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われわれの芸術家−橋本平八−

館長 陰里鉄郎

美術館の正面の階段をあがってくると、右がわにある背の高い欅の葉が黄色味をおびてきていました。「橋本平八と円空−木彫・鉈彫の系譜」展の最中に三重県立美術館は三周年をおえました。

橋本平八の全貌を示すことのできるような展覧会を開いてみたい、と考えたのは3年よりもっと前だったと思います。開館前の準備室のスタッフによって、橋本平八に関するある程度の調査がなされてはいましたが、この1年間にまたあらためて毛利学芸員を中心に本格的な調査をおこない、ようやく平八没後50年記念という形で実現することができました。このあいだには多くの人たちの協力をいただきました。美術館友の会の支援、とくにこのたびは、橋本平八の出身地伊勢市の方がたのご協力をいただいたことを記しておかねばならないと思います。ありがとうございました。「橋本平八と円空」展を観にきてくれた人たちのなかで、いく人かの美術関係者がつぎのようなことを言いました。今度の展覧会は、橋本平八についての最大の展観になっていること、平八のすぐれた才能がよく示されていること、そしてこの展覧会が三重県の美術館一館だけで終ることは残念であると。終ったあとで、ある彫刻家からいただいた書簡のなかには、「このたび橋本平八展を二度見ることが出来、たいへんうれしかったです。きまりや、約束ごとにしばられず、その先にスケールの大きさを感じさせられ、見知らぬ出来事にであったものです。」と書かれていました。そうだろうな、と私も思ったものです。一見、床の間のおき物のような小品の作品であれ、平八の作品には大きな造型の骨格が貫通している、その手ごたえを私も感じさせられていたからです。

伊勢の朝熊山の金剛証寺の奥に建てられている橋本平八の碑を見にでかけたのは3年前の夏でした。この碑が建立されてからすでに20年がたっています。建立に尽力された平櫛田中、今泉篤男の両先生もはや故人となられています。碑はひっそりと建っていました。

そしてまた、平八の遺書『純粋彫刻論』(昭和17年刊)の全ページを読みとおしてみました。その内容は、展覧会目録のなかの森本学芸員の論文に生かされています。奥付けのところをみると編者は北園克衛、出版社は昭森社、発行者は森谷均となっています。私はここで、あの東京は神田神保町で「神保町のバルザック」と綽名されていた特異な風貌の森谷さんの姿を想起せずにはおられませんでした。編者の北園さんはいうまでもなく詩人であり、平八の実弟にあたり、やはりこの出版社から詩集、評論集をだしています。私が昭森社へ出入りするようになったのは昭和40年前後からですが、北園さんと出会ったことはありませんでした。詩誌『vou』の戦後編や評論でその名を知っていたにすぎません。北園克衛を通しての、橋本平八と森谷均との組合せに私はある種の感動をおぼえるのです。

私的な回想はともあれ、開館3周年記念展を日本の近代彫刻史のうえでは孤立しながらも屹立した存在、私たちの彫刻家橋本平八を中心とした構成で実現しえたことに私はひそかに満足しています。

あるいはこのすぐれた彫刻家は、彼を生んだこの地域の多くの人びとにもこれまではなじみのうすい名前であったかもしれませんが、友の会の会員の皆さんはもちろんのこと、他の多くのかたも、この橋本平八を「われわれの芸術家」として親しく語りうるようになれば、と思うのです。

友の会だより no.10, 1985.11.15

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