松尾芭蕉の生涯(芭蕉没後)
ここでは、松尾芭蕉の生涯を世界や日本の歴史と照らし合わせながらご紹介しています。大きな世界規模の発見、時代の流れの中で日本がどのように影響を受け変化していくのかをご覧ください。
日本の出来事 | 世界の出来事 | |
---|---|---|
≪野ざらし紀行≫出版 1702年ごろ ≪奥の細道≫出版 1704年 【芭蕉門弟、内藤丈草没】 【芭蕉門弟、向井去来没】 1705年 【北村季吟没】 松尾芭蕉など数多くの弟子を育て82歳の生涯を閉じた。 1707年 【芭蕉門弟、宝井其角没】 【芭蕉門弟、服部嵐雪没】 1709年 ≪笈の小文≫≪更科紀行≫出版 【徳川綱吉没、生類憐みの令廃止、3800人を恩赦】 綱吉は1685年初めて生類憐みの令を出した。1687年以後にも繰り返し発令して、厳しく励行させ人々を苦しめていた。 |
1697年 【『昔々の物語り』出版 ペロー】 「眠れる森の美女」「赤頭巾ちゃん」「シンデレア」「青ひげ」「長靴をはいた猫」「仙女たち」「親指小僧」「まき毛のリケ」の8編が描かれた。 1699年 【悲劇詩人 ラシーヌ没】 1700~21年 【北方戦争】 ピュートル1世西方への進出を企てる。 1701年 【スペイン継承戦争】 イギリス・オランダ・ドイツ対フランス・スペインと戦う。度重なる戦でフランス王朝はその財政が次第に悪化していき、フランス全体の国力衰退へ、そして18世紀後半のフランス革命へと繋がっていく。 1702年 【イギリス 新旧東インド会社を合併】 |
|
1715年 【芭蕉門弟、森川許六没】 【海舶互市新令(長崎貿易制限新令、金銀の海外流出制限のため)】 新井白石は長崎貿易での金銀銅の流出を防ぐため、海舶互市新令を出し、オランダ船・清船の隻数、貿易高に制限を加えた。しかし海舶互市新令による銅450万斤の支払いは産出額の減少で不可能であった。その後、清船の入港隻数を減少させながら、俵物での支払いを増加させ長崎貿易は漸次衰退していった。 1716年 【与謝蕪村 誕生】 摂津国東成郡毛馬村(現・大阪市)に生まれた。 18世紀には俳諧は下火となり、俳人たちは発句の制作に力を注いだ。 蕪村は俳人であり優秀な画家でもあったためか絵画的な斬新で鮮明な俳句を数多く生み残した。蕪村の発句はによる風景は現実の風景というよりも理想化された風景を詠み表している。これは蕪村が目に見えている表面的な内容ではなく内に秘められた理想を表現しようとした事の現れだと思われている。 1718年 【芭蕉門弟、立花北枝没】 1721年 【吉宗、目安箱を設置】 目安箱への投書に基づいて「小石川養成所」を設置。医療活動を促進。 1724年 【近松門左衛門没】 今も残る歌舞伎の名作『曽根崎心中』の作者が亡くなる。 1731年 【芭蕉門弟、各務支考没】 1732年 【芭蕉門弟、杉山杉風没】 1736年ごろ 【芭蕉門弟、越智越人没】 1740年 【芭蕉門弟、志太野坡没】 1752年 ≪鹿島詣≫出版 1765年 【大一揆起こる】 関東の農民20万人規模。 1773年 【『明烏』几董編】 1774年 【『玉藻集』蕪村】 1783年 【与謝蕪村没】 |
1715年 【太陽王ルイ14世 死去】 1719年 【『ロビンソン・クルーソー』発刊 デフォー】 1726年 【『ガリバー旅行記』発刊 スイフト】 1740年~48年 【オーストリア継承戦争】 オーストリア女王マリア=テレジア、プロイセン王フリードリヒ2世がともに同じ年1740年に即位。対立へ。48年のアーヘン和約で、オーストリア王朝はマリア=テレジアが就く。 1747年 【フランクリン、電気を発見】 1748年 【『法の精神』 モンテスキュー】 1770年頃 【イギリス産業革命期に入る】 道具が機械へと進化し、人類は新たなエネルギー「蒸気」を手に入れる。 1774年 【『若きヴェルテルの悩み』 ゲーテ】 1775~83年 【アメリカ独立戦争】 1776年 【アメリカ十三州独立宣言】 1776年 【ワシントン、アメリカ大統領となる】 1789年 【フランス大革命起る】 「自由」「と「平等」の旗印もとに革命が起こる。このときナポレオンは中尉として革命にかかわり革命後に司令長官となる。 |