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平成21年04月15日

俳句のくに・三重

松尾芭蕉の生涯(芭蕉を名乗る)

ここでは、松尾芭蕉の生涯を世界や日本の歴史と照らし合わせながらご紹介しています。大きな世界規模の発見、時代の流れの中で日本がどのように影響を受け変化していくのかをご覧ください。

少年期・青年期][壮年期][芭蕉を名乗る][芭蕉没後

芭蕉年譜 日本の出来事 世界の出来事

コラム:芭蕉を名乗る

1681年 延宝9年(天和元年) 38歳
春、門下の弟子・李下から芭蕉の株を贈られる。7月25日付谷木因宛書簡で、初めて「はせお」の署名を使用。7月下旬、其角らと『俳諧次韻』を刊行。また、この年の3月には高政編『ほのぼの立』に「当風」(現代風)の例句としてあげられた3 句の中に、芭蕉の「枯枝に鳥とまりたりや秋の暮」が入句。
1681年
【鉄眼の一切経成る】

隠元が中国から持ってきた一切経を、鉄眼が桜の版木に刻む。両面で1600字を刻み、版木は6万枚に及んだ。「明朝体」と呼ばれる字体は、この一切経の桜の版木文字が、その源となった。
 
1682年 天和2年 39歳
3月上旬、千春編『むさしぶり』で、初めて公に「芭蕉」の俳号を使用する。12月28日、駒込大円寺を火元とする大火(「八百屋お七の放火」)のため、芭蕉庵焼失。翌春、甲斐谷村に住む秋元藩国家老の高山伝右衛門(俳号・麋塒[びじ])宅に身を寄せる。
1682年
【井原西鶴「好色一代男」】

西鶴の代表作。浮世草子の最初のものであり,好色本の開祖。最初の版本。

コラム:ベストセラー生まれる

 
1683年 天和3年 40歳
5月、谷村より江戸に帰る。6月中旬、其角編『虚栗』が刊行される。 6月22日、母が郷里で死去(享年不祥)。冬、友人・知人らの寄進により再建された「芭蕉庵」に移る。
  1683年
【トルコ軍、ウィーンを包囲】

1684年 天和4年(貞享元年) 41歳
8月、「野ざらしを心に風のしむ身哉」の発句を作り、『野ざらし』の旅に出発。下旬に伊勢に達する。その足で9月8日、伊賀上野に帰郷。45日間滞在。さらに大和・吉野・山城を経て美濃大垣の木因を訪ねる。冬、熱田から名古屋に入り、岡田野水・山本荷兮らと歌仙五巻、追加表六句を作り、荷兮の編で『冬の日』と題し刊行する。12月25日再度伊賀上野に帰郷。そのまま年越しして、翌年2月まで滞在する。

コラム:旅への情熱

1684年
【安井算哲、貞享暦を作る。】

 
1685年 貞享2年 42歳
2月中旬、伊賀上野を出発、奈良・二月堂のお水取り行事を見物。その後、京・大津を行脚。3月、熱田・桐葉亭、鳴海・如風亭、知足亭にて俳席を重ねる。4月10日、鳴海を立ち、名古屋から木曽路・甲斐路を経て、4月末に江戸へ帰る。
  1685年
【フランス、ナント勅令】

アンリ4世がナント勅令を出してユグノー戦争を終結させる 。ナント勅令は個人の信仰の自由を承認し、新旧教徒の権利をするなど、画期的な勅令であった。
1686年 貞享3年 43歳
春、芭蕉庵で蛙の句ばかり集めた二十番句合を興行。仙化編で『蛙合』(閏三月奥)として刊行。有名な「古池や蛙飛こむ水のをと」はこの句集の巻頭に収められている。8月下旬、荷兮編『春の日』刊行。
   
1687年 貞享4年 44歳
8月14日、曾良・宗波を伴って常陸国鹿島の月見に赴く。同月25日、『かしまの記』完成。秋、『あつめ句』が編まれる。10月11日、其角亭で芭蕉送別の句会が行われる、同月25日、「旅人と我名よばれん初しぐれ」の句を作り、『笈の小文』の旅に出発。東海道を上り、鳴海・知足亭、熱田・桐葉亭、三河伊良湖崎畑村に蟄居する杜国を訪ね、再び鳴海、熱田、さらに名古屋の荷兮亭を経て、12月末に郷里・伊賀上野に到着する。翌年3月19日まで滞在。
1687年
【生類憐れみの令発布】

生母・桂昌院に勧められて貞享4 年に始めた。綱吉がイヌ年生まれに因み、犬を大事にするようお触れを出すが、その後あらゆる動物の殺傷が禁止される。 綱吉が亡くなるまで22 年間続いた。
1687年
【ニュートン「万有引力の法則」】

1688年 貞享5年(元禄元年) 45歳
2月4日、伊勢参宮。杜国と落ち合う。2月18日、亡父三十三回忌法要が生家で行われる。3月19日、杜国を伴い、吉野行脚の途につく。大和・紀伊・奈良などを経て大阪に入り、さらに須磨・明石をめぐる(『笈の小文』はここで終わる)。杜国と別れて京を出発後、大津から岐阜を訪ね、さらに名古屋・鳴海を訪ねる。8月11日、多数の美濃の門人に見送られて、名古屋から越人を伴って『更科紀行』の旅に出る。8月下旬江戸到着。9月10日、素堂亭で残菊の宴に招かれる。9月13日、芭蕉庵で十三夜の月見の宴を催す。
  1688年
【名誉革命】

