九鬼嘉隆墓
くきよしたかはか
指定区分 |
県 |
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指定種別 |
史跡 |
指定・登録日 |
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市町 |
鳥羽市 |
所在地 |
鳥羽市答志町字筑上805-7、806番地 |
所有者 |
鳥羽磯部漁業協同組合 |
員数 |
- |
構造 |
- |
年代 |
江戸時代 |
関係サイト | |
関連資料 |
概要 |
九鬼嘉隆は鳥羽の領主で、織田信長、豊臣秀吉に仕え、水軍を率いて活躍した。 慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで、嘉隆は石田方に、息子の守隆(もりたか)は徳川方についた。戦後、守隆は父嘉隆の助命を願い、その許しを得たが、それを知らせる使者が着く前に、嘉隆は鳥羽市の答志島で切腹したと伝えられる。 島にある「九鬼嘉隆墓」は、嘉隆の「胴塚」とされるもので、高さ約1.75mの砂岩製の五輪塔である。五輪塔の銘文は、嘉隆の孫で丹波国綾部(あやべ)藩主の九鬼隆季(くきたかすえ)が寛文九年(1669)に刻ませたものである。嘉隆の七十回忌に合わせた可能性もある。近くの山頂には「首塚」もある。 |
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