トップページ  > 続・発見!三重の歴史 > 消えゆく古い写真や絵―久居のランドマーク「一本松」の伐採

消えゆく古い写真や絵―久居のランドマーク「一本松」の伐採


旧久居町の広報誌『時の鐘』に掲載された一本松

旧久居町の広報誌『時の鐘』に掲載された一本松


 2004(平成16)年2月、久居のシンボルとして親しまれていた一本松が伐採された。3年前の01年11月、国道165号線を東に向かって走っていたトラックが一本松に衝突した。根が持ち上がるほどの衝撃で、応急手当はしたものの、以後、樹勢が急速に衰え、とうとう松を切ることになった。しかし、引受け手がいない。「久居藩時代からの松で、切ったりすると祟りがある」という言い伝えが残っていたからだ。筆者も子どもの頃、「近くに藩の処刑場があって罪人の首をこの松の枝に曝したことから怨霊が乗り移っている」とか聞かされたことがある。やっとのことで市内の業者に依頼して伐採した。そのときの様子が新聞各社によって「樹齢400年の一本松伐採」などと写真入で大きく報道された。しかし、実際に年輪を観察すると100年程度のもので、明治の後半に植えられたことになるが、いつの間にか「樹齢400年、怨念の松」になってしまっていた。久居藩時代の一本松に関する史料は見られない。風評が一人歩きした結果である。
 一本松の前にあるタバコ店の場所は戦前まで走っていた軽便鉄道「寺町停留所」であった。店番の方も「私の小さかった頃、軽便はかすかに記憶に残っている。そのとき既に松は大きく枝を張っていた。切り倒されて寂しい限りだが、松はなくなっても地名はそのまま残っている。バス停・一本松なら誰もが知っている愛着のある名称だ」という。
 町の風景はどんどん変わる。道が拡がり、新しい建物ができ、生活が便利になるのは大変良いことだが、当時の写真や地図などの記録が失われていることが多い。
 前述の軽便は、『鐵道省文書』などによれば、1909(明治42)年、大日本軌道伊勢支社の路線として津の岩田橋から久居まで開通し、その後、久居町の小屋光男らが20年に中勢鉄道株式会社を設立し、大日本軌道の津―久居間の譲渡を受けた。22年には路線を大仰(現・津市一志町)まで、25年には二本木、川口(現・津市白山町)まで延長したが、43年(昭和18)に廃業となったことがわかる。乗客は、一本松を車窓から見ているはずだが、記憶は曖昧となる一方だ。昭和初期に、この軽便鉄道を背景に現代版東海道中膝栗毛とでもいうような映画が撮影され、久居駅前から一本松まで撮っているという。撮影風景を見たという人もいるが、正確な題名や映画会社、あらすじや出演者名を知る人はいない。どこかにフィルムが残っていないだろうか。当時の一本松の姿をぜひ見たいものである。
 挿図は、岩中徳次郎(1897年〜1989年)が一本松を描いたスケッチで、旧久居町の広報『時の鐘』第16号(1954年2月15日付け)に連載中の「久居新風物詩」の一齣である。岩中は、海外でも高く評価されている抽象画家の一人で、彼は和歌山出身で郷里や大阪で美術の教師をしていたが、1943年に志摩へ疎開、戦後も鵜方(現・志摩市)や津に住んだ。48年第1回三重県総合美術展に出展し、知事賞を受賞した。その後、53年から約3年間は久居町に居住。画業を続ける傍ら、56年に神奈川へ転居するまでの間、三重県美術展の審査員なども歴任している。岩中の50歳代後半は作風が具象から抽象へ変わる転機の時代でもあり、久居の数年間とも重なる。その意味でも、『時の鐘』に連載された絵と文は貴重な資料である。
 今、戦後復興期から高度経済成長期が熱く語られるようになってきた。子どもの頃、間違いなく見た風景や生活の一齣が歴史資料となり始めている。一本松もカメラや絵の愛好家の被写体にもなっているはずだ。ある介護施設の方から、認知症の患者のケアにその老人の過ごした地域の古い写真を利用して効果を上げているとうかがったことがある。古い写真や文書などの記録類は、処分してしまってからでは遅い。その背景など調べ、保存に関心を持って対処することが大切ではないだろうか。

(県史編さんグループ 田中喜久雄)

トップページへ戻る このページの先頭へ戻る