宝永津波供養碑(馬越墓地の三界萬霊碑)

ほうえいつなみくようひ (まごせぼちのさんがいばんれいひ)


宝永津波供養碑(馬越墓地の三界萬霊碑)

指定区分

指定種別

有形文化財(歴史資料)

指定・登録日

市町

尾鷲市

所在地

尾鷲市北浦西町1520番

所有者

宗教法人 金剛寺

員数

1基

構造

碑:高149.0㎝、幅45.0㎝、奥行36.5㎝、砂岩製
基礎上段:高22.0㎝、幅82.0㎝、奥行69.0㎝、砂岩製
基礎下段:高11.0㎝(現高)、幅112.0㎝、奥行101.5㎝、砂岩製

年代

江戸時代(中期)
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関連資料

概要

 砂岩製、総高は182.0㎝。尾鷲市北浦町の馬越墓地に所在する櫛形の石碑である。碑の正面に「経塚 三界萬霊」とあり、左面・裏面・右面に宝永4年(1707)10月4日に起きた地震による山崩れと津波の規模や被害の状況、造立の主旨を記している。その銘文の末尾から正徳三年(1713)10月4日、紀北町船津に所在する永泉寺の師心が銘文を作成し、当時尾鷲市野地町にあった良源寺の住職である絶嵓(ぜつがん)が建立したことが知られ、宝永地震津波溺死者の七回忌に際し造立された供養碑と判断できる。近代になり、良源寺が廃寺になると、本碑の所有は金剛寺に移った。
 本碑に記された銘文によれば、宝永4年10月4日、大地震の後、津波が三方から押し寄せ、男女老若の溺死者が千有余人にまで及んだことを伝えている。同墓地内には、宝永4年10月4日が命日となっている供養塔があり、被害の大きさを物語っている。
 また碑正面の銘文によれば、本碑は「経塚」に伴う碑でもあったと考えられる。本碑の周辺から経石等が確認できれば、原位置を保っている可能性も大きくなると考え、その点も注意して現地調査を行ったが、発掘を伴わない調査では、本碑が造立時の原位置を保っており、「経塚」などの地下遺構があるかどうかを判断するまでには至らなかった。今後、碑の移動や修理が必要となった場合は、周辺も含めた十分な調査を行い、経塚や経石等が確認された場合は、改めて追加の価値判断を行う必要がある。
 本碑は、宝永の大地震とそれに伴う大津波という、三重県の歴史上、決して忘れてはならない重要な事象に関する遺品である。銘文から造立年代も明確で、内容から当時の尾鷲での被害状況を伝えている重要な資料である。

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