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青年団の活動で消滅−若者の男女交際の場「娘宿」


畔名村処女会表彰を紹介した「志摩郡公報」

畔名村処女会表彰を紹介した「志摩郡公報」


 今回は江戸時代以降、明治・大正時代にも見られた「娘組」の話題を取り上げてみようと思う。娘組は12、3歳以上の未婚女性によって構成された年齢集団で、かつては多くのムラに存在していたと考えられ、三重県では中・南勢地域から志摩・東紀州地域にかけて存在が報告されている。ただ、娘組とは民俗学的な用語であって、それぞれの地域でどう呼ばれていたかは明確ではない。
 特定の民家や納屋を娘宿とし、夕食をすませると娘たちが集合して、縄をなったり、草履を作ったり、裁縫などの夜なべ仕事をした。三重県では、この娘宿をネヤ・ネンヤ・トマリヤド・ワカヤ・アソビヤという。ネヤ・トマリヤドという言葉からもわかるように、娘宿の中には夜もそのまま宿泊するところがあった。宿を提供した家の主人や主婦が宿親として娘をしつけ、配偶者選びの助言者にもなった。伊勢市有滝にあったワカヤでは、宿の主婦をツボネといい、娘たちのよき相談係であり、監督者であった。そして、嫁入りの際は第二の母として媒酌人となったようである。
 また、娘宿は若い男女の交際の場であった。例えば、ムスメアソビといって、同じムラの若者たちが連れ立って娘宿を宿親の了解のもと訪れ、娘たちの仕事を手伝いながら談笑した。その中で一組のカップルが自他ともに認められると、宿親が話をつけて正式な婚姻関係に発達したという。
 さらに、ヨバイといい、若者が夜分娘宿に行き、意中の娘の寝床に入り、もし気持ちが受け入れられれば婚姻関係が成立するというものもあった。この場合のヨバイとは、俗に言われるような、男性が女性の寝床に忍び込んで情交を結ぶというものとは違った。若者は自分の親にヨバイの相手を相談し、宿親や娘も承知したオープンな配偶者探しの手段であった。しかし、全く夜遊び的なヨバイもなくはなかったらしい。1974(昭和49)年に発行された雑誌(「言語生活」270号)に「志摩の故老の寝宿とヨバイの話」という、取材テープを起こした文章が掲載されているが、思い出を語る話者は、ヨバイは若者の夜遊びの一種で、若者は2人か3人はナジミ(結婚していないが、男女関係にある相手)がいたという。
 さて、こうした娘組は、当時の女性が早婚であったことや奉公や都会の工場へ働きに出るなどの要因によって、姿を消していったとされている。しかしながら、それらの要因だけではなく、明治後半期以降の社会教育や地方改良運動の進展に伴って娘組が消滅していったのである。
 特に明治後期から大正期にかけて、各地に青年会(青年団)や処女(しょじょ)会が発足した。これは品行方正な若者を育成することを目的とし、かつての娘組については、きわめて批判的であった。当時の社会で貞操観念の欠如などが問題となり、娘宿がその温床とされたからであるが、批判的な資料の例をあげてみると、いくつかある。
 1911(明治44)年、志摩郡畔名村(現志摩市)処女会が郡長より表彰を受けたが、会の決議実行事業には「寝屋ニ行カサルコト」という項目が見られる(「志摩郡公報」)。また、越賀村(同)でも、大正時代まで娘宿が存在したが、名古屋の新聞により貞操観念がないと非難されたことを機に、青年団長の指導でアソビヤが廃止されたという報告もある。
 さらに、18年(大正7)年、船越村(同)処女会の第17回幹部会での会長の修養講話においても、会員に寝屋に泊まらず、自宅で起臥(きが)するよう自覚を促している。
 なお、娘宿の廃止について抵抗があったことも事実で、前述した有滝ではワカヤの存廃をめぐって青年団内部が二分したが、結局は消滅していったという。
このように、古い習俗・慣習は近代的な方策や思想が普及していく中で消滅していったが、若者組や娘組に限らず、かつて行われていた民俗学的な事象の記録や資料に注目して三重の歴史を見ていくことも重要であると思う。

(県史編さんグループ 石原佳樹)

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