松尾芭蕉の生涯(壮年期)
ここでは、松尾芭蕉の生涯を世界や日本の歴史と照らし合わせながらご紹介しています。大きな世界規模の発見、時代の流れの中で日本がどのように影響を受け変化していくのかをご覧ください。
芭蕉年譜 | 日本の出来事 | 世界の出来事 |
---|---|---|
1674年 延宝2年 31歳 3月17日、北村季吟より俳諧論集『埋木』の伝授を受ける。 1675年 延宝3年 32歳 5月、江戸を来遊中の西山宗因を迎えて「宗因歓迎百韻」に参加。俳号を「宗房」から「桃青」に改める。 1676年 延宝4年 33歳 春、親友山口素堂とともに、天満宮奉納二百韻を行う。この頃は宗因風への傾倒が顕著に見られる。6月20日頃、伊賀上野に帰省。7月2日まで滞在の後、甥の桃印(とういん)を伴って江戸に戻る。 1677年 延宝5年 34歳 この年から4年ほど、小石川の水道工事の仕事に携わる。日本橋小田原町の小沢太郎衛門(俳号・卜尺)店に住む。冬、内藤風虎主催の「六百番誹諧発句合」に加わる。 |
1673~81年 【三藩の乱】 清朝は、呉三桂ら地方に割拠する軍閥を除こうとしたため、呉三桂は尚之信・耿精忠と結んで「三藩の乱」を起こす。 やがて、呉三桂は国号を周と称し自ら帝位についたが、戦局が悪化して行く中で、まもなく病死した。 1674年 【詩人ミルトン死】 |
|
1678年 延宝6年 35歳 この年、もしくは前年の春に俳諧宗匠(俳句における「師匠」のこと)として立机(プロの俳諧師になること)。立机披露の万句興行を催す。3月、京都から江戸に来ていた信徳、江戸の信章との三吟百韻を『桃青三百韻 付両吟二百韻』と題して刊行する。 |
1678年 【坂田藤十郎、大阪に歌舞伎を確立】 身分あるものが傾城と恋仲になり、 勘当されて落魄して苦労するという、きめ細やかでやわらかい芸風が特徴の「和事」が成立。初代坂田藤十郎はこれを得意とした。 |
1679年 【人身保護律】 イギリスの市民革命は王制を廃止するには至らず、王権の制限(権利請願、人身保護律、権利宣言、権利章典)、あるいは宗教的抑圧に対する反発(審査律)にとどまるものであった。 |
1680年 延宝8年 37歳 茅屋子編「俳諧関相撲」(実際は天和2年に刊行)の三都18人の宗匠の一人として名を連ねる。初夏、門下の人々の句を集めた『桃青門弟独吟廿歌仙』が刊行される。8月に宝井其角の「田舎句合」、9月に杉山杉風の「常磐屋句合」に加判(花押を加える)し、両書を合せて『俳諧合』として刊行。冬、深川の草庵に居を移し、隠棲生活に入る。 |
1680年 【徳川家綱死去。綱吉5代将軍に就任】 綱吉は徳川家光の四男、母は桂昌院。 |