)ヨーロッパの同時期のモダニスムの動向。3)アメリカ画家彫刻家協会AAPSの設立とアーモリ・ショーに向けての準備。4)アーモリ・ショーの反響と、ジ・エイトのその後の活動が要領よくまとめられている。

 

 19世紀末から20世紀初頭のアメリカは鉄道、石油といった所謂「ピック・ビジネス」の時代であり、サクセス・ストーリーの主役、例えばフリック、ロックフェラーらは、その巨万の富の一部を美術品蒐集にあてた。これらは後に巨大資本の慈善事業(?)として大衆に公開される訳だが、ここにアメリカの保守的なコレクターと観者の土壌が形成されてゆく。一方、ビッグ・ビジネスの拠点として巨大化した都市、例えばアーモリ・ショーが巡回されたニューヨーク、シカゴ、ボストンでは人々に貧富の差が顕著となり、スラム街は病巣のように拡大し、人種差別や婦人選挙権運動という社会問題として転移してゆくのである。新聞、雑誌はこぞってこうした社会問題をとりあげ、世論に訴える大見出しと共に生々しい挿絵の掲載を怠らなかった。ここに報道画家なる一群の職人が登場する。アメリカ写実主義の伝統を踏まえた確実な技巧を駆使し、鋭く社会の現実を記録していったグループ、即ちジ・エイトはこうした報道画家の一騎当千のつわもの8人組であった。都市生活の諸相を主題として採上げ、感性が許容できる範囲で印象派やフオーヴィズムの色彩の扱い方を試行錯誤したロバート・ヘンライは「芸術のための芸術」Art for Art's sake を批判し、「世の中を反映した芸術」Art for Life's sake を称揚していたのだが、彼のこの思想は画商ウィリアム・マクベスの協力により、1908年のマクベス画廊におけるジ・エイトの旗揚げ展覧会として結実し、1910年、アンデパンダン展に際しての「・・・この世紀にあっては教養としての芸術とか、詩的感興のための芸術、あるいは芸術のための芸術といったものは全く無用の長物である。我々がまさに必要としているものは現代人の精神を表出させた芸術なのである。」という宣言文に繋がってゆく。

続く

 

 

(あらやしき・とおる 学芸員)

マン・レイ「スティーグリッツの肖像」

マン・レイ

「スティーグリッツの肖像」

 

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