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三重県総合博物館 > コレクション > スタッフのおすすめ > 東海名所改正道中記(庄野)(とうかいめいしょかいせいどうちゅうき(しょうの))

東海名所改正道中記(庄野)(とうかいめいしょかいせいどうちゅうき(しょうの))

資料名 東海名所改正道中記(庄野)
(とうかいめいしょかいせどうちゅうき(しょうの))
 
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資料番号 431
寸 法 縦 26.0センチ
横 18.4センチ
時 代 明治8年
材 質 和紙
解 説
 深まり行く秋。行楽シーズン真っ盛りです。テレビや雑誌で見る観光地の美しい風景の数々は、私たちを旅へと誘います。これだけ情報が発達し、高画質の美しい画像を居ながらにして見ることができる時代になっても、「旅」は人々の心をつかんで離なさないようです。ましてや、それが近世・近代といった時代ならばどうだったでしょう。印刷技術の発達とともに広く普及する読み物や浮世絵。それに描かれた全国各地の様子は、人々の心を見知らぬ土地へと駆り立てたに違いありません。 

 今回紹介するのは、そんな旅の様子を描いた浮世絵です。旅の絵といえば、歌川広重(初代)の東海道五十三次(保永堂版)が有名ですが、この「東海名所改正道中記」は、東海道の主要な宿場とその付近にある観光スポットを描き、更に文字で関連事項を記入してくれています。作者は歌川広重(3代目)で、明治8年の作品です。

 資料の右上で「庄野」の文字の下に記された「白島塚(志ら志まづか)」は、恐らく「鳥」と「島」を書き間違え、さらに文字の通りに読み仮名をつけてしまったものでしょう。「範頼の社」は、現在も石薬師寺の東に鎮座する「御曹司社」のことですが、その後の「佐々木高綱の乗りて宇治川にて先陣なしたりしとぞ」とは一体何を意味しているのでしょうか。佐々木高綱といえば、そこに書かれたとおり『平家物語』で有名な宇治川の先陣争いで梶原景季に勝った人物です。その人物がなぜ庄野の浮世絵に登場するのでしょうか。答えは『東海道名所図会』の庄野の項に記されていました。佐々木高綱が先陣争いで乗っていた馬は、源頼朝から拝領した名馬「生月(いけづき/生とも書く)」です。この馬の出生の地が、なんと庄野の東約20町(約2km)にあった植野村だったそうです。これは有名なお話だったのでしょうか。この絵と「佐々木高綱の乗りて‥‥」の文章だけでは、難解なクイズの設問のようです。

 さて、この作品が一見して明治時代のものとわかるのは、街道を走る人力車の存在です。当時急速に進んだ近代化の波は、旅の風景にも変化をもたらしました。菅笠や脚絆、振り分け荷物など、江戸時代から変わらない旅のいでたちに身を包んだ旅人は、団扇を片手に悠然と人力車に乗っています。つまり交通手段だけが「文明開化」されたというわけです。

 この東海道の宿場「庄野」の風景では、その象徴として白鳥塚と熊野権現が描かれていますが、この作品の完成後、新しい時代の流れは、これらの名所・旧跡にも変化をもたらせました。以前から古代史における悲劇のヒーロー“日本武尊命(やまとたけるのみこと)”の墓と考えられていた白鳥塚(現在は県指定史跡白鳥塚古墳)は、明治9(1876)年に明治政府から正式にその治定を受けます。しかし、たった3年後の明治12年には陵墓の改定によりその指定を解除されてしまいます。現在の亀山市にある能褒野王塚(のぼのおうづか)がそれにふさわしいと考えられたからのようです。白鳥塚が直径約60メートルの円墳(現在は帆立貝式と確認されている)であるのに対し、能褒野王塚が全長約90メートルの前方後円墳であることが理由だったのかもしれません。また、熊野権現は、この地の氏神である高宮明神(倭文神社[しとりじんじゃ])などとともに、日本武尊命の笠と杖を祭る御笠殿社(みかさどのしゃ)に合祀され、加佐登神社となりました。明治41(1908)年のことです。つまり、この作品に描かれた庄野を象徴する2つの風景は、明治政府のその後の政策によって変化を余儀なくされたものです。
 もちろん、白鳥塚の主も、また加佐登神社に鎮座する神々も、そんな俗世のことはどこ吹く風。今でも人々の厚い信仰に守られていることには何ら変わりはありません。(U)
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