イギリスの第2次ブルジョア革命。1660年の王政復古ののちチャールズ2世、ジェームス2世は絶対主義の復活をくわだてたので、これに反対する人々がジェームズの娘メアリの夫であるオランダ総督ウィリアムをまねき、ジェームズは戦わずして逃亡。ウィリアムとメアリが議会の提出した権利章典を承認して共同で即位した。
1689年 元禄2年 46歳
3月、荷兮編『阿羅野』の序文を著す。3月20日、曾良を伴い奥羽・北陸行脚、『奥の細道』の旅に赴く。8月5日山中温泉到着後、曾良と別れ、福井に至って旧知の隠士・等哉を訪ね、共に敦賀、種の浜に遊ぶ。8月下旬、美濃大垣着。9月6日、曾良・路通と共に大垣を出発し、伊勢の遷宮を拝む。9月下旬、伊賀上野に帰郷。12月24日、落柿舎で鉢叩きを聞く。その後近江膳所に赴き、年を越す。
1689年
【唐人屋敷を長崎に作る】

出島はオランダ人、唐人屋敷は中国人の居留地。これによって鎖国体制は実質的に完成された。
1689年
【ネルチンスク条約】

清とロシアとの間で国境が画定された。
1690年 元禄3年 47歳
1月3日、膳所を去り、再度伊賀上野に帰る。3月下旬頃再び膳所を訪ねる。4月6日国分山の幻住庵に静養のため入り、7月23日まで滞在。8月13日珍碩編『ひさご』刊行。8月中に、『幻住庵記』成る。一時大津に滞在後、再度膳所に戻り、9月末伊賀上野に帰省。12月初旬には京に滞在。年末には大津の乙州の新宅へ赴き、年を越す。
1690年
【昌平坂学問所創設】

湯島(東京都文京区)にあった江戸幕府直轄の教育施設。昌平坂に面していたので昌平坂学問所、または昌平黌(こう)とよばれた。
1690年
【大清会典成る】

行政法典
1691年 元禄4年 48歳
1月上旬、伊賀上野に帰り、3ヶ月間滞在する。4月18日嵯峨の落柿舎に入り5月4日まで滞在。『嵯峨日記』を執筆。その後京都の野沢凡兆宅に移り、6月10日再び大津の川井乙州宅に移る。この間『猿蓑』の編集を、去来・凡兆らと進める。7月3日、京都・井筒屋より去来・凡兆編『猿蓑』出版。蕉風の円熟した作風を世間に示す。9月28日木曾塚無名庵を出て、桃隣を伴って江戸へ向かって出発。10月29日江戸・日本橋橘町の彦右衛門の借家に到着。そのまま年が暮れる。
   
1692年 元禄5年 49歳
2月18日、菅沼曲水に宛ていわゆる『風雅三等之文』をしたためる。5月中旬、橘町より新築された芭蕉庵に引っ越す。8月9日、門人の天野桃隣の紹介により、彦根藩士森川許六が芭蕉庵を訪れ入門。8月中旬、『芭蕉庵三日月日記』完成する。9月6日頃、膳所の浜田珍碩(年末に洒堂と改号)が芭蕉庵を訪ね、翌年1月末まで滞在。年末にかけ多忙な毎日を送るものの、芭蕉は『かるみ』の俳諧に工夫を凝らし、新たな意欲を示す。
   
1693年 元禄6年 50歳
3月下旬、甥の桃印が芭蕉庵で没す。享年33 歳。5月6日、江戸在勤であった許六が彦根に帰国。『許六離別詞』を餞別に贈る。このころ芭蕉は桃印の死により、精神的にも肉体的にも気力を失っていた。『閉関之説』を書きしるした後、7月中旬より約1ヶ月間門戸を閉じ、人々との対面を絶つとともに、徹底した禁欲生活を送る。10月9日素堂亭で残菊の宴があり、其角・曾良らとともに列席する。
   
1694年 元禄7年 51歳
4月、『おくのほそ道』素龍清書本成る。5月、寿貞尼の子・次郎兵衛を伴って東海道を帰省の途につき、伊賀上野に到着。さらに大津の乙州宅を経て、嵯峨の落柿舎に移り、去来・洒堂・支考・丈草・惟然らと歌仙興行を行う。6月上旬、芭蕉庵で寿貞尼が没す。享年不祥。7月中旬過ぎ、京を出発して、盆会のため伊賀上野に帰り、滞在中に同じく伊賀上野を訪れた支考らと『続猿蓑』の編集を行う。8月15日、伊賀の門人より贈られた「無名庵」にて月見の会を催した後、9月8日、支考・惟然を同伴し、奈良を経て大坂に到着。直後体調は悪化し、以後衰弱の一途をたどる。10月8日夜更け、看病中の呑舟に「旅に病んで夢は枯れ野をかけ廻る」の句を代筆させる。翌10月10日、死期を悟ったのか、支考に遺書3通を書かせ、自らは兄半左衛門宛に1通をしたためる。10月12日申の刻(午後4時頃)大坂南御堂前花屋仁右衛門宅にて逝去。享年51歳。その夜、遺骸は川船にて淀川を伏見まで上り、翌13日、膳所の義仲寺に着く。14日夜、子の刻(午前0時頃)義仲寺の境内に埋葬される。門人80人を含む、300余人が会葬した。

コラム:「奥の細道」第2幕

   

